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吉村萬壱 『前世は兎』 : 「何なの、この下らない世界は」

書評:吉村萬壱『前世は兎』(集英社)

最初に読んだ『ボラード病』にすっかりいかれたものの、私は、吉村萬壱の良い読者ではなかったようで、『回遊人』以外の単行本化された小説はすべて読んでいるが、必ずしも趣味に合うわけでもなければ、ピンと来るものがあったわけでもなかった。しかし今回は「どうせ今回も合わないだろう」と思いながらも、ひさしぶりに読んでみる気になった。結果としては、けっこう面白かった。
まず、以前の作品ほどの抵抗感がなく、作品の世界にすっと入っていけた。その世界とは、少し狂っていてグロテスクではあるものの、どこか静謐さをたたえた、薄暗い悪夢のような世界だった。

登場人物たちは、多かれ少なかれ、狂っていたり歪んでいたりする。だが、そんな彼らを取り巻く世界は、もっと狂っており、彼らの世界に対する嫌悪や批判は、しごく真っ当なもののように感じられて、抵抗はない。
しかし、それにしても、この狂った世界は、私たちのこの世界より異常であるかと言えば、そうとも言えないのではないか。我々の住むこの現実の世界の方が、よほど狂っているように思えるし、その世界のなかで平然と生きている私たちは、作中の語り手たち以上に狂っているのではないかとも思える。

本書の前に読んでいた本は、クラウス・フォン・シュトッシュという、キリスト教神学者の書いた『神がいるなら、なぜ悪があるのか 一一現代の神義論』(関西学院大学出版会)という神学書だ。私はクリスチャンではないのだが、趣味でキリスト教を研究している。「なぜ人は、神の存在を信じることなど出来るのか?」という疑問からだ。
同書のタイトルにある「神義論」とは「神の正しさを証する議論」という意味であり、タイトルどおり「神がいるなら、なぜ悪があるのか」というクリスチャン、非クリスチャンを問わない当然の疑問に対して、神の正しさを立論しようとするものである。
「神義論」というものは、もともと「キリスト教の自己弁護論」であり「護教論」であるから、非クリスチャンの呵責のない視点から読むと、感心できる本というのは滅多にないのだが、シュトッシュの議論は、そうした過去の「神義論」のどうしようもない部分を乗り越えようとする誠実な努力に貫かれており、めずらしく感心でき好感の持てる本だった。
だが、それでも本書を読みながら思ったのは、人は「意味」に憑かれた生き物だという点だった。

表題作「前世は兎」の語り手は、人間に生まれ変わりながら、兎であった前世の記憶を持つために、人間の「分節化され意味化された世界認識」に違和感を表明するが、たしかにすべての生物の中で、人間の世界認識ほど異様なものはないであろう。その異様さの中心にあるのが、たぶん「意味」だ。
人間は、進化の過程で世界を分節化して意味化し、詳細に把握することで世界を効率的に利用できるようになった。そして、この地上の覇者になった。「意味」こそ、人間の生み出した、最大の武器であったのだ。だが「意味」とは「実在」するのだろうか?

シュトッシュは大胆にも、神の実在を理性的な思考によって証明することは出来ないと言う。しかし、神がいなければ、人間はこの世界で「正しく生きる」根拠を失うのではないか。この世界は元来無意味であり「善も悪もない」という認識を持つしかないのではないか。ならば、人はどのようにして希望を持って生きていけよう。そう考え、そこにこそ神の存在の神義論的突破口を探ろうとしている。

たしかに、そうだ。この世には「善も悪もない」「意味などない」と言ってしまうことは簡単だ。だが、それでは「力によって意味をでっち上げた者が勝ちだ。即ち正義なのだ」という考えが当然出てくるし、現に今のこの世の中は、そのとおりになっている。

だが、そんな世界は狂っている。「意味」に憑かれた我々も狂ってはいるだろう。だが「意味」に憑かれていながら「意味」を見失った世界は、もっと狂っている。そんな世界に、私たちはやり切れなさを感じるのだが、本書に収められた作品には、この度しがたい世界への押し殺された嫌悪と諦念にも似た怒りが満ち満ちている。

やはり、吉村萬壱という作家は、今の時代と誠実に対峙している作家なのだ。

初出:2018年11月8日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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