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吉村萬壱 『死者にこそふさわしい その場所』 : 奇妙な人たちの 〈極楽浄土〉

書評:吉村萬壱『死者にこそふさわしいその場所』(文藝春秋)

「折口山町」に住む、奇妙奇天烈な人たちを描いた連作短編集。

あいかわらず「変な人」たちを描いているが、今回は以前の作品ほど、その奇妙さや異常さがエスカレートしてはいかず、奇妙な人たちは奇妙な人たちなりに、自分たちの生活を大過なくすごしていて、個々の奇妙さよりも、むしろ町全体の醸す「くすんだレトロさ」みたいな落ちついた味わいが、独特の印象に残る一作となっている。

本書刊行に合わせたインタビュー『〈吉村萬壱インタビュー〉「人間のこと、ちょっと好きになってきたのかもしれません」〈祝!デビュー20年〉』(読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア「本の話」2021.08.25)によると、本作の舞台である「折口山町」は、勇壮なだんじり祭りで有名な大阪・岸和田市をモデルとしているそうで、吉村は次のように語っている。

『僕は祭りみたいな、人が熱狂するものはあまり好きじゃなくて、むしろちょっと怖い感じがするんですね。でも、そのメンタリティは面白いなと思うんです。折口山の人達が祭り狂いなのは、そういう日本人、もっと言えば人間の変なところを具現化したかったから。』

吉村萬壱は現在、岸和田市の隣の貝塚市在住だが、生まれは愛媛県松山市、育ちは大阪市と大阪・枚方市だそうだから、岸和田の気風に合わないのも致し方ないところだろう。かく言う私も、大阪・豊中市の生まれ育ちで、上品ぶるつもりはないが、岸和田のだんじり熱狂には、まったく馴染めない。まあ、大阪においても、岸和田は特別なのである(中沢新一が、岸和田は「海人」の血筋だろうと指摘している)。

それにしても、私は「熱狂」そのものが嫌いなので、吉村のようにそれを『面白いな』とは思えない。一方で、それを『ちょっと怖い』とも思わない。
岸和田市民を馬鹿にするつもりはないのだけれど、私は「熱狂」というのがとにかく大嫌いで、「祭り」をはじめとした「群れて大騒ぎする」類のもの一般が嫌いな、徹底した個人主義者なのである。だから、祭りの「熱狂」は、嫌悪感すら覚え、傍目に「アホくさい」としか思えないのだ(くりかえすが、馬鹿にするのではなく、体質的に合わないのであり、これが正直な実感なので、どうかご容赦願いたい)。

また、同じインタビューで、吉村は『僕ね、宗教が好きなんですよ。宗教って、わりとどんなことでも、その教義の中に理論づけすることができるんですよね。少し関連本を齧れば、あっという間にでっち上げの宗教を組み立てられる。』と語っている。つまり、「宗教」を馬鹿くさいものだと思いながらも、惹かれると言うのだが、このあたりがまた、私と真逆だ。

私も「宗教は、願望充足的フィクションだ」と公言し、批判している。その意味では「宗教」を馬鹿くさいものだと思っているけれども、吉村のように「好き」ということにはならない。当たり前に「嫌い」なのだ。宗教にある「非理性的熱狂=妄信」に嫌悪を感じるのである。

さて、このように比較してみると、吉村萬壱という人のユニークさと、その「わかりにくさ」の所以が、見えては来ないだろうか。
そう、吉村萬壱は『好き』じゃないものや『ちょっと怖い感じがする』ものを、避けたり嫌悪したりするという「当たり前の反応」をするのではなく、むしろそうしたものに、惹かれ、魅了される人なのである。つまり、感性が「倒錯的」なのだ。だから、私のような「普通の人間」には、どうにも掴みきれない部分が残ってしまう。

吉村の感性が「倒錯的」であり、「嫌悪を感じるもの」「怖いもの」といった、本来「忌避すべき」対象に、逆に惹かれてしまう人だというのは、吉村萬壱読者には常識に類する話だろう。だが、その感性がどういうものかというのを言語化しなければ、吉村萬壱を論じたことにはならない。吉村萬壱が吉村萬壱なのは、初手から知れた話だからだ。

では、吉村萬壱独特の「倒錯性」とは、どういうものなのか。一一それは「かさぶたを剥がす」感覚である。

吉村作品には「皮膚炎の部分を掻き毟る」といった描写がしばしば登場するが、これが吉村萬壱の基本的な性向なのではないだろうか。
「やってはいけないこと」とわかっているのに、やってしまう。いや「やってはいけないこと」だと知っているからこそ、逆に、それに魅了されてしまう。
例えば「ウンコは汚い」から「触ってはいけない(触りたくない)」というのが普通の感性なのだが、吉村萬壱の場合は「禁止」されているものを「侵犯」することに、並外れて「魅力」を感じてしまうのだろう。

それは、ジョルジュ・バタイユが剔抉したところの「エロティシズム=死への最接近」の、ひとつの表現形態なのかもしれない。自分を汚染し、殺してしまうものかもしれないからこそ、それに対して「汚染される私」「死ぬかもしれない私」という「非日常的な感覚=死への接近の感覚」に惹かれ、そこに得難い陶酔の所在を見るのである。したがって、吉村萬壱の作品の多くが「極端な倒錯」に走るというのは、理にかなっている。

しかし、本作ではその「極端に走る」という傾向が影をひそめているのだが、その点について吉村本人は『人間がちょっと好きになってきたのかもしれません』と語っているが、一一はたしてそうなのだろうか。

私は、吉村萬壱という、ある意味では「純文学の前衛」だった作家が、歳を重ねて、ある意味で「丸くなった」あるいは「枯れてきた」ということではないのかと思う。それは、良し悪しの問題ではなく、事実としてそうではないかと思うのだ。

吉村萬壱という作家の「極端さ」や「毒」を好む読者は、吉村のこうした変化を好ましくは思わないだろう。だが、吉村萬壱は、決して「正常」になったわけではない。
むしろ、「猛毒にしびれる」ことを求め続けた(ある意味で普通の)人が、「猛毒を深く静かに味わうことができるよう」になった、ということなのではないだろうか(「薬物依存者が、薬物愛好家に成長した」「受動的快楽主義者が、主体的快楽主義者に成長した」とでも言おうか)。

「猛毒を飲んでしびれている人」が変態なのか、「猛毒を静かに味わう人」が変態なのか。一一それは所詮、評者の価値観によるとしか言えないのではないか。

その意味で、より正確に言えば、吉村萬壱は「枯れてきた」「落ち着いてきた」と言うよりも、むしろ「一周まわって」、その変態性が「悟りの境地に近づきつつある」と言えるのかもしれない。

そして、つまらなくノーマルは私が、吉村萬壱に惹かれるのは、その「わからなさ」をわかりたいという、度し難いノーマルさ故なのだと思う。

初出:2021年9月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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