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吉村萬壱 『うつぼのひとりごと』 : 気になる〈彼〉と、 私の違い。

書評:吉村萬壱『うつぼのひとりごと』(亜紀書房)

吉村萬壱は、私にとっては、とても気になる存在である。

最初に注目したのは、評判作『ボラード病』を読んで、とても感心したからなのだが、私の『ボラード病』評価は、今となってみれば、やや的外れだったかもしれない。
と言うのも、当時の私はこの作品を、一種の「叙述トリック」的な技法の冴えた「社会的テーマ」の生きた作品だ、と評価していたからだ。

同作を、そのように読んで高く評価した人は少なくなく、その意味では、読みとしては決して間違ってはいないのだが、少なくとも「作者の意図」は、そこにはなかったのではないかと、吉村萬壱の著作をいろいろと読んで、今はそう考えるようになった。
要は、吉村萬壱にとっては「描写にこそ本質があり、テーマは偶有的なものでしかない」のではないかと評価するようになったのであり、当然それは『ボラード病』についても同じことだったはずなのだ。

私が、テクニカルで意図的なものであろうと評価した、『ボラード病』における「グロテスクな描写」は、決して「テーマ」を物語終盤まで隠しておくための「意図的な技法」だったのではなく、むしろこちらこそが「吉村萬壱の本質」だったのではないか。だとすれば、私は吉村萬壱を誤解していたことになるのだが、では、私が惹き付けられた『ボラード病』の魅力とは、吉村萬壱のいったい何に由来するものだったのだろうか。
一一このようにして、吉村萬壱は、私にとって「気になる存在」であり、惹き付けられる「謎」となったのだ。

私は、吉村萬壱が好む「グロテスクなもの」や「汚れたもの」が、好きではない。
むしろ、その真逆で、私は「硬質で乾いたもの」が好きであり、「洗練されたもの」が好きなので、「汚れたもの」は好きではない。むしろ嫌いだ。

その一方、私は「過剰なもの」が大好きである。
たしか、奥泉光が、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などを評して言っていたと思うのだが、「過剰なものこそが面白い」という意見には大賛成で、私は、小栗虫太郎や大西巨人、ドストエフスキーといった、過剰で濃厚な作風の作家が大好きである。
だから「グロテスク」も「不潔」も興味がないわけではなく、例えばネットで「スカトロ」画像を検索してみて「なるほど、これは強烈で興味深い」とは思ったものの、それで抜けるようになったわけではなく、ひととおり確認すれば、納得して興味を失ってしまった。やはり、本質的に、そういうものは「趣味ではない」のである。

ここでの大切なポイントは、私の場合「趣味ではない」ものについても、いちおう「ひととおりは確認」しないでは気が済まない、という事実である。つまり、好き嫌いに関係なく、よく知らないもの、わからないものを、知らないまま、わからないままに放置しておくことがなかなか出来ず、最低限、ひととおりは確認して、それなりに納得しないでは気が済まない性格なのだ。
だから、吉村萬壱についても「この吉村萬壱という、よくわからない人とは、いったいどういうものなのか」と、その著作のほとんどを読んでまで、確認せずにはいられないのだ。

このような点では、吉村萬壱が本書で指摘している、

『 小説を書くとは、ひょっとすると何か新しいものを付け加える作業ではなく、気になることをこの世界から一つ一つ消していく作業なのではないかと。文字に置き換えることで、気になる事柄を塗り潰しながら消していくこと。確かにその方が、文字に意味を求めない自分にはふさわしい気がして、私はこの発見に大いに嬉しくなった。』(P29)

という言葉には、大いに共感できた。

吉村萬壱は、ここでそれを「小説を書くこと」に限定して語っているのだが、私の場合は「知ること」「理解すること」「書くこと」の根源にあるのは、すべて『気になる事柄を塗り潰しながら消していくこと』なのではないかと思うのだ。そして、私にとっては、吉村萬壱という存在もまた、そういう存在なのであろう。

思えば、私には「整理癖」が強くあった。未整理のまま、そこいらへんにあれこれが放置されている状態が、私は好きではないので、そうしたものを一つ一つ採り上げては分類し、整理棚の適切な位置に収めて、部屋を整理整頓した状態にする。それが私のやっていることの本質なのではないかと思えるのである。

このように、吉村萬壱と私には、似たところもあるけれども、真逆に近いところもある。
多くの場合、人は「似たもの」に惹かれる傾向が強いし、無論そうした傾向は私にもあるのだが、私には強い「整理癖」があるので、「似ていないもの(理解しにくいもの)」を、そのまま放置して無視するということが、なかなか出来ない。

例えば、私が「時間の無駄」だと理解しながらも、長年にわたってネット右翼とのケンカを繰り返すのも「なんでこいつら、こんなにバカなの?」という「謎」があって、それをどうしても解消できないからではないだろうか。
「バカは、バカだからバカなんだよ」というのは、なるほど正論だとは思うものの、そういう「トートロジー(同語反復)」では、どうしても納得ができないせいで、目の前に彼らが現れると、昆虫を目の前にした子供が、それをどうしても無視できないのと同様に、つい手を出して、かまってしまうのではないだろうか。

ネット右翼と一緒にするわけではないが、私が吉村萬壱に惹き付けられるのも、それは、彼がどうしても理解しきれないからであって、彼が惹かれるものに惹かれるからなのではない。
私は、「グロテスクなもの」や「汚れたもの」に惹かれはしないが、そんなものに惹かれてしまう人としての吉村萬壱という「謎」には、どうしても惹かれてしまい、彼の小説作品にしばしば不満を表明しながらも、やはり懲りずに、彼の新刊を手に取ってしまうのである。

しかし、これはこれで、吉村萬壱の言う『気になることをこの世界から一つ一つ消していく作業なのではないかと。文字に置き換えることで、気になる事柄を塗り潰しながら消していくこと。』なのではないだろうか。

吉村萬壱は、まだまだ私にとっては解消しきれない「好みではなくても、魅力的な謎」でありつづけそうだ。

初出:2020年8月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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