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平方イコルスン 『ふたりで木々を』 : クセの強い愛しき友情

書評:平方イコルスン『ふたりで木々を』(白泉社)

まさに傑作集である。
平方イコルスンは、一貫して「友情と孤独」を描き続けてきた作家だ。

それはしばしばコメディとして、ごくまれに悲劇として描かれたりもするが、そこで語られていることは一貫している。
主人公である少女たち(まれに少年)は、「友情」を求めているだが、それは「美しい友情」などではなく「手応えのある友情」だ。なぜならば、「美しい友情」というのは、しばしば儚いものであり、失われてから「美しい」ものとして想起されるようなものであることが多いからなのであろう。

だが、平方イコルスンの描く少女たちの求めているのは、そんな「気分的で自己満足的なもの」ではなく、確かな「手応えのある友情」だ。
それは「ここ」からどこへも行かないし、行かせるわけにはいかないから、ぎゅっと手をつないで、時には抱きしめて、それをどこにもやらないようにひき留めておかねば気の済まないような、そんな濃厚な友情である。

(カバー下表紙背面画)
(カバー背面)

平方イコルスンの作品は、どうしてその大半がコメディなのか。一一それはたぶん、笑って誤魔化しでもしないかぎり、その切迫感の濃厚さが、恥ずかしいからである。

こんなにこんなに大好きで、ずっとずっとそばにいてほしい。一時たりとも、どこへも行かないでほしい。ずっと、私の視野の中にいて、私が視線を向ければ、必ず視線を返して、私のためにニッコリと微笑んでほしい。一一そんな度しがたく暑苦しい友情である。

だからこそ、冗談めかせないわけにはいかない。でないと、きっと「変な人」だと思われてしまう。
いや、私はきっと、変な人なのだろう。それはかまわない。あなたさえ、そんな私を認めてくれるのなら、他の人がどう思おうとかまわない。だからだから、あなただけは、ずっと私のそばにいて、私の親友であってほしい。一一そんな、暑苦しくも「クセの強い友情」なのだ。

だから、平方イコルスンの描く少女たちは、過剰なまでに表情ゆたかであり、それでいて、滅多なことでは笑わないし、むしろ「無表情」であることが多い。

(P107「かつて」より)

表情が豊かなのに「無表情」が多いとはどういうことなのか。
それは、あまりにも「過剰な感情」を隠すために、表情を押し殺した「無表情」であることが多いからだ。そこには、「感情がない」のではく、むしろ感情が「ハッキリと隠されている」のである。
彼女たちの「無表情」は、空っぽなのではなく、いつだって「一物ある」無表情なのだ。そうしないことには、感情が溢れすぎて、始終「顔面崩壊」しては、コワイような顔になってしまうに決まっているからである。

(カバー下表紙画)

だから「言わなくても、わかってほしい」と彼女たちは思っている。だからこそ、彼女たちの会話は、肝心なことには一切ふれないようにして、むしろ本当の気持ちを隠すかのように、話題はどんどんとあらぬ方向へと逸れていく。
一一それでも、その気持ちだけはどこかで伝わっている。それはそうだ。それほどまでに濃厚な感情を込めた会話なのなら、もはや話の内容など、オマケみたいなものでしかないからである。

ひとつだけ作品にふれておこう。表題作短編「ふたりで木々を」である。さすがの傑作だ。

二人の女子中学生が、林だか森だかの中にいて、片方が、ふた抱えもある立派な立ち木の幹に抱きついている。
いや、抱きついているのではない。彼女は、その木を力づくで引き抜こうとしているのである。だが、当然のことながら、立ち木は、びくともしない。
そこで、その様子をそばで見守っていた友達の女子中学生が、「もしかしてだけど」という前置きをして遠慮がちに「最初はさ… もっと細くて薄い…抜きやすい木の方がよくない?」と助言をする。
すると、木をひき抜こうとしていた方は、先々のことを考えれば、最初から人が驚くほどの木を抜かなきゃいけないんだ、と言う。なぜなら、彼女は「立ち木を引き抜いて見せる女」として有名人になり、安寧な生活を手に入れようとしているからだ。だから、徐々に太い気が抜けるようになっていきましたというような「生ぬるい話」ではダメなのだ。「あいつは最初からケタはずれだったんだ」と、人々をして驚かせしめ、追随することなど誰にも不可能なのだとそう思い知らせてこそ、彼女は永遠のオンリーワンになれるのだし、そうならなければ、自分の地位は保証されたものにならない。だから、最初から太い木をひき抜く必要があるのだと、そう力説するのである。

(P81「ふたりで木々を」より)

そんな彼女の「野望」に圧倒されつつも、ひかえめな友人の方は、そんな友達に助力をしようと脇に控えて、助言をしたりしているのである。
一一ところが、立ち木をひき抜くなどという途方もない「野望」など持たない友人の方が、うっかり別の太い立ち木をひき抜いてしまう。その気などなかったのに、助言のための参考にもなろうかと、ついうっかりと。
当然のことながら、このことによって二人の友情は、大きな危機に直面してしまうのだが…。

見てのとおり、「ばか話」である。
だが、彼女たちは、どちらも真剣だし、特に「見守る」立場のはずだった少女の、もう一方の「立ち木少女(佐竹)」への友情はハッキリとしている。
無論、「立ち木少女(佐竹)」の方だって「見守る友達」への友情は持っているのだが、ひとまず今の彼女は、自分のことで精一杯であり、友人の気持ちにまで配慮している余裕がない。それほど、未来に不安を抱えているお年頃なのだ。

ともあれ、思いもよらず、「見守り少女」の方が立ち木を引き抜いてしまったことで、ふたりの友情は危機に直面する。
一一だが、その危機の到来によって、おとなしく、やや表情にとぼしかった「見守る友達」の感情が噴出して、ふたりはお互いの友情を再確認することになる。

「ふたりで木々を」、抜いてはまた植え戻すということで、ずっと一緒にやっていこうと。

(2024年5月26日)

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