吉野源三郎 『君たちはどう生きるか』 : 宮崎駿ではなく 『けものフレンズ』なのだ!
書評:吉野源三郎『君たちはどう生きるか』 (ポプラポケット文庫)
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のレビューである。
だが、宮崎駿ではなく、『けものフレンズ』なのだ。
一一どういうことか。
もともと、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』には、興味がなかった。
私は、高校までは活字本を読まなかった「活字奥手」だから、この本の存在を知った時には、すでに大人だったし、大人になった時には、すでに重度の活字中毒者で、読みたい本が山ほどあったため、今さら児童向けの啓蒙書を読もうとは思わなかった。
しかし、先日、宮崎駿ひさびさの新作長編アニメ『君たちはどう生きるか』が公開されたので、このアニメーション映画の「原作」ではないにしても、宮崎が同名新作を作るきっかけになったという、吉野源三郎書の方も気にはなった。
要は、本書がどういったところで宮崎駿に影響を与えたのか、宮崎の同名作品に、どのていど影響を与えているのか、そのあたりを知り合いと思ったのだ。
宮崎の同名作を観れば、レビューを書く予定だったし、その際には、吉野源三郎の同名書も読んでおいた方が、参考にもなるし、論じやすいだろうと考えたのである。
だが、結果としては、宮崎作品を観てレビューを書いた後に、本書を読むことになった。
どうしてかというと、宮崎作品を観る前に、本書を「どうしても読んでおきたい」とまでは、思わなかったからだ。新刊を買ってまで読む気はなく、古本で手に入ったのが今になったため、結果として、宮崎のアニメ映画を観た後に、吉野書を読むことになった。また、そのため、オーソドックスな岩波文庫ではなく、「ポプラポケット文庫」になったのである(なお、マンガ版は論外であった。活字の代わりを、マンガやアニメで果たすことはできないからだ)。
本書、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読んでみると、「やはり、宮崎作品の内容に、直接的な影響を与えているわけではない」というのが確認できた。
私は、宮崎版『君たちはどう生きるか』については、ごく大雑把にいうと「少年の通過儀礼を描いた作品」という評価を与え、それだけでは当たり前すぎてつまらないから、レビューの論点は、別のところにおいた。
まあ、それは良いとして、そうした評価からすれば、たしかに吉野書は、宮崎の作品に直接的な影響は与えておらず、せいぜい「真の大人になることへの挑戦を後押しする、という意図を持った作品」という意味で、宮崎は吉野の意志を継いで、自分の作品に、あえて同じタイトルをつけた、といった程度のことになろう。
したがって、本書を論じるのに、宮崎の『君たちはどう生きるか』を引き合いに出す必要は、まったくない。
つまりここまでは、あくまでも、このレビューの執筆に至る「経緯説明」であって、吉野書を論じているわけではないのだ。
では、なぜ「宮崎駿ではなく『けものフレンズ』」なのかといえば、それは両者(吉野書と『けものフレンズ』)の内容に、直接的な共通点があるからであり、これは決して「牽強付会」に結びつけたというわけではない。
ただ、私の場合は、多くの人よりは「ジャンル的偏見」や「固定観念」に縛られていないから、異なるジャンルのものを、その内容において、自由闊達に結びつけて語ることができる、ということでしかないのである。
しかしまあ、そのあたりを論じる前に、ひとまず本書の「あらすじ」くらいは知っておいてもらわないと、私の議論をご理解いただけないので、以下に簡単に紹介しておこう。
○ ○ ○
主人公の小学生「コペル君」こと本田潤一君は、2年前に実業家の父を亡くし、今はお母さんとの二人暮らしだが、父の残してくれた遺産で、生活には困らなかった。
元のお屋敷から、郊外の小さな家に引っ越したが、近所には母親の弟である、大学生のおじさんが住んできて、しばしばコペル君の話し相手になってくれる。日頃は、別に難しい話をするわけではないが、コペル君の将来を気にして、色々と考え助言してくれる、優しいお兄さんだ。
そんなコペル君には、お金持ちの家の子で物静かな水谷君と、その後に友達になった、聞かん気の正義感である北見君という、二人の仲良しがいた。
コペル君の通っている学校の生徒の多くは、彼らと同様、基本的には裕福な家庭の師弟だったのだが、コペル君のクラスには、一人だけ、庶民階級といって良いだろう「豆腐屋」の息子である、浦川君がいた。
浦川君は、クラスのみんなが着ているような立派な服装はしていないし、勉強もあまりできない。授業中にも、よくうつらうつらしているぼんやり屋で、しかも口下手ときているから、クラスのいじめっ子の標的になっているが、浦川君はそうしたいじめにあっても、少し悲しそうな顔はしても、それにけっこう堪えていられるようだった。
そんな浦川君の存在が気になっていたコペル君だが、ある日、浦川君が数日間続けざまに学校を休んだので、コペル君はとても心配になった。
普通、クラスメートが数日間休んだりすると、クラスの誰かが見舞いに行ったりするものなのだけれど、浦川君の家へ見舞いに行こうという者は一人もいなかったので、コペル君は意を決して、浦川君の家へ行くことにした。
浦川君の家は、ゴミゴミした下町の中にある豆腐屋で、店には浦川君のお母さんと思しき、恰幅のいいおばさんが、一人でテキパキと立ち働いていた。
そのおばさんにコペル君が、浦川君の様子うかがいに来た旨告げると、おばさんは喜んで、店の奥にむかって声をかけると、エプロンをした浦川君があらわれる。どうやら寝込んでいたわけではなく、店の手伝いをして働いていたようなのだ。
で、事情を聞いてみると、お父さんは金策のために数日前から遠方に出かけており、この豆腐屋で働いている若い衆は病気で寝込んでしまっていた。で、お母さん一人ではどうにもならないので、浦川君に学校を休んでもらい、主戦力として店を手伝ってもらっていた、というような事情であった。浦川君は、日頃から店の手伝いをしているものだから、勤めの浅い若い衆などより、よほど仕事ができたのである。
そして、浦川君が、授業中に居眠りをしたりしていたのは、じつは朝早く起きて、店の仕込みの仕事を手伝ってから学校に来ていたためであり、勉強が今ひとつなのも、家で勉強をしているような余裕がなかったからだというのが、コペル君にもわかったのである。
コペル君が、そのことをおじさんに話したところ、おじさんはそのことについて、思うところを書いたノートをコペル君に読ませ、世の中には、むしろそうした人の方が多いのだし、そうした人がいなければ世の中は回らない。にもかかわらず、今の世の中では、そうした人たちの働きに従分に報いているとはいえない現実がある、だから、今は親に食わせてもらってばかりの、恵まれたコペル君だけれども、しっかりと勉強をして、そういう人たちが報われる社会を作る大人にならないといけない、と説明してくれる。
その後、コペル君は無論、コペル君の話を聞いた水谷君と北見君も、浦川君と友達になるのだが、ある時、学校の上級生が「今どきの下級生は、上級生への礼儀を知らず生意気だ。いずれガツンと痛い目を見させ、わからせてやらなければならない。特に、あの北見という奴なんかはそうだ」という話を伝え聞く。
今では、上級生だからといって、やたらに威張るなんてことはなくなったし、いじめと言っても直接殴ったりするようなことは減ったけれども、この小説の舞台となっている戦前では、まだまだ「先輩が威張る」し「時に手を出す」という傾向が、強く残っていた。
そんなわけで、コペル君たちは、北見君がいつ上級生の標的になるのかと心配したが、向こう意気の強い北野君は、ぜんぜん平気な様子であった。
しかし、心配したコペル君たちが、万が一そうなった場合に、どうしようかと相談したところ、浦川君が「その時は、僕たちも出ていって、一緒に殴られよう。まさか、関係のない者まで殴ったりはしないだろう」と提案し、それはいいアイデアだと、最初はその提案を断っていた北見君も、最後は感謝して提案を受け入れて、4人で指切りをしたのであった。
前夜、雪が降り続いて積もった放課後の校庭で、コペル君たちは4人で、雪球のぶつけ合いをして走り回っていたが、その時、北見君が上級生から呼び止められる。
彼らが作った雪だるまに、北見君がぶつかったために、雪だるまが破損したというのである。
で、上級生たちは北見君に謝罪を要求。北見君は、雪だるまをうっかり壊したのは事実だから、謝罪したのだが、上級生は、その謝罪の仕方が気に入らない、もっと心を込めて謝罪しろと、もっと大きな声を出せなどと、多くの生徒たちが見守る中で、しつこく謝罪を要求し続けた。明らかにこれは、雪だるまのことを口実にした、いじめである。
北見君も、それがわかっているからこそ、それ以上は謝罪できなくなり黙っていると、上級生は嵩にかかって謝罪を要求し、ついに北見君は「謝罪しません」と言う。すると、上級生は、殴らないとわからないようだなと言って、北見くんを殴った。
そこで、浦川君が、倒れた北見君を庇うように前へ飛び出し、それに水谷君も続いた。そこで上級生は、「他にも北見の仲間がいるのなら出てこい。いっしょに殴ってやる」と言い出した。
しかし、雪合戦で彼ら3人に追いかけられ、一人だけ少し離れた場所にいたコペル君は、出ていくタイミングを失してしまった。
それに、やはり殴られることが怖かったのだ。だから、出ていけなかったばかりか、それまで後ろ手に握っていた雪玉を、こっそり捨ててしまった。
その時、午後の授業を告げる鐘の音がなり、まだ授業が残っていた上級生たちは、仕方なく教室の方へ去っていった。
浦川君と水谷君が北見君を助け起こすと、北見君は、やっと悔しさをあらわにして悔し泣きをし、浦川君と水谷君ももらい泣きした。
だがコペル君だけは、その3人に近寄っていくことができず、やがて、周囲で見守っていた生徒たちが去っていくのと同時に、3人もその場を立ち去っていったのだが、コペル君は最後まで声をかけることができず、情けなさと後悔にまみれて、一人帰宅したのだった。
その夜、雪合戦で汗に塗れたのもそのままに部屋にこもってしまったコペル君は、風邪をひいて熱を出してしまう。お母さんが心配して布団に寝かしつけても、コペル君は「このまま死んでしまいたい」と思い、布団も脱ぎ捨てていたために風邪をこじらして、学校を数日続けて休むことになる。
そして、見舞いにきたおじさんに、ついにコペル君は「雪の日」の顛末を打ち明ける。「どうしたらいいんだろう。謝罪したら、許してもらえるだろうか」ということである。
そこでおじさんは、コペル君に「自分のしたことは、自分で責任を取るしかない。約束を破ったのなら、謝罪するしかない」という。で、「それで許してもらえるだろうか?」と問うコペル君に、おじさんは「それは、北見君たち次第であり、許してくれるかどうかは問題ではない。いま君がすべきことは、心からの謝罪だ」という趣旨のことを言い、北見君らに謝罪の手紙を出すことを勧め、コペル君は意を決して、謝罪の手紙を書く。すると、そのあとは、不思議に腹の座った気持ちにもなったのである。
そして、最後は、コペル君のうちへ、3人がやってきて、コペル君が休んでいた間の顛末を報告する。
要は、3人の親が学校にねじ込んで、北見君を殴った上級生が処分を受けるという大騒ぎになっていたので、なかなか返事も書けなかったのだ、申し訳ない、というような話だった。
つまり、彼らは、コペル君が気に病んでいたほど、コペル君の行動にこだわっていたわけではなく、また手紙を読んだことで、すっかりこだわりは氷解したというのだ。
それで、4人はまた、もとの仲良しに戻り、このことから、コペル君は、人間の「勇気」と「あやまち」と「失敗から学ぶことの大切さ」を、おじさんの助言やお母さんの昔話などもあって、深く学んだのであった。
○ ○ ○
簡単に書くつもりだったが、私が肝心だと思った部分をひととおり紹介しようとしたら、けっこう長い文章になってしまった。
だが、本書の肝の部分は、これで伝わったと思う。
それに見てのとおり、本書は、宮崎駿のアニメとは、内容的には全くの別物だというのも、わかってもらえたと思う。
そこで、本命の『けものフレンズ』の登場である。
私が「note」でフォローさせていただいている「ポタポタ」さんは、『けものフレンズ』(たつき監督版のオリジナル版・第1期)に対する、世間の誤解を解くためだけに「note」を始めた、奇特な『けものフレンズ』ファンである。
『けものフレンズ』は、すでに6年も前の作品であるにもかかわらずだ。
で、私は、そんな「ポタポタ」さんに触発されて、先日ひさしぶりに『けものフレンズ』に関するレビューを書いたのだった。
そんな「ポタポタ」さんが、一昨日、新しい記事をアップしていた。
もちろん、『けものフレンズ』に関するする記事なのだが、それが下の「アニメ一期は正真正銘のけものフレンズであり、けもフレの正解である」という文章であった。
私は、この記事を読んで感動した。
特に最後の、「カバさん」の「かばんちゃん」に対するセリフ(の引用)と、そこに貼り付けられていたカバさんの画像を見て、私はこのセリフを忘れてしまっていたのだけれど、「ああ、あのセリフは、そういう意味だったのか」と思い出し、気づかされて、不覚にも落涙してしまったのだ。
それが、次のセリフと、次の画像だ。
他の、動物のフレンズ(要は、動物の属性を備えたヒューマノイド)とは違って、「人間」である「かばんちゃん」には、そんな特別な能力など何もなかった。
けれども、そんな、ある意味で「無力」で、自信のないかばんちゃんも、親友である「サーバルちゃん」を助けるために、必死で行動したことについて、カバさんはこう言ったのである。
どうだろうか? まさに『君たちはどう生きるか』の内容そのものだと、言えるのではないだろうか。
「ポタポタ」さんは、上の記事の中で、『けものフレンズ』(第1期オリジナル)の、中心的な魅力を次のように語っている。
この「ポタポタ」さんの言葉が、吉野源三郎の言葉であっても、何の不思議もないはずである。
吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』は、とても「理想主義的」かつ「教育的」な、優れた本だが、それがために「非現実的な綺麗事」だと批判する向きがある、というのも事実である。
だが、『けものフレンズ』(第1期)は、そうした「教育臭」なしに、同じことを教えていた作品だと言えるのではないだろうか。
無論、すべてのファンが、この作品の「マインド」を正く受け取れたわけではなく、「続編制作に関する騒動」で、自分の大切な『けものフレンズ』(第1期)や、その生みの親である「たつき監督」が、スポンサーである「KADOKAWA(角川書店)」などから蔑ろにされたことに対し、怒りに駆られ、度を失って、過激な嫌がらせに走った人も、中にはいたことだろう。
けれども、そうしたことは、たしかに「過ち」ではあったけれども、正直に反省し、過ちを認めるならば、それはコペル君の場合と同じで、きっと、その人の成長の糧になったはずなのだ。そもそも、失敗をしない人間なんて、一人もいないのである。
そして、そうした「大騒ぎ」を経ることで、今や忘れ去られた感のある『けものフレンズ』なのだが、それでも、あの作品の素晴らしさを知ってもらおうとし、今も残る「ある種の誤解や悪意」を解こうとしている「ポタポタ」さんは、本当の意味での「サーバルやかばん」の理解者であり、仲間だったのではないかと思うのだ。
「ポタポタ」さんのこうした姿を見ていると、私にはそれが、かばんちゃんの姿が重なって見えるのである。
本当に大切なのは、何かを成すこと、つまり「結果を出すこと」なのではなく、大切な思いを、友情を裏切らないということなのではないだろうか。
そして、コペル君が学んだことと、かばんちゃんやサーバルちゃんが学んだことは、結局同じことなのではないだろうか。
一一私は、そう気づいて、これを書いたのである。
(2023年8月12日)
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