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湯浅政明監督 『夜明け告げるルーのうた』 : 異類への愛と〈解放〉

映画評:湯浅政明監督『夜明け告げるルーのうた』

とにかく、人魚の少女、ルーが可愛い。
主人公の少年カイの黄色いパーカーを着て、カイと手を繋いで、夜のひなびた田舎町(舞台の日無町)を散歩するシーンのルーは、犯罪的なまでに可愛いかった。

一一と、こんなことから書き出すと、可愛い可愛いと騒いでいるだけの、ベタな絶賛評だと思われそうだが、残念ながらそうではない。

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絶賛したくないのかと言えば、そういうことでもない。
作品は絶賛するけれど、ルーがあまりにも可愛いので、予想される物語の展開が、最初から怖くてつらいのだ。きっと、ここまま楽しいばかりで進むわけがないと、そんな当たり前の展開予想さえ、ルーがあまりにも可愛いのでつらかった。

そして途中の展開は、おおよそ予想どおりだったのだけれど、ラストは、意外にハッピーエンドと呼んで良いものになっており、その意味では最悪の事態は避けられたようなのだが、しかし、それでもルーと別れなければならないラストは、やはりつらかった。一一それほどまでに、ルーは可愛かったのだ。

キャラクターデザイン画や、本編映像の写真(静止画)では、ルーの可愛らしさは、とうてい伝わらない。

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泳ぎ歩き踊り、声を発して、初めてルーは、とんでもない可愛らしさを発揮しだす。

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ルーは、アニメーションのキャラクターなんだから、動いた時に最大限の魅力を発揮するというのは、まったくもって正しいことなのだ。
だから、「予告映像」など、本編のごく一部を切り出したもので、ルーの可愛らしさがわかるとは思わないでほしい。
可愛いものが嫌いな人にまで、本作を観ろとは言わないが、可愛いものが好きな人なら、予断を排して、ぜひとも本編を観てほしいと思う。

この作品は、可愛いものが好きな私が、可愛い可愛いと一人で騒いでいるだけの作品ではない。
作品として「アヌシー国際アニメーション映画祭」でグランプリを受賞し、国内でも「毎日映画コンクール」では、アニメファンにはよく知られている、伝統ある「大藤信郎賞」も受賞した、間違いのない傑作なのだ。

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 ○ ○ ○

この物語は、両親の離婚のため、父の生まれ故郷であるさびれた漁師町「日無町」に、幼い頃に戻ってきた、東京生まれの少年カイの、人魚のルーとの、出会いと別れの物語である。

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カイのことを無邪気に「好き」だと言うルーに対し、人魚への誤解に発するトラブルの解決に奔走することで成長したカイは、自分も「ルーが好きだ!」と正直に告白して、それまでは田舎町での将来に失望し、自ら押し殺していた「自己」を解放する。一一そんな「カイの成長譚」だと言えるだろう。
(※ ストーリーの詳細については、WIKIpedia「夜明け告げるルーのうた」参照)

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だが、これだけなら、よくある話だと思われるかもしれない。また、一見そのように理解して良い作品として作られている。だが、そこは「くせ者」湯浅政明監督の作品。そんな単純なものではない。

なにしろ、ルーが可愛い人魚だといっても、それは間違いなく人間ではないもの、つまり「人外」。謂わば、化け物のたぐいであり、より正確に言うならば「異類」なのである。

したがって、カイが、ルーの好意を真正面から受け入れるというのは、「昔話」によくある、人の姿に化ける古狐とか鶴などとの結婚譚である「異類婚姻譚」の一種ではあれ、それらとは違って、相手の正体を知った上で、それでも受け入れる、ということになるのだ。

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もちろん、話はそこまでは進まない。
心を閉ざした少年カイが、ラストで、ルーに「好きだ!」と叫んで告白した後、昔から日無町とその港に差し込む陽光を大きく遮ることで、人魚の生息可能な環境を形成していた、巨大な「お陰岩」が崩壊し、日無町は陽の差し込む明るい町になったかわりに、ルーたち人魚は、その海を去らなくてはならなくなってしまったからである。

つまり、カイは、ルーに告白をして、自分の気持ちを解放したけれど、その直後に、ルーと別れなくてはならなかった。でも、その別れは、ルーが、いつものように沖合から、バイバイと手を振るところまでで、ハッキリとした別れのシーンまでは描かれない。

けれども、将来に何の夢も希望も持てず、内にこもって暗かったカイが明るくなり、進学についても「行きたい高校なんてない」などと拗ねたようなことを言っていたのが、父親に「山向こうの町の高校に行くことにしたよ。でも、卒業したら、またこの町に戻ってきて、海に出ようと思うんだ。あちこちの海へ行って、人魚の住んでそうな海にも行くんだ」と、夢を語るまでに成長変貌していた。
カイは、ルーに「好き」だと声に出して伝えることを通して、自身を抑圧していた「(山や谷を越えて、外に出て行くことへの)諦め」を吹っ切ったのである。

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つまり、カイはルーと別れなければならなかったけれど、それは「今生の別れ」というわけではなく、きっと再会できるという自信と、明るい希望を持った別れだった、ということなのだ。だから、この物語は、ハッピーエンドと言えるのである。

そして、さらに言うなら、ルーと再会したカイは、きっと「自ら望んでルーに噛まれ、人魚族に変身するだろう。そして人魚として、末長くルーと海で幸せに生きていくだろう」と、そんな想像のできるラストになっているし、湯浅監督も、DVDに収録されたインタビューで「本当は、カイとルーが再会するところまで描く予定だったんですが、そこまでやっちゃうと、ちょっと甘くなりすぎるので、ああいうかたちになりました」という趣旨のことを語っていた。
つまり、再会した後のことまでは語られてもいないけれど、この作品の中で描かれた、いくつかの「再会」(カイの祖父とその母との再会、タコ婆と恋人の再会)が、そうしたかたちのハッピーエンドとなっている以上、同じパターンのハッピーエンドにならない方がおかしいのである。

 ○ ○ ○

このように本作は「少年と人魚の少女の恋」という、一見「ディズニー」的なファンタジーの形式を採っているものの、前述のとおり、その本質は「異類婚姻譚」だと見ていい。そして、その意味では、湯浅監督のOVA作品『DEVILMAN crybaby』(永井豪原作)と同じだということになる。主人公・不動明が、デーモン族の勇者アモンと合体してデビルマンとなったように、カイも人魚族の血を受け入れることで、人魚族に変身して、人間ではなくなるのである。
つまり、カイの「解放」とは、「夢のない人生」からの解放というに止まらず、「人間という枠」からの解放をも意味していたのだ。ルーに、心から「好きだ!」と伝えることは、「人間であることを捨ててでも、君を愛する」という告白だったのである。

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じっさい、本作で描かれる「人魚族」は、ディズニー的な「人魚」よりもずっと、「デーモン族」に近い、生物学的な「人魚族(属)」である。
ディズニー的な「人魚」というのは、老若男女を問わず、上半身が人間で下半身が魚(の尻尾)という、わかりやすく単純な形態だが、本作で描かれる、ルーたちの「人魚族」は、そんなにわかりやすくはない。

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たしかにルーは、上半身は人間で下半身は魚の、典型的な人魚だが、しかし、音楽が鳴っているときは、下半身が二股に分かれて、人間そっくりの2本の脚になるし、ルーの「パパ」は、水中では巨大なサメであり、地上に上がると、紳士然とした服装をした、サメ顔の大男に変身する。要は、加齢とともに変身能力がつくのであろう。

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そればかりではない。
ルーは、殺処分にするために施設に閉じ込められた犬たちを逃し、一匹一匹に噛みつくことで、犬たちを「人魚族」に変えてしまうのだ。
で、この形容矛盾的な「犬の人魚」というのは、どういうものなのかといえば、それは上半身が犬で下半身が魚という、正確に言うならば「犬魚」であり、とうてい「人魚」とは呼びがたいシロモノなのである。

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だが、作中では、その「犬魚」も「人魚」と呼ばれる。
ルーが犬たちを犬魚に変えていくところを撮った防犯カメラの録画映像を視た町職員たちは「犬が人魚になったぞ!」「人魚に噛みつかれると、人魚になるんだ!」と怯え叫んで、誰もその言い方を変だ思っているふしはない。

要は、どんな動物であろうと、人魚に噛みつかれることで、元の生物種から水棲生物種に形態変化したら、それは「人魚族」になった、ということであり、例えば、鳥が人魚に噛まれれば、上半身が鳥で下半身が魚という形態の「人魚」になる蓋然性が高い。

しかし、実際には、それには止まらない。
本編中には、どういう経緯かは描かれていないが、人魚族に噛まれた結果であろう、上半身が魚で下半身がタコなどという、ほとんど「クトゥルフ」も斯くやという、グロテスクな「人魚」も、一瞬とはいえ登場する。
また、物語のクライマックスである、海面の上昇で日無町が危機的な浸水被害を受けるシーンでは、人間たちを助けるために「人魚」たちがたくさん姿を表すのだが、その形態は、もはや「デーモン族」そのもので、例えば、エイに脚が8本ほど生えたようなものとか、巨大な昆虫もどきのものとか、およそグロテスクな怪物ばかりなのである。

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ただ、彼らは、溺れかけている町の人たちを、水中から支えて救助するので、その肢体は水の中に没していて、ほとんど輪郭しかわからず、生な形態描写がない。
また、救助される町民も、ビクビクして気味悪ながらも、助けられて「ありがとー!」などと、去っていく彼らに手を振って感謝したりするので、それほど「グロテスクな化け物」という印象は与えず、作品世界では、せいぜい「異類」という存在にとどまるのである。

ではなぜ、湯浅監督は、「人魚族」を、ディズニー的な「人魚」にはせず、ほとんど「クトゥルフ」か「デーモン族」のような、多様かつグロテスクな「生物種」として描いたのであろうか。

何しろ彼らは、可愛いルーと、まったく同じ「生物種」であり、ルーだって成長すれば、どんなグロテスクな形態にでも変身できるようになるのかも知れず、およそ人間とは程遠い生物、ということになるのである。
一一それなのに、湯浅監督は、どうしてわざわざ、ルーの属する「人魚」を、こんな設定にしたのだろうか?

思うにそれは、湯浅監督が、「人間であることに、それほど特別な価値があるのか?」と考えている人だからだ、ということだと思う。

つまり、デビルマン=不動明が、デーモン族にも美しい愛もあれば、人間にだっていくらでもグロテスクな化け物がいるのを思い知らされ、「人間」という種に価値があるのではなく、どんな種であろうこと、個々にしか価値はないのだと知るのと、これは同じことなのではないだろうか。

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「人間だから、素晴らしい」ということではない、「人間の形態をしているから、まともである」とか「美しい」ということではない。「中身」的にも「形態」的にも、「人間」であるから、他に優れて価値があるということにはならない、のだ。一一だから、カイが解放されるのは、単なる「人間社会の価値観」ではなく、「人間である(あらねばならない)」という「縛り」からの解放だったと、そう考えるべきなのではないだろうか。

 ○ ○ ○

湯浅監督は、前記のDVD収録にインタビューで、本作を「中高校生を対象として作ったが、町の人々との関係も描いたため、大人の視点から描いてしまった部分もある」という趣旨のことを話していた。
つまり、この作品が「可愛い人魚の少女と、心を閉ざしていた少年との、恋物語」というかたちになり、さらに「ハッピーエンド」になったのは、中高生を対象とした「夢のある楽しい作品」にしたかったから、に違いない。これが、大人向けに作られた作品であったら、きっと、こうはならなかったのではないだろうか。

また、同インタビューで、インタビュアーが「宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』との相似性が指摘されていますが、それは自覚があって、やったことなのでしょう?」と問われて、湯浅監督は「自覚はなかった」と答えている。

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「じつは、最初、ルーは、狼少女という設定だったんです。可愛い側面と怪物的な側面の両面を持つ。だから、名前のルーというのも、フランス語の狼のことです。でも、もう少し可愛い怪物にしようという話になって、人魚になった。人魚なら見た目が可愛いし、怖い部分は水という属性で表現できると考えたわけです。だから、その段階では『ポニョ』はまったく念頭にはなくて、あとで指摘されて、そうかと思いました。無意識に影響を受けていた部分はあるかも知れませんね」という趣旨の回答をしている。

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つまり、ルーは、もともとは「人狼(ヴァンパイヤ)」であり、言うなれば「吸血鬼(ヴァンパイヤ)」だったのだ。
だから、彼女らが噛んで、その血を移した相手は「同種族」になるし、ルーたちは日光に当たると発火し、そのままだと焼け死んでしまうという弱点を持つのである。無論、ディズニー系の人魚には、そんな弱点はない。
(カイがルーに引きずられて海に潜るシーンで、息が切れそうになったカイに、ルーが口移しで空気を吹き込んでやると、カイの顔がだらしなく、にやけたものになるのも、あるいは、その誘惑的な魔力のせいかも知れない)

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そして、ルーの初期設定が、このような怪物的な「異類」であったからこそ、その「眷属」は「グロテスクな怪物」でなければならなかった。ディズニー的な「人魚」ではなく、「クトゥルフ」や「デーモン族」のような、「かなりグロテスクだが多様な形態を持ち、中には半人間型の美しいものもいる」ということでなければならなかったのでないだろうか。

事実、デーモン族には、美しき妖鳥シレーヌなどがいる。

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このシレーヌとは、サイレン、つまり、カイたちのバンド名にもなったセイレーンであり、ハルピュイア(ハーピー)であり、要は「歌で船員を惑わして遭難させる、美しい魔物」という、その特性において、「人魚」と同族なのだ。

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また、だからこそ、本作でも「人魚は音楽が好き」だと言われ、当然、ルーも音楽が大好きで、音楽に惹かれてカイに近づいてきたのだし、音楽につられて、人間の前でも歌って踊ったのである。

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そしてさらに言えば、作中でも「羽根の生えた人魚もいるって話もある」と、羽根のある人魚伝承が語られていた。

そんなわけで、本作に描かれた「人魚」とは、ディズニー的なファンタジーとしての「人魚」ではなく、「生物」であり「異類」である「人魚族」だ。
だから、カイがルーを愛し、ルーに告白するということは、「人間を捨てる」という覚悟まで表明しているということなのだ。

だが、湯浅監督からすれば、一一「それがどうした」ということでしかないだろう。

「愛した相手が、人魚なら、自分も人魚になって何が悪い。愛した人が人狼なら、自分も人狼になろう。吸血鬼なら自分も吸血鬼になろう。デーモン族なら自分もデーモン族になろう。それでいいじゃないか。と言うか、それが当然じゃないか。どうして、人間であることに固執しなくちゃならない。人間が、そんなに特別に素晴らしい存在だってわけじゃないことくらい、みんな知っているだろう?」ということなのではないか。
(例えば、陰険で残酷だと言われるデーモン族の妖獣ジンメンだが、彼のやっていることは、狩りで仕留めた獲物の剥製の頭を、居間に並べて飾っている人間と大差ないのだ)

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そして、そうした思いを、湯浅監督は、「映画『夜明け告げるルーのうた』公式サイト」に収録されたインタビューの中で、次のように語っている。(「――」は、インタビュアーの質問)


『―― 『夜明け告げるルーのうた』は原作のないオリジナルストーリーです。物語の主軸になっている「14歳の少年による心の解放劇」は、湯浅監督が長らく描きたかったテーマなのでしょうか。

湯浅 僕は大ヒット作を監督したことがないので(笑)、反響がないとよくネットでエゴサーチをして、自分の作品を観た人の反応をこまこま確かめるんですよ。すると、「人には薦められないけど、好き」「皆には薦められないけど、面白かった」なんてコメントがよく見つかる。謙虚というか、消極的というか、最初はなぜそんな言い訳が必要なのか不思議だったんです。本来、 自分が感じた「好き」は、言い訳なしで「好き」と言っていいはずなのに。

―― 多くの人が好むものでないと、「好き」と公言できない空気があると。

湯浅 若い人に限らないかもしれませんが、「人と違っている、変わっている」と思われるのが嫌な人が多いように見えますね。若いうちは生きている世界が狭いですが、 世界はもっとずっと広いし、本当にいろいろな人やいろいろな場所がある。その中にはとても自由で、自分に影響なければ他人に寛容な場所もある。それは楽(らく)だと思いますけどね。そういうことがもっと早い段階で感じられればいいのになぁと思っていました。

―― 作った音楽を匿名でしか発表できない主人公の少年・カイの気質は、それを表しているんですね。

湯浅 知らず知らずのうちに周囲に合わせちゃってるんです。近年の雰囲気は、王道から外れたり、危険とされてる道に入ると、すぐに外野から「専門家がこう言ってるから、できるわけがない」「戻れ」「変更しろ」なんて声が飛んでくる。前へ進もうとしているのに足を引っ張られたりして障害になる事もある。そんな、いろいろな 呪縛に固められた少年の心を開く存在として、人魚のルーがやってくる。

―― “外野”とは、本作の舞台である漁港の町・日無町(ひなしちょう)の多くの住人たちでもありますね。閉鎖的な町を象徴する存在というか。

湯浅 やれると思ったことは、大概やれると思ってるんです。山谷あるとは思いますが。たとえば、この映画には泳ぎを覚えるシーンがあります。人間って不思議なことに、「沈む」と思って身を硬くすると沈むし、「浮く」と思って気を楽にすると浮く。それって不思議ですが、分かる感じがします。もっと言うと、余計なことを考えないで目的地への障害を克服する事に淡々と身を任せていれば、いつの間にか目的地に着いている。これは、劇中歌に使わせていただいた斉藤和義さんの『歌うたいのバラッド』の歌詞にも通じています。ちなみに、僕は泳ぐの得意じゃないんですが(笑)。』

『―― 作品を取り巻く世界観もすごくシビアで、現代の日本を思い起こさせます。

湯浅 日無町って、昔はそこそこ観光客も訪れるような漁場だったけど、今はサッパリ。前にも後ろにも進めない町なんです。何もせず待っていればそこそこ平和かもしれないけど、いずれ沈みゆくのは止められない。動き出す人を揶揄しては、失敗すれば安心する。わりとよくある状況なんじゃないでしょうか。でも、入ってくる水をかき出すだけじゃ、船はどこへも行けずに沈んでしまう。目標を決めて進むしかない。自分がどこに向かいたいのか。どこへ向かっていれば本望なのか。怖がっていてはどこへも行けないし、船が沈むことを恐れず、目標を決めてそっちへ漕げば、そのうちたとえ船が沈んでも泳ぎ、休み、また進むうち、たどり着けるんじゃないでしょうか。 ひとたび強く「いける」と思えたなら、必ず乗り越えられる。そんな前向きな映画が完成したと思っています。』

「好きなものを好きと言う勇気を持って、若者たちよ、この窮屈な世界から飛び出し、自分の世界を切り開いていけ」

それが本作『夜明け告げるルーのうた』という作品のメッセージである。
実際、湯浅監督自身そうして、あまり一般的ではない「独自の美意識」に従った作品を作り続けてきたのだ。

しかしまた、それが、どんなに大変な道であり、「残酷な世間」と、したたかに戦わねばならない道であるかも、もちろん、その当事者として、湯浅監督は骨身に染みて知っている。
それが、ストレートに表現された作品が、最新作『犬王』なのだ。

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『犬王』では、自分たちの新しい表現を切り開いていった二人の若者が、既成権力の価値観によって潰され引き裂かれる物語だ。
そして、二人は「死後」にしか再会できず、それを「ハッピーエンド」と考えなければ、ハッピーエンドにはならない、バッドエンドとも言える作品だった。
(※ 詳しくは、下の記事を参照)

しかし、だとすれば、カイがルーと、世界の海のどこかで再開して、人魚族になって海の世界に入っていくというのは、じつは「死後の世界」へ入っていくことの、暗喩なのではないだろうか。

例えば、船乗りになったカイの乗った船が、世界のどこかの海で遭難して沈没し、カイも海に投げ出されて沈んでいく。その時、人魚の影がカイに近づいてきて、意識を失って沈んでいくカイを抱き止めて、その首筋に、キスをするように噛み付くと、カイは、目をぽっかりと覚ますと同時に下半身が魚となり、二人は手を取り合って、そのまま深海へと泳ぎ去っていく。一一そんな物語である。

実際、本作『夜明け告げるルーのうた』で描かれる「人魚の噛みつき」と、それによる「同族(眷属)化」というのは、「人狼(ヴァンパイヤ)」という初期設定を知らなくても「吸血鬼(ヴァンパイヤ)」にそっくりだと、誰もが気づくはずだ。そして、「吸血鬼」とは、「生物種」であるよりは(小野不由美ではないが)「屍鬼(リビング・デッド)」とも呼ぶべき「死物」なのである。
ならば、「人魚と結ばれる」というのは「死んで、黄泉の世界へ行く」ということの、比喩的表現なのかも知れない。

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(上:手塚治虫『バンパイヤ』、下:ブラム・ストーカー原作映画『吸血鬼ドラキュラ』)

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しかしだ、好きなものを好きだと追い求めた先が「死」であったとして、「何が悪い」というのが、じつは、湯浅監督の秘めた思いなのではないか。
そこまでやってこそ、本望であり、死んでも悔いが残らないじゃないか、と。

また、そんな監督だからこそ、『犬王』の「死後の再開」というラストも、本当の意味で「ハッピーエンド」となるのではないだろうか。

自分の美学に殉じて死んだ「友魚」と、自分の芸術のために権力者に妥協して生き延びた「犬王」。
二人は、その「死に様と生き様」としては、対極的であるし、言うなれば、犬王は親友の友魚を裏切って生き残ったわけだから、本来、犬王は、死後であっても、友魚に合わせる顔などないはずなのだが、「どうして二人は、死後に再会し、子供の姿に戻って手を取り合い、笑いながら空へと駆け登っていくことができたのか?」一一そんな疑問にも、ひとつの解決が見出せるだろう。

その解決とは一一、権力者に妥協してでも生き延びたい犬王に「俺は、屈辱を舐めてでも、生き延びて、自分の夢を追いたかったんだよ」という理由であったのなら、友魚は、そして、湯浅監督なら、それを受け入れるだろう、ということである。

この世の「人間的な価値観」に収まる「権力との勝負勝敗」を超えて「自分の好きなものを好きと言い、それを追い求めて何が悪い。私は、権力との勝ち負けなどという人間的な桎梏から逃れ、人から非難されることになろうとも、夢を追うだろう」と、そう湯浅監督が考えていても、不思議ではないと思うのだ。

つまり、リアルに言えば、好きな作品を作るためには、例えば、庵野秀明の「スタジオカラー」のように「麻生財閥がらみの会社ドワンゴ」から資金提供を受けて、何が悪い。人を犠牲にして作ったであろうカネを、「悪魔」から資金提供として受けたとしても、「好きなものは好き」という「作家の魂まで売り渡すわけではない」一一と、そうリアルに考えていても、不思議はないと、私は本気で思うのだ。

そして、私はここで、仮に湯浅監督がこの(犬王の)ような考えを持っていたとしても、それを責めようとは思わない。つまり「悪魔のカネで、好きな作品を追求するのも、それはそれで、ひとつの作家的な覚悟だろう」と認めるのだ。

それは「好きなものを好きだと」して追い求めるために、「人間」であることを捨てて、「人魚族」や「デーモン族」になるのを、「悪事」だと非難することはしない、ということだ。
なぜなら、それはすでに、「人間的な価値観」を、意志して踏み出したところでの判断だからで、それを「人間的価値観」で責めるのは、筋違いだと思うからである。

芥川龍之介の「地獄変」に象徴されるとおり、「芸術家」は「鬼」になってでも「芸を極めようとする」ものなのだから、「好き」なもののためなら、「人間」であることを捨てて、「人魚族」でも「デーモン族」でも「殺人鬼」でも、なればいいと思うのだ(人間だって「殺牛鬼」「殺豚鬼」「殺魚鬼」等々ではないか)。

だが、それで本当に「ハッピーエンド」なのかという疑問は、払拭できない。

その時には、すでにその「芸術家」は「人間」ではなくなっているのだから、こちらが人間的な「幸福」感を抱えたまま、彼らの「幸福」とは何かを考えるのは、無意味だというのはわかっている。
だが、「地獄変」の主人公である「絵仏師の良秀」ですら、愛娘が焼け死ぬ姿を目に焼き付け、作品に生かした後で、自殺して果てるのである。

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だから、彼らは、いや、かつて人間であったそれは、人間であったことをやめた途端に、人間であった頃の思い出や価値観を、完全に捨て去ることができるのであろうか。そこが、疑問なのだ。
なぜなら、そういうことでないと、きっと後悔が生まれ、「ハッピーエンド」にはならないと思うからだ。

だが、その答は、実際に「人間を捨てた」本人にしか、わからないだろう。これはたぶん、類推しようのないことなのではないだろうか。

だから、私としては、『犬王』のラストは無論、世間的には「ハッピーエンド」の範疇に入るだろう本作『夜明け告げるルーのうた』のラストも、簡単に「ハッピーエンド」だと信じることはできず、どこか寂しく悲しい気分を拭いきれない。

ルーのあの、純粋無垢で疑いをしらない陽気な可愛らしさが、とうてい人間には求め得ないものだと感じるから、彼女との出会いは「一期一会」であり、別れは、まさに「今生の別れ」としか感じられないのだろう。

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ルーのうたが告げる「夜明け」とは、果たして、誰の、あるいは何の、「夜明け」なのだろう。

そして、ルー、「君の"好き"」は、僕をどこまで変えるのだろうか。

(2022年6月20日)

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