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高畑勲 『アニメーション、折りにふれて』 : 子供の権利と 大人の責任

書評:高畑勲『アニメーション、折りにふれて』(岩波現代文庫)

雑文集である本書の中で、最もポレミックで注目すべき話題は、何と言っても、日本の長編アニメにおける「没入型アニメ」の発展興隆と、そこに伏在するものの問題だろう。

高畑が本書でいろいろと変奏しながら使っている言葉(「巻き込み型」「思い入れ」「ドキドキ」)ではなく、ここでは「没入型」といった具合に、私なりにわかりやすく言い換えた言葉で説明したい。

「没入型」の作品とは、観客を、主に主人公の立場に感情移入させ、作品世界に主観的に没入させるタイプの作品のことだ。つまり、観客はディズニーランドのアトラクションを楽しむように、自身を「視点」として作品世界に没入し、アドレナリンを大量放出して、本能的な快感を楽しむ(つまり「脳科学的物理現象」であり、ネットスラングで言うところの「脊髄反射」)。
そして、これと対照的なのが「鑑賞(思いやり)」的態度だ。観客は、客席から舞台を鑑賞するように、一歩退いた(非・同一化的)立場で、作品を客観的に鑑賞する。つまり、主に「知性」を働かせることで楽しむのである。

そして、高畑勳が危惧するのは、(『風の谷のナウシカ』以降の)宮崎駿監督作品や、「セカイ系」と評された新海誠監督のデビュー作『ほしのこえ』などの作品に典型的に示される「没入型作品」が、観客の「知性」や「(知性に由来する)生きる力」の発育を阻害しているのではないか、という問題である。

高畑は、その実例の一つとして「ひきこもり」の増加をあげて、その背後には「没入型作品」への耽溺によって、「何者でもない(凡人でしかない)私」が主観的な満足を過剰に与えられ、言わば「甘やかされ」続ける結果、リアルの自分の立場(現状)を踏まえて、自身を「訓練」をする機会が奪われているのではないかと、問題提起する。

自分が自分の現実をより良く生きるため(成長する)にはどうすれば良いのかと「考える」という行為は、「何者でもない(凡人でしかない)私」という当たり前の自覚(認識)があってこそ、「より強くなりたい・ならねばならない(生き抜けない)」という動機を人に与える。
ところが「没入型作品」によって与えられる「擬似体験的な満足」によって、そうした「成長への欲望」がスポイルされてしまい、「未成熟な弱さのまま」に止まることを是としてしまった人は、まさに、その「擬似体験的に誤った自己認識(主観としての全能感)」と「未熟で弱い私という客観的現実」の齟齬によって、「現実生活からの退却」つまり「ひきこもり」とならざるを得ないのだ、ということである。

こうした危機意識は、いかにも真面目な高畑勳らしいものだし、「ひきこもり」の原因が「没入型アニメ(を含む娯楽作品)」の影響だとする客観的な証拠はどこにもない。高畑の危惧は、あくまでも「危惧」なのである。

そこで、こうした「危惧」に対して、否定的な人も、当然少なくない。
その典型的なものの一つが、ハンドルネーム「手順を踏む」氏による、本書(単行本版)へのレビュー「感動よりも理性と知性」である。
氏は、高畑の「危惧」を次のように批判している。

『映画を観たくらいで人間的に成長出来たら苦労せんわともおもうが、どうやら高畑勲は映画を通じて本気で観客を啓蒙し、教育しようとしていたフシがある。
雑文集3冊を通してその主張はますます鮮明になり、先鋭化されていった。たぶん本気だったのであろう。
映画を観ただけで人間が堕落したり、成長したりするものだろうかという気もするし、個人的には映画は単なる息抜きのための娯楽に過ぎず、快楽主義的であってもそれは危険性のない安全なドラッグくらいにおもっているのだが、
高畑勲はそういった息抜きすら禁止せよと声高に叫んでいる。』

ここを読めば、高畑の「危惧」を、「手順を踏む」氏が、完全に読み違えているというのは、明らかであろう。
だが、このような「誤認」をする人は少なくないはずだから、少し丁寧に腑分けしておこう。

『映画を観たくらいで人間的に成長出来たら苦労せんわともおもう』一一言うまでもなく、「映画を観る」ことで、人間は成長する。これは科学的な事実であり、ここでの「手順を踏む」氏の物言いは、きわめて「気分的」なものだ。
もちろん、映画を一本観たくらいで「凡人が天才に」なったり「ヘタレが英雄に」なったりすることなどないけれども、人は「様々な経験」を積み重ねる中で、すこしずつ成長するものであるというのは、論を待たない事実であり、その「経験」の一つが「フィクションの鑑賞」なのである。
つまり「映画だけで、あるいは、映画1本観たくらいで」人間がコロリと変わってしまうというようなことは、ほぼない(ごく稀にはあるだろう)し、高畑もそんな話をしているわけではないのだが、「手順を踏む」氏は、まるで高畑が、そんな非常識なことを言っているかのように「誇張して」非難しているのだ。
言うまでもなく、高畑の「危惧」とは「悪影響がある可能性が、無視できない」というものであって、それは「悪影響が無いなら、それは僥倖だが、作品の送り手である立場としては、そのような無責任な楽観に与することはできない」ということなのである。

『どうやら高畑勲は映画を通じて本気で観客を啓蒙し、教育しようとしていたフシがある。』一一とのことだが、高畑に「教育的配慮」があるのは、論ずるまでもないことだし、そもそも「作品創作」というものには、多かれ少なかれ「教育的配慮」や「啓蒙的配慮」は、前提としてあるものなのだ。
例えば、人がこの「現実の世の中」に完全に満足していたならば、その人はクリエーター(創作家)になどならないだろう。この世に、何らかのかたちで「不満」があるからこそ、人はそれ(不満に対する「理想」)に具体的な形をあたえようとするのだし、それを世間に発表するのは、世の人たちに対して自身の「世界観」を示し、それに共感してもらいたいからに他ならない。つまり、「世界はこのままで十全なわけではない(是正すべき点がある)」ということを訴え「あなたもそう思うでしょう(ならば、あなたは何をすべきか)」と訴え、観客の「世界観」の是正を求めるのである。そして、これを平たく言うならば、一種の「啓蒙」であり「教育」に他ならないのである。
したがって、高畑に『映画を通じて本気で観客を啓蒙し、教育しようとしていたフシがある。』のは当然であり、そうした意志の存在を、「映画」をはじめてする「すべての創作行為」に見なかったのは、「手順を踏む」氏の誤認でしかない。

では、「手順を踏む」氏は、どうして、このような「誤認」をしたのだろうか?
それは、「手順を踏む」氏が、徹頭徹尾「お客様(鑑賞者)」の立場でしかないために、たかが「映画クリエーター」ごときに「啓蒙」されたり「教育」されたりするのは御免だ、という意識を持っていたからである。

高畑は「クリエーター(送り手)」であると同時に「鑑賞者(受け手)」でもあるから、むろん「娯楽」作品の魅力も価値も承知しており、それを「自明の前提」としたうえで「しかし、それだけで良いのか。そこに危険性は無いのか」と問うているのであるが、「手順を踏む」氏の目には、そんな高畑が「娯楽」を否定する「鬱陶しい啓蒙家であり教育者、でしかない」と映っているのである。
その証拠に、「手順を踏む」氏は、高畑をこのように描写している。

『これはまるで、飲み屋に乗り込んでいって、そこで楽しく酔っぱらって憂さを晴らしている酔客たちに向かって、「お前ら酒なんか飲んで現実逃避しているヒマがあったらもっと真面目に勉強しろ!」と怒鳴りつける人のようでもあるし、こういった主張を作品における演出スタイルを通して実践しているのだから驚く。
そして、これを監督本人が雑文として書くということは、つまり他のくだらん映画など観ずに、とにかくオレの映画を観ろ! と言っているのと同じなのだ。よほど自分の作品に自信がなければこういうことは言えるものではない。』

これは、ほとんど「被害妄想」の域ではないだろうか。
例えば、母親(や教師)が息子(や生徒)に対し「すこしは勉強しなさいよ」と注意をしたら、息子(や生徒)は、母親(や教師)の「愛情」や「愛情ゆえの危惧」を想像もできずに「うるさいな、放っておけよ! 僕の人生を束縛するな。僕はおまえの人形じゃない!」と「キレる」態度と大差ないのである。

じっさい「手順を踏む」氏は『個人的には映画は単なる息抜きのための娯楽に過ぎず、快楽主義的であってもそれは危険性のない安全なドラッグくらいにおもっている』のだそうだが、危険な『ドラッグ』に手を出す人の意識というのは、おおむねこのように「楽観的」なものであり、「健康な自己懐疑」を欠いた、「自分だけは大丈夫」という、およそ「無根拠な自負(自信過剰)」に支配されているもので、そういう人が少なくないからこそ、高畑も「最悪の事態」を考慮し「危惧」せざるを得ないのである。

では、こんな「手順を踏む」氏の問題点は、奈辺にあるのか。
それは、氏が、新海誠と同様の「セカイ系」であり、自分のセカイに「没入」して、現実世界を客観的に見られなくなっている点である。
「手順を踏む」氏は、高畑勳を次のように描いてみせる。

『褒めるときは徹底的に褒め、貶すときには理詰めで完膚なきまでに叩きのめすのが高畑勲のスタイルである。
高畑勲は、映画の力を本当に信じていたのだ。
たった2時間前後の映画でも、それを観る人の人生を変えてしまう力が映画にはあると心の底から信じていたのだ。だからこそ、これほど激烈な人だったのだとおもう。
常に客観性を持てと言い続けた、その本人が、実は映画に対してだけは狂信的であり、原理主義的であり、その影響力を微塵も疑っていなかったのだ。
その矛盾に気付かぬまま、彼は亡くなってしまった。幸せな人生だったとおもう。そして、彼みたいに映画の力を強く信じている映画監督はもう出てこないんだろうなともおもう。できれば彼の口から新海誠の『君の名は。』の感想を聞いてみたかったが、それももう果たせない。』

当たり前の話だが、多くのクリエーターは、作品の『力を本当に信じて』いる。
それは、なにも高畑に限った話ではないのだが、高畑を『狂信的であり、原理主義的』だと断ずるとき、「手順を踏む」氏の視野には「鬱陶しい高畑勳」しか見えていなかった。ほかにも大勢いる「作品の力を信じているクリエーター」の存在がまったく見えておらず、ただ高畑を『狂信的であり、原理主義的』だと、貶めたかっただけなのである。
だが、このような態度こそ、踏むべき「手順を踏む」ということを蔑ろにした、非論理的で非理性的な態度(主観的で感情的な態度)であり、まさに『狂信的であり、原理主義的』な態度に他ならないのである。

じっさい、「手順を踏む」氏は、高畑の『口から新海誠の『君の名は。』の感想を聞いてみたかった』と書いているとおり、『君の名は。』をきわめて高く評価しているのだろう。

だが、高畑の『君の名は。』評価は、聞かずとも、本書の中に十二分に示されている。
つまり、平凡な主人公(たち)に観客は没入し、その活躍にドキドキしながら楽しめる「娯楽作品として、よく出来た作品」だという評価だろう。そして、その次の作品である『天気の子』は「勢いだけの作品で、細部に粗の目立つ失敗作」という評価を下すであろうことは、想像に難くないのである。

たしかに『君の名は。』も『天気の子』も大ヒット作ではあるけれども、それはそれだけの話であって、「作品の質」とはまったく別問題である。
なぜなら、大ヒット作の「ヒット」を支えているのは、『感動』の意味も『愛や勇気』の意味も考えたことがない、観客が大半だからである。嘘だと思うなら、観客を捕まえて聞いてみればいいと思うが、その必要もないだろう。

結局、「手順を踏む」氏の「高畑勳批判」は、「数」を頼んでの、非理性的な誹謗の域を出ないものなのだ。
大西巨人的に言えば、「手順を踏む」氏による「高畑勳批判」は、『君の名は。』や『天気の子』を大ヒットさせた「現実逃避に酔いたい観客」たちとの、「俗情との結託」でしかない。所詮は「勝てば官軍」ということでしかないのだ。

大衆に熱狂的な支持を受けていた、ヒトラーのナチス政権を批判し、反体制運動に加わって絞首刑にされたプロテスタント神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーは、次のような言葉を残している。

『成功者の姿がとくに注目を引くように出現するところでは、多くの者が成功の偶像化に陥る。彼らは、正と不正、真理と虚偽、誠実さと卑劣さの区別にたいして盲目になる。彼らは、ただ行為のみを、成功のみを見る。倫理的・知的判断力は、成功者の輝きの前ではまたその成功に何とかして与りたいという欲望の前では鈍くなってしまう』(『倫理』より)

じっさい、現在進行形の「東京オリンピック」についての、政府とマスコミと企業主導の「お祭り騒ぎ」に対し、なんの疑問も抱けないのが、平均的な日本人(の知的レベル)である。
そして、このような日本人が『君の名は。』や『天気の子』を大ヒットをさせている、というのは言うまでもない。その結果、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』などの挑発的な著作で知られる橘玲をして、下のように書かせることになる。

『日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。』
(橘玲『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』より)

例えば、年に1冊でも活字の本(新聞・雑誌・ネット以外)を読む人というのは、100人のうち何人くらいいるだろうか?
「私は本を読みます」と言っても「(ラノベなどの)娯楽小説」しか読んでいない人が、その内のどれだけを占めるだろう。また「歴史書や政治関連書を読んでいます」と言っても、偏頗で断言ばかりの「オピニオン雑誌」の類いしか読んでいないネット右翼のような人たちが、そこにどれほど含まれていることか。
「保守」を自称する「ネトウヨ」とやり合ったとき、私が「あなたは今、何を読んでいるんですか?」と尋ねると、彼は「ケント・ギルバード」だと答えたので、それで彼の読書レベルがハッキリとしたため、私は「保守を自称するのなら、保守思想の本くらい読むべきです。なにもバークを読めとまでは言わないが、日本人なら、小林秀雄や福田恆存ぐらいは読むべきですよ」と返したものだが、この程度の人が「保守」を名乗れるのだから、『日本人のおよそ3分の1は日本語が(※ 満足に)読めない。』というのも、十二分にありえる「残酷すぎる真実」であり「目を背けたいファクト」だと言えるのである。

だから、高畑勳の「危惧」もまた、十二分に根拠のあるものであり、高畑の危惧は、なにも「ひきこもり」に限られた話なのではない。もっと一般的な話であり、ひきこもっていないが故に、さらに自覚の無い「セカイ系」的な、自己愛的(自己過大評価的)セカイへの「没入型」人間たちにも、おおいに当て嵌まる話なのである。
そして、そんな人たちには、高畑勳の日本語が、満足に読めない。これが現実なのだ。

高畑勳は本書の中でも、自身を「享楽的な人間」だと何度も語っているが、これは謙遜でもなんでもなく、正直な自覚であろう。高畑は、強引なまでに作りたいものを作るし、吸いたければタバコだって吸う。ただ、それが「完全に正しい」ことではないということを承知しているし、その意味を自己批評的に問うからこそ、「享楽的な人間」の問題点にも、自覚的になれる。
高畑が「享楽的なだけの人」を批判するのは、「享楽」を批判するのではなく、「享楽的」な自分自身を問うことのない、不徹底な人間の「知性」の欠如を、「享楽」を活かすためにも、批判しなければならないと考えるからである。
つまり、高畑勳には「自己批評」としての「メタ的視点」が存在するが、新海誠的「没入型」の「セカイ系」は、そうした「自己相対化の(主観から距離をおく)視点」を決定的に欠いている。だから、彼らの言葉には、新海誠的な「世界は、僕たちに冷淡だ」といったような「被害妄想的」で「自己愛的」かつ「自己正当化」的な主張しかなく、およそ「自己批評」の言葉が欠けているのである。

私のような冷淡な人間は「所詮、馬鹿には何を言って無駄」だという諦めが先に立ってしまうのだが、しかし、高畑勳はそうではない。
高畑は、世界への愛、それは「大人として責任」でもあろうそれによって、意地でも世界を諦めない。高畑は、子供たちの未来のために今を諦めないのだし、私は、そんな高畑勳のためにだけ、こんな文章を書く気になったのである。

いつまでも「子供部屋」にこもっていたい人たちには、そりゃあ高畑勳の言葉は「ウザい」だろうと思う。
しかし、高畑の「危惧」が、まんざら的外れではないことを、彼ら自身が、自分自身に照らして感じている部分があるからこそ、彼らは高畑の権威を貶めたくもなるのだろう。
気持ちとしてはわからないでもないけれど、高畑と同様に私も「他人の同情や共感を否定する必要はないけれど、それに甘えるばかりではなく、やはり君は、君自身の問題として、自立を目指せ。その子供部屋から出て来いよ」と言わざるを得ない。「君は君の脚で立て。そして、まずは普通の生活を自力で歩めるようになれ(普通に思考できるようになれ)」と言わざるを得ない。非難しているのではない。その人たちのために、自覚を促しているのである。それでも、君は泣きわめいて拒絶するだろうか。果たして、それでいいのだろうか?

初出:2019年8月23日「Amazonレビュー」

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【補記】

私の掲示板「アレクセイの花園」に書いた、私の『天気の子』評を、以下に紹介しておく。
これは、本書(高畑勳『アニメーション、折りにふれて』)を読む前に書かれたものだが、新海誠作品評価としては、大筋において近いものなのではないかと思う。

例えば、高畑が自作『赤毛のアン』を論じて「アンの視点からではなく、養母マリラの視点からも描いたことの重要性」を語った部分(P313)は、そのまま、『天気の子』が、主人公の視点だけから語り、例えば、警官たちの視点(善かれと思って、彼らを保護しようとした)を欠いていたために、警官たちが「悪役(悪意の人)」めいた描かれ方しかなされていないという「欠点(不適切)」を指摘するものとなっていよう。
そしてこれが、私の言う、「世界は、僕たちに冷淡だ」という新海誠(そして、セカイ系)一流の「独り善がりな被害者意識」ということでなのである。
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  日本一わかりやすい、新海誠監督『天気の子』評

  投稿者:園主
  投稿日:2019年 8月20日(火)20時11分36秒

みなさま、私先日、ただいま大ヒット中の、新海誠監督の新作長編アニメ『天気の子』(※ URL略)を観てまいりました。
新海作品は『言の葉の庭』以外はぜんぶ観ているはずですし、それなりにユニークな作家だとは思うものの、その作家性については「あまり好きではない」というのが、正直なところでございます。
身も蓋もなく言えば、彼の「頭の悪い、自己憐憫のナルシシズム」が鬱陶しいのでございますね。

それでも、前作『君の名は。』では、そうした部分が薄まる一方、時間差叙述トリックSFとしてよく出来ていたので、「成長したなあ」と感心したのでございますが、それに比べますと、今作『天気の子』は、初期作品のような「運命に従う少女」「引き裂かれる少年少女」「大人はわかってくれない(世界は僕たちに冷淡だ)」といった、「被害者意識」の濃厚に漂う悲恋物語という作りが蘇っており、やはり本質的に変わったわけでも、成長して変わったわけでもないのかな、と思った次第でございます。

公開前に実施された製作報告会見で新海は「意見がわかれる映画になると思う」と言い、あえて“賛否両論”映画を作ったのだそうですが、その「賛否両論」の部分というのが、インタビュー記事によりますと、

『「この映画について『許せない』と感じる人もいるだろうと思いました。現実の世界に適用すると、主人公の帆高は社会の規範から外れてしまうわけです。弁護士の先生にもお話を聞いたんですが、法律で考えても、結構な重罪で…。帆高が空の上で叫ぶセリフも許せないし、感情移入できないという人もたくさんいると思います」と批判的な意見にも心を寄せ、「いまの社会って、正しくないことを主張しづらいですよね。帆高の叫ぶ言葉は、政治家が言ったり、SNSに書いたりしたとしたら、叩かれたり、炎上するようなことかもしれない。でもエンタテインメントだったら叫べるわけです。僕はそういうことがやりたかった」と語る。』
(「Movie Walker」(※ URL略))

ということのようなのでございます。
ですが、問題は「社会的な秩序や規範に反する行動」そのものではなく、その行動に「合理性があるか否か」なのでございます。

具体的の申しますと、ヒロイン陽菜は自分が人身御供になり地上から去って天上に昇ることにより、地上の異常気象(降り止まない雨)を解決しますが、主人公の少年帆高は、彼女を取り戻すためには、あえて世界を異常気象にもどすことも厭いません。彼にとっては、そんなことより、陽菜の存在の方が大切なのでございます。
で、彼は、陽菜を取り戻すために奮闘するのですが、彼の行動は、とうぜん周囲の大人たちの「常識的な世界観」には馴染まず理解されませんので、彼の行動は「異常なもの」と理解され、社会規範の中に引き戻そうとされます。

つまり、主人公と、世間一般の間には、決定的な「世界理解」の齟齬が存在しており、それぞれが「善かれと思って」の行動をしているだけなのですが、それがどうして新海の言うような「過剰な社会規範性」の問題になるのか?
これは単に「相互理解の欠如」の問題でしかなく、本作は「社会規範からの逸脱を許さない窮屈な社会を告発する」ような内容にはなっていないと思うのでございますね。
主人公は「大人は解ってくれないけど、僕は彼女を取り戻す!」とばかりに、一人でヒロイックな気分に浸って行動しますが、周囲が彼の行動の意味を理解できないのは、事情を知らないからに過ぎず、とくに偏狭なわけでも何でもございません。
ですから、主人公に、少しでも「他者の立場」を思いやる想像力があったなら「自分が、あの人の立場であれば、同じように行動しただろう」と当然、気づくであろう程度の話でしかないのでございます。

ところが、全体を見渡している監督であるはずの新海自身、けなげで可哀相なヒロインを救うために頑張る主人公に、感情的に同一化してしまっているために、周囲の常識人キャラクターたちの行動が「無理解」なものであり、まるで「悪意ある」もののように描いてしまっている。これは端的に申しまして「幼児性の独り善がり」でしかございません。

しかし、このように幼稚な作品が、美しい作画もあって、若者たちにウケるというのは、よくわかる話でございましょうし、マスコミも含めて、世間は「売れっ子」には弱い。だから「たかが、若い子向けアニメを、大マジメに批評批判したって、アンチ呼ばわりされるのが関の山なのだから、適当に誉めておこう」ということになるのでしょうが、これは私のような年季の入ったアニメファンに言わせますと、アニメを舐め切った態度だとしか申せません。

「余命幾ばくもない女の子のために頑張る主人公を描いた悲恋映画」のような「ベタな(知性を欠いた)映画」があってもいいと私は思います。実写映画であろうとアニメであろうと、それは表現形式であって、その表現に何が盛り込まれるかによって、その作品は「芸術」にもなれば「単なる娯楽」にもなり、それぞれに存在価値はございましょう。

しかし、両者は同価値ではない。
鑑賞眼のある人にしか味わえない作品もあれば、鑑賞眼のある人にもそうでない人にも楽しめる作品もあり、鑑賞眼のない人でないと楽しめない作品というのも、現にある。
そういうものを一緒くたにして「大ヒットですね。良かった良かった」というような頭の悪い「勝てば官軍」的な評価の氾濫は、決してアニメのためにも、日本の若者のためにもならないのだと、私は斯様に考えるのでございます。

実際、主人公と同じ名前の政治家「ほだか」議員は、酒によって「北方領土を取り戻すには戦争が必要ではないですか」などと独り善がりな暴言を吐いて世間からのバッシングを浴びましたが、新海誠監督はこの議員さんにも同情的なのでございましょうし、『君の名は。』に続いて本作でも音楽を担当して『いまや新海監督とは“盟友”となったRADWIMPSの野田洋次郎』が、その歴史的無知に由来する無神経さの故にバッシングを浴びた愛国歌「HINOMARU」問題についても、新海監督は「世間の無理解に憤った」のでございましょう。

『天気の子』とは、「丸山穂高議員の戦争で北方領土奪回発言をバッシングする世の中が悪い」とか「野田洋次郎の「HINOMARU」をバッシングするような世間は偏狭だ」というような内容の作品だと理解すれば、大筋で間違いではない、というようなシロモノなのでございます。

初出:2019年8月23日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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【付記】(2019.10.13)

新海誠監督作品『天気の子』について、本格的な論考を書いたので、興味のある方は、角川文庫版『天気の子』に付した、下のレビューをご参照下さい。

・行きて帰らぬ物語:『天気の子』論
 一一amazonレビュー:新海誠監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)

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【付記2】(2021.06.16)

上記のAmazonレビュー「行きて帰らぬ物語」は、Amazon管理者によって、すでに削除されているため、現在では私の掲示板「アレクセイの花園」に転載されています

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