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黒柳徹子 『窓ぎわのトットちゃん』 : トモエ学園の「卒業生」として

書評:黒柳徹子窓ぎわのトットちゃん』(1981年初刊・1984年講談社文庫)

昨年末に公開されたアニメ映画版『窓ぎわのトットちゃん』がとても素晴らしい作品だったので、原作の方にも興味を持った。
もともと、ベストセラー本というのはあまり信用しない方なので、黒柳徹子の自伝作品である本書『窓ぎわのトットちゃん』についても、ほとんど興味を持たずに来たのだが、あの素晴らしいアニメのどこまでが「原作」の力で、どこからが「アニメ独自のもの」なのかが知りたくなって、本書を手に取ったのである。

(表紙画・いわさきちひろ

なお、アニメ版については、すでにレビューを書いているので、できればそちらを先に読んでいただきたい。本稿は、そこで書いた「疑問点」について、原作がどのように回答してくれたのかを示すものとなるはずだからだ。

 ○ ○ ○

まず、この原作『窓ぎわのトットちゃん』についての、総合的な評価を書いておこう。
この作品の魅力は、次の2点に集約できると思う。

(1)「子供」というものが、よく描けている。
(2)「子供が本来そなえ持っているもの」を信じる「教育」の重要性というものを、体験を通してうったえている。

子供というものは、一種の「野生」であり、その意味で「多様な可能性と力」を秘めた存在だ。だが、それゆえにこそ、「人間社会」における「規範」に収まらないものをも持っていると言えるだろう。要は、そういう「本来そなえている可能性(力)」をいかに「生かす」教育が可能なのかが、問われることにもなる。

もちろん、人間社会が人間らしいものであろうとするならば、人間社会は「弱肉強食」であってはならない。だからこそ、一定の「規範」も必要なのだが、ややもするとそれが「規範のための規範」になってしまって、せっかく子供たちが備えていた「可能性」を損なってしまうことにもなるし、むしろそういうことの方こそしばしばである。つまり、「管理教育」の通弊とは「角を矯めて牛を殺す」という格言どおりのものなのだ。

言うまでもなく、社会において、やたらに「角」を振り回されたのでは、危険で仕方がない。しかし、だからといって、角を切り落とし、二度と生えてこないようにし、それでも足りなくて、牛を無害な「家畜」とするために、薬物などを使って牛本来の「生気」まで奪ってしまったら、それはもう「教育」ではなく「家畜化」であり、要は「奴隷化」「ロボット化」である。

これとほとんど同じことをしているのが、「標準化」と「効率性」を旨とする「管理教育」であり、その問題点、その「非人間性」だと言えるのだ。

たしかに、大勢いる子供たち個々の「個性を生かす教育」というのは、口で言うほど簡単なことではないだろう。
事実、本書で、理想的な学校として描かれる「トモエ学園」も、全校児童50人程度のスケールであり、これは、その程度しか児童を集められなかったということではなく、本書のもう一人の主人公と言っていい「トモエ学園の設立者にして校長」である「小林先生」こと「小林宗作」が、自分の目の届く範囲として、意識的に設定した「教育可能な規模」なのである。事実、本書にも「クラスは、最大でも30人まで」だという小林の考え方が明記されている。

トモエ学園の仲間たち)

つまり、かつての日本のように、子供たちの数が多かった時代には、「理想的な教育」が叶わなかったというのも、ある程度は仕方のないところはあっただろう。あまりにも人数が多すぎて(教員の割合が低すぎて)、個々の児童に目が届かないから、その「個性」を生かすことなどできなかったという現実も、たしかにあったはずなのだ。

しかし、だからと言って、子供たちも「ベルトコンベア式の単純作業」で加工して、「画一的な商品」に仕上げてしまっても良いものなのかと言えば、無論、そんなことは許されない。
「子供」もまた一個の人間であり、当人にそれを主張する能力はなくても、「元子供」であった大人の側は、それを理解して、可能なかぎり「個性の伸ばす教育」を目指さなければならない。
それを目指した上で、それが十全に叶わない現実があったとしても、それを目指して十分ではなかったのと、それを最初から諦めて、やらなかったのとでは、大違いなのである。一一なぜなら、それは「子供」たちにも伝わるからなのだ。

私は、前記アニメ版のレビューで、次のような指摘をしている。

『そんなわけで、今回の「アニメ映画版」も、当初は観る気などぜんぜん無かった。アニメ映画化と聞いても「今頃? ああ、原作の続編が刊行されたから、このタイミングなんだな」という程度にしか思わなかった。続編の刊行はテレビニュースか何かで視て、知っていたのだが、当然、まったく興味はなかった。
ただ、他の映画を観に行った際にたまたま見た「予告編」が、かなり好印象だったので「もしかすると、ちょっと面白いかもしれない」とは思ってはいたのだ。』

『本作(※ アニメ版)での「演出の妙」は、そうした「わかりやすい」部分だけにあるのではない。その典型が、トットちゃんが転校したフルースクール「トモエ学園」の園長だった「小林先生」の描き方である。
「予告編」などでは、小林先生がトットちゃんと初めて会った時に言った『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』という、いかにも「子供に理解のある、理想の教育者」的な言葉が前面に出て、へそ曲がりな私などは、かえって鼻白んだのだけれど、本作で感心したのは、この園長である小林先生が、ひとクラスだけの「トモエ学園」の、たったひとりの担任教師である、まだ若い女性教師の大石先生を、子供たちの目のないところで、厳しく叱責しているシーンだった。トットちゃんが、たまたまその部屋(園長室?)の外を通りがかり、いつもとは違う小林先生の厳しい声にびっくりする、というシーンである。』

原作(現実)では『ひとクラスだけの「トモエ学園」』でもなければ『たったひとりの担任教師』でもなかったのだが、それはともかく、問題は下の部分だ。

『小林先生がトットちゃんと初めて会った時に言った『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』という、いかにも「子供に理解のある、理想の教育者」的な言葉が前面に出て、へそ曲がりな私などは、かえって鼻白んだ』

このアニメ版を、好意的に、あるいは高く評価する人の多くは、きっと私がここで示したような反応は示さず、素直に、この小林先生の言葉を好意的に受け止めるだろう。
だが、それこそが、「管理教育」の賜物である「優等生化」の結果でしかない。

どういうことかというと、原作である本書を読んでみてわかったことなのだが、小林先生がトットちゃんに『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』という言葉をかけるのは、アニメの場合とは違って、決して一度きりのことではないのだ。
小林先生は、ことあるごとにトットちゃんに、この言葉を投げかけ続けたのであり、著者の黒柳徹子は、そのことの意味を理解したからこそ、今でも小林先生への感謝と尊敬の念を失わないのである。

つまり、小林先生が初めて会ったトットちゃんに『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』という言葉をかけたのは、トットちゃんに気に入られようとして、適当なことを言ったのではなく、その初めての面談で、トットちゃんに「なんでも、好きなだけ話してごらん」と促し、トットちゃんのまとまりのないお話に、なんと4時間も真摯に耳を傾け、その結果が、あの『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』という「理解の言葉」だったのだ。

(「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」)

つまり、小林先生は、目の前の女の子が、大変な「可能性と力」を秘めた、魅力的な子供でありながらも、それゆえにこそ「学校教育」の中でははみ出してしまわざるを得なかったのだということを、深く理解したのだ。そして、天真爛漫であり、何も悩みを抱えていないようなトットちゃんではあっても、学校で「はみ出し者」の「厄介者」として「持て余されている」というのを、子供の直感的なもので、どこかで感じている、ということを察したのだ。
だから「そうではないんだよ。君は決して、社会に適応できないダメな人間などではない。むしろ君は、ほんとうは、(並外れて)いい子なんだよ。」と、そう「心から」の評価を伝えたのである。それは決して、子供に取り入るための「嘘」や「お世辞」ではなかったのだ。

(「どうしてみんな、私のことを〝困った子〟って言うの?」)

小林先生は「子供は個々に、無限の可能性と力を秘めた存在だ」という「信念」を持っていた。そして「教育」とは、「子供たちを社会の鋳型に嵌めて、その角を矯めてしまうこと」ではなく、子供たち個々の「角(武器・長所)」を見つけ、それを伸ばし、それを社会の中で生かしていける術を与えてやることこそが「教育」だと考えていたのだ。

だから、前の学校で、周囲から浮いていたトットちゃん、そして結局は「退学」させられることになったトットちゃん、自尊心を傷つけられて無意識のうちに傷つき、どこかで自信を失っていたトットちゃんに、何度も何度も『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』という言葉をかけ続けたのだし、本書にも書かれているとおりで、それは何もトットちゃんだけに対するものではなく、すべての生徒に、いやすべての子供たちに対する、小林先生の「信念」だったのである。

その証拠に、小林先生がそうした言葉をかけたのは、トットちゃんただ一人でなかった事実が、本書では語られている。
小林先生は、身体障害のある生徒に対しても「君はやれるんだ」という言葉をかけ続けていたのだ。そして、何とか、その子が活躍できる場を作ってやろうと細やかな配慮を怠らなかったということが、本書で証言されている。

つまり、のちにタレントとして活躍し、ユニセフの親善大使にもなる、あの才能ある「黒柳徹子」に対してだから『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』と言ったのではないのだ。
結果として、黒柳はそうした「才能」を開花させたけれども、小林先生は「すべての子供は、個々に可能性を秘めている」と信じて、その「個性」を伸ばし、「才能」を開花させてやろうとし、それに必要な「自信」や「自尊心」を与えてやろう、いや「守り育ててやろう」としたのである。

黒柳徹子のような「特別な才能のある人」だけではなく、誰もが個々に「特別な才能のある人」になれる、というのが、小林先生の「信念」であり「教育理念」だったのだ。

「黒柳 徹子 ユニセフ親善大使」

 ○ ○ ○

そして、こうしたことを、私は実感として理解することができる。というのも、私自身が「一人のトットちゃん」だからだ。
一一どういうことかというと、他人から見れば、今の私だって「はみ出し者」の「厄介者」として「持て余されている」存在だからだ。

だてに、これまでの人生で、何度となく「同好サークル」から「和を乱す」存在として追い出され、「mixi」や「Twitter(現「X」)」から追い出され、挙げ句の果ては「Amazon(カスタマレビュー)」からさえ追い出されたわけではない。
私は正真正銘の「管理社会の中のトットちゃん」であり、決してこの「管理社会」の中で、無難に「優等生」を演じているような人間ではないのだ。
また、だからこそ最初に、アニメ版『窓ぎわのトットちゃん』を褒める人たちに向かってさえ、

『このアニメ版を、好意的に、あるいは高く評価する人の多くは、きっと私がここで示したような反応は示さず、素直に、この小林先生の言葉(※ 『君は、ほんとうは、いい子なんだよ。』)を(※ 何の疑いもなく)受け止めるだろう。だが、それこそが「管理教育」の賜物である「優等生化」の結果でしかない。』

と批判的に書いたのである。

作品の中で「立派の教育者」として描かれていれば、それをそのまま鵜呑みにして「そうだ、そうだ。私もそう思う」と言って満足しているような「従順」な人であったら、きっと「学校」でも「会社」でも、「大勢への順応」が得意なことだろうなと、そういう意味で書いたのである。
要は、そういう人は、「管理」や「統制」に対して鈍感であり、「綺麗事の大義名分」さえ与えられれば、何も考えずに、それを「鵜呑み」できるような、「角を矯められた家畜」同然の人間だという批判だったのである。

しかし、こんな私だが、子供時代は、むしろ「優等生タイプ」だった。
「勉強は、しなければならないもの」「決まりごとは(嫌でも面倒でも)守らなければならないもの」「先生をはじめとした、大人や目上の人は、尊重しなければならないもの」なのだと、そうナイーブに信じて、可能なかぎり、そうあろうとした子供だった。

ただし、私は昔から「好きなことしかできない」人間だった。
大人になって、知恵がついてからは、それを「私は趣味人(ディレッタント)なのだ」とか言って煙に巻いているけれど、簡単に言えば「好きなこと」しかやれないし、結果として「嫌なことはできない」人間だったのだ。だから、「勉強」は「しなければならないもの」だとは思っていたけれど、結果としては「やらなかった」し「できなかった」。勉強は必要なことであり、やった方が良いというのは、頭ではわかっていても、どうしても好きなことの方に惹かれてしまい、結果としては、やらなかったのである。

だから、特に勉強しなくても、それなりの成績をとれた小学生時代は別にして、勉強しなければ、授業についていけなくなる中学高校時代の「通知表」に書かれたいたのは、たいがい「物事に、真面目に前向きに取り組む姿勢は素晴らしいと思います。ただ、その意欲を、もう少し勉強に振り向けてくれれば、言うことはありません」といったようなものだったのである。

だから今でこそ、「独学」して、そんじょそこらの大卒や、大学教授すら「恐るるに足らず」などと豪語している私だが、そこまでやれたのも、それは「強いられた勉強」ではなかったからだ。「趣味の勉強」だからこそ、際限もなく、馬鹿みたいに、自主的に、勝手に、取り組めた、その結果なのだ。まさに、「無償の勉学」であり、「好きこそ物の上手なれ」の典型だったのである。
一一例えば、下のレビューで私が批判しているのは、「東大総長」を務めたこともある文芸評論家で映画評論家、かの「蓮實重彦」だ。

著者の黒柳徹子は、本書のタイトルを『窓ぎわのトットちゃん』とした理由として、当時「窓際族」という言葉が流行っており、それに子供の頃の自分をなぞらえたのだと、「あとがき」に書いている。

「窓際族」とは、要は、定年退職まぢかの、実務的にはあまり役に立たなくなった古参社員のことである。
昔は「年功序列」の「終身雇用」が生きていたから、そんな社員でも辞めさせられることはなく、定年まで、他の社員の邪魔にならないような居場所が与えられていたのだ。それが「窓際」だったということである。
要は、他の社員たちから役立たずとして内心で疎まれてはいても、邪魔さえせずに「外でも見て、ぼーっと過ごしている」なら、一応は許されるといった存在のことを、軽蔑を込めて、そう呼んだのだ。

で、アニメでも描かれていたとおり、トットちゃんも「教室」の管理的な運営に馴染めず、すぐに外を眺めては、好きな「チンドン屋さん、来ないかなあ」などと考えているような子だった。
だから、先生も心得たもので、トットちゃんに窓際の席につけることで大人しくしていてもらおうと、いちおうは妥協し、折り合いをつけていたのである。

そんなわけで、トットちゃんは、「邪魔者として窓ぎわに追いやられた存在」だという意味で「窓ぎわのトットちゃん」ということになったのである。

だが、トットちゃんの「窓」とは、無論「外部」へと開かれた、自由の呼び声を伝えてくる開口部だった。
だから、大好きなチンドン屋さんが通りかかると、トットちゃんは興奮して、教室の窓から身を乗り出し、大声でチンドン屋さんに呼びかけるのであった。そのとき彼女は、「境界」を超えて「自由」の側に大きくはみ出していたのである。
また、だからこそ、退学にもなったのだ(ちなみに、かつては「チンドン屋さん」もまた、社会から蔑視された、職業被差別的な存在であった)。

で、私にとっては、そうした「教室」よりも、むしろ「社会」の方が窮屈であり、「皆と同じであること(同調圧力)」を課してくる「管理的な空間」だと感じられた。特に空気の支配」山本七平)と言われる「日本の社会」は、そのようなものと感じられたのだ。
「自分を主張しすぎてはいけない」「和を持って尊しとなす」、西欧風の「個人主義(まず個人があって、その上での社会であるという考え方)」が許されない、つねに右顧左眄して周囲の顔色を窺わないでは済まされない社会である。

だから、私は「学生時代」よりもむしろ「社会人」になってから、「それはおかしい」「なんで私の方が、みんなに合わせなければいけないのか」「そんなの私の勝手でしょう」「じゃあ、徹底的に議論して、白黒つけようじゃないですか」というようなことばかり言って、「日本社会」の「暗黙のルール」に抵抗しては、あちこちから弾き出されてきたのである。

だが、それでも懲りずに、今もこんなことを書いているのは、それは「社会に対する使命感」からなどではなく、そうすることが「好き」だからである。
そうすることが「好き」だからそうするのであり、言い換えれば、そうしかできないし、それが私固有の「可能性」であり「才能」であり、持って生まれた「角」だということなのだ。この角を「矯めて」しまったら、それは私ではなく、「その他おおぜい」の「家畜」や「ゾンビ」や「奴隷」や「ロボット」みたいな、「無個性な存在」になってしまわざるを得ない、ということなのだ。

私は、先のアニメ版『窓ぎわのトットちゃん』のレビューにおいて、次のような指摘をしてもいる。

『いままさに燃え上がり、焼け崩れる「トモエ学園」の前に立って、小林先生は落胆するのではなく、「さあ、今度はどんな学校を作ろうか」と、不屈の闘志をみなぎらせた言葉をもらす、そんなシーンがある。

私はこのシーンを、ほぼ間違いなく、本作におけるオリジナルの描写であり、実在の小林先生こと小林宗作へのオマージュを込めた、「イメージシーン」であろうと考えた。
だが、「Wikipedia」をみるかぎり、これも、「逸話」として残っているものであり、事実かどうかは確認できないまでも、本作での創作ではなかった。』

アニメでは、焼夷弾で燃え上がっている学校を前にして立ち尽くす小林先生の背中が描かれる。そして、校舎が燃え落ちるのを確認した小林先生が、こちらに振り返って「さあ、今度はどんな学校を作ろうか」と、力強くも、独り言のように言うので、私はこのシーンを「不自然なもの」と感じて、アニメオリジナルのフィクションではないかと疑った。だが前記のとおり、「Wikipedia」には、それは現実の言葉として伝えられているものだとの説明があった。

(晩年の小林宗作

で、この点について、本書では、小林先生がこの言葉を発したのは、先生の横で同じように燃え落ちる校舎を見守っていた、息子さんに対してだった、という説明がなされている。
「トモエ学園」は個人経営の私学であり、家族経営的なものだったから、息子さんも学園に関わっていたのである。

ともあれ、小林先生のこの言葉が、そこにいた息子さんに向けて語られたものだったというのであれば、ごく自然なものとして、私も素直に受け止めることができる。
アニメでは、そのあたりを「演出的」に、言うなれば「カメラ目線」で語らせたのだが、現実の小林先生は、決して「独り言」として、その決意を口にしたのではなかったのである。

事ほど左様に、なんでも「物分かりよく鵜呑みにする」というのは、「素直」なのではなく、「家畜化が進んだ、思考停止状態」にすぎないと、私はそう言いたいのだ。

「なんで?」「どうして?」「それって、どこか変じゃない?」という素直な感情を、無難に抑圧したりせず、素直に表現できる「自由」な人間であってこそ、小林先生の「志」を引き継ぐ、「トモエ学園の卒業生」たり得るのである。



(2024年2月11日)

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