新海誠監督 『天気の子』 : 行きて帰らぬ物語
作品評:新海誠 監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)
最初に忌憚なく、結論を書いておこう。新海誠監督の長編アニメーション『天気の子』は、予言的に危惧されたとおりの、大ヒット「駄作」である。
言うまでもなく、大ヒットしたから「傑作だ」などという道理は、微塵もない。
人びとがしばしば、つまらないものに熱狂するというのは、洋の東西を問わず、うんざりするほど繰り返されてきた、歴史的事実なのだ。作品鑑賞について、何の訓練も受けていない者の鑑賞能力とは「それ相応」のものでしかないというのは、幼児に数学問題が解けないのと同じことなのである。
『天気の子』を観た直後の私の評価は、おおむね次のようなものだった。
(1)観ているぶんには、それなりに楽しめる「娯楽性」はあるけれど、あとで冷静に考えれば、ご都合主義的な展開が多く、いろいろと粗の目立つ作品。
(2)しかし、なによりも問題なのは、前作『君の名は。』では薄れたかに見えた、新海誠らしい〈自己憐憫のナルシシズム〉が、ぶり返していた点だ。
新海の初期作品には、「運命に縦容として従う少女」「(その運命に)引き裂かれる少年少女」「大人はわかってくれない(世界は僕たちに冷淡だ)」といった、「被害者意識」の濃厚に漂う悲恋物語、という「作り」が共通していた。それが本作では(パッピーエンドにしてはいるが)わかりやすく蘇っており、新海は作家として、本質的に変わったわけでも、成長して変わったわけでもなかったようだ。
(3)こうした「セカイ系」的な「自意識過剰な主観性」のゆえに、主人公に好意的な人は「良い人」、無理解な人は「嫌な人、あるいは悪意の人」ででもあるかのように描かれてしまっている。
例えば、晴れ女の超能力を持つ少女・天野陽菜が、その能力を使い続けたために、自然のなかに取り込まれて消えてしまうという作中の事実について、彼女に恋する主人公・森嶋帆高自身、ほかの誰にも説明しようとはしてないのだし、そんなトンデモな事実を、周囲の大人たちが簡単に理解できるはずもない。だから、帆高が陽菜を取り戻すためにおこなう行動が、常軌を逸した暴走にしか見えず、それを止めようとするのは「善意の第三者」の行動として、非難の余地などあろうはずもないものなのに、例えば、彼らを保護しようとする警察官を始めとした大人たちは、帆高に対し、まるで悪意の邪魔立てをしているかのように、不適切に描かれてしまっている。
これは、作品を俯瞰して、登場人物を統御すべき新海監督が、主人公と一体化して、主観的に登場人物たちを描いてしまっている証拠であり、端的に「頭が悪く」「拙い」としか言いようがない。
つまり、『天気の子』が否定的に評価されるとしても、その論点は「(作品に込められた)考え方や主張」の問題ではなく、単に「作品作りの巧拙」つまり「(物語構成)技術論」の問題でしかないのだ。
にも関わらず、新海誠は、作品を公開する前から、予防線を張るかのように、インタビューで次のように語っている。
このインタビュー記事を読んで、その度しがたい「自己弁護」性に、心底うんざりさせられた。
新海はこのインタビューで「批判的なご意見もありがたいと思っている」という趣旨の「世間並みの建前」を語ってはいるが、それが「本音」とは真逆なものであることは、なによりも『天気の子』という作品が、じつに正直に暴露している。
つまり、『天気の子』を「帆高と社会の対立」を描く作品だと主張しているけれども、実質的にこの作品が描いたのは「独り善がりな帆高と、彼を理解しようもない大人たちとの齟齬」にすぎない。
説明努力もしていないのに、帆高は「何で解ってくれないんだ」という被害者意識で、周囲の「大人社会」を見ており、だから非難がましく「みんな何も知らないくせに! 陽菜が犠牲になったから、世界が救われたのに!」というような不満をもらす。
しかし、これはお門違いというものだろう。周囲の大人社会が、意識的に「陽菜を人柱にした(犠牲にした)」と言うのならば、それは当然非難されてしかるべきである。けれども、いずれ陽菜が消えるという認識が無かったとは言え、陽菜に晴れ女の能力を恒常的に使うように仕向けたのは、他ならぬ帆高なのだし、なにより、自分が消えるかもしれないと知りながら、皆と、そして帆高のためにも能力を使い続けたのは、陽菜自身であり、彼女の主体的な選択であって、それは主体的な「自己犠牲」の行為なのだ。
だから、それで、陽菜に能力を使うように強いたわけでも、その結果を知っていたわけでもない「大人たち」を責めるというのは、まったくのお門違いであり、八つ当たり以外の何ものでもないのである。
しかし、「帆高と社会の対立」という構図には「新海誠と、新海に無理解な大人たち(有識者)の対立」という、新海にとっての現実が、そのルサンチマンの発露として、なかば自覚的(報復的)に投影されており、その一方、新海はもともと、主人公に情緒的(非理性的)に同一化する(つまり、理性的な判断が働かない)タイプであるため、『天気の子』という作品の構造を「帆高と社会の対立」だなどと、自らに都合よく「取り違えてしまう(合理化した)」のである。
つまり、端的に言えば、『天気の子』は「説明能力のない独り善がりなお子様と、彼にその自覚と成長を促す教育的な大人との対立」でしかなく、新海の言う「賛否両論」のある作品などでは、毛頭ない。
なぜなら「子供を、その独り善がりな主観的視野から、さらに広い視野を持つよう、成長うながす」という善意の行為は、よほど病的な「視野狭窄」に陥っている者でもないかぎり、誰もが賛成するしかない、当然のものだからである。
そして、『天気の子』に「賛否両論」めいたものがあるとすれば、それは、作品を主観的に評価するだけの未熟な鑑賞者(とそれに迎合する功利的な大人)と、作品を客観的に評価できる訓練された鑑賞者との対立にすぎないのだ。
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さて、以上で「なぜ『天気の子』は駄作なのか」についての、基本的な説明は済んだ。
知的・論理的に思考ができず、ただ「なぜ解ってくれないんだ」式に叫ぶだけの「理解乞食」には、理解のしようもないだろうが、それはどうしようもないので、話を進めよう。
『天気の子』が、このような「構造的欠陥」によって、不出来な作品であるだけなら、さして問題はない。
しかし、新海誠の作品は、前作『君の名は。』の大ヒットを受けて、本作『天気の子』も大ヒットしており、それにあやかる「金儲け目当ての太鼓持ち的な大人」たちも少なくないがゆえに、その悪影響が看過できないものともなっている。
無論「駄作を駄作(あるいは、傑作を傑作)と言う」だけなら、それは誰にでも出来ることだが、それが「何ゆえに駄作(あるいは、傑作)なのか」「駄作が傑作と誤認されることの問題とは何か」を語ることは、決して誰にでも出来ることではないし、余計な行為などでもない。
人間は「頭を使ってこそ人間」なのである。
つまり「好き嫌い」と「良し悪し」の区別がつかないような、思考能力(脳)の未熟な「子供のまま」であってはならないのだ。
さて、『天気の子』の観賞後に、こうした論点において注目すべき本を読むことが出来た。
高畑勳のエッセイ集『アニメーション、折りにふれて』(岩波書店)は、6年前(2013年)、つまり『君の名は。』よりも前に刊行された著作であるにもかかわらず、「新海誠的な問題」の本質を、鋭く射抜いており、その予言的な明察には、ほとほと感心させられた。
本書の中で、高畑が言及している新海誠の作品は、自主制作のデビュー作である『ほしのこえ』だけだが、高畑はこの作品を、にべもなく、こう切り捨てている。
10年も前、まだ世間が新海誠のことなど知らなかった段階で、高畑は、後の「新海誠ブーム」の本質を、すべて言い当てて見せていたと言えよう。私が「予言的」と呼ぶ所以である。
そして、この名匠(『太陽の王子ホルス』『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』『じゃリン子チエ』『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫の物語』など)の言葉を、新海誠は確実に読んでいただろうし、それに深く傷つき、片時もこの「酷評」を忘れたことはなかったであろう。
言うまでもなく、高畑のこの酷評は、新海に「幼児期(主観的世界観)からの卒業と成長」を期待し促したものであった。
現に、上に引用した文章の註で、高畑は次のように補足している。
しかし、残念ながら、高畑が正しく「危惧」したとおり、新海は高畑を「無理解な大人」の象徴として「恨み」を抱き、「無理解な大人を見返す」ことを、作品制作の暗い燃料としたのである。
高畑勳は、同書で指摘していた。
ここで語られているのは、特に新海誠を意識したものではない。だが、新海にかぎらず「内向き・現実逃避的」で、「理想」を主体的なものとして考えることがなく、ひたすら「人が押しつけてくるもの」と感じてしまう「被害者意識」の強い、「思考放棄をした若者」たちへの「大きな危惧」が、ここでは「ささやかな期待」とともに語られている。
で、その結果はどうであったろう。
新海は、先のインタビューで『社会を描くことが、どうしても必要になってきているのではないかと思っています』と語ったとおり、『天気の子』で、社会に目をむけたつもりなのかもしれない。
しかし、その現実は、私もすでに指摘したとおりで、「主観に埋没して、他者の視点を欠いた描写」しか出来ていないというのが、今の新海誠なのである。
つまり「他者の立場」も思いやれない人間に「社会性」などあろうはずもなく、『天気の子』という作品が端的に示しているのは、新海誠という作家の「社会性の欠如」であり、彼が度しかたいほど変わらない「セカイ系的感性(=世界と私の中間にある社会の欠落)」の持ち主だという事実なのである。
そしてそのために、新海は『「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者』たちからの、さらに広範な支持を受け、ヒットメーカーとして『情報メディア産業推進派の能天気なおじさんたち』の寵児となった(『天気の子』における、スポンサー企業との「母子密着型(自立性欠如型)」描写を見よ)。
無論、これは「偽の勝利」でしかない。しかしそのことが、新海や、彼を支持する人たちには理解できないはずだ。なぜなら、彼らは「主観的」にしか世界を見ることができず、俯瞰的かつ相対的な意味を、社会的な視点から把握することが出来ないからである。
大衆に熱狂的な支持を受けていたヒトラーのナチス政権を批判し、反体制運動に加わって絞首刑にされたプロテスタント神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーは、次のような言葉を残している。
じっさい、現在進行形の「東京オリンピック」ブームについての、政府とマスコミと協賛企業主導の「お祭り騒ぎ」に対し、なんの疑問も抱けないのが、平均的な日本人(の知的レベル)である。
そして、このような日本人が『君の名は。』や『天気の子』を大ヒットをさせている、というのは言うまでもない。その結果、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』などの挑発的な著作で知られる橘玲をして、下のように書かせることになる。
例えば、年に1冊でも活字の本(新聞・雑誌・ネット以外)を読む人というのは、100人のうち何人くらいいるだろうか?
「私は本を読みます」と言っても「(ラノベなどの)娯楽小説」つまり「思考型ではなく、没入逃避型のテキスト」しか読んでいない人が、その内のどれだけを占めるだろう。また「歴史書や政治関連書を読んでいます」と言っても、偏頗で党派的な断言ばかりの「オピニオン雑誌」の類い(これも逃避型)しか読んでいないネット右翼のような人たちが、そこにどれほど含まれていることか。
しかし、「新海誠ブーム」や『天気の子』ブーム、はたまた「東京オリンピック」ブームを支えているのは、こういう、長いものには好んで巻かれて熱狂し、立ち止まって考えることの絶えて出来ない、ずるずる行ってしまう、「提灯行列」的な日本人なのである。
○ ○ ○
高畑勳は、新海誠的な作品の問題点を、盟友宮崎駿の傑作『千と千尋の神隠し』を例に挙げつつ、次のように説明していた。
これを読んで「宮崎駿の傑作長編も、新海誠の長編アニメも、ともに日本人の伝統的美意識に根差した、世界に冠たる傑作なのだ」としか理解できないのなら、その人は、もっと頭を鍛えるべきであろう。
たしかにここで高畑は、加藤周一の「日本文化・芸術論」を引いて、「昨今の日本のすぐれた長編アニメ」が、とつぜん現れたものではなく、日本の伝統的美意識に、無意識的に支えられて現れたものだと語っている。しかし、文化的特徴には表裏の両面があり、長所というのは、しばしば短所でもある。
つまり「日本的美意識」は「細部に繊細な美意識を宿らせる」という長所を持つ半面、「全体を俯瞰的かつ論理的に把握して、設計的かつ構築的に全体を作り上げるという、構想力に欠ける」という弱点をも持つ、ということだ。平たく言えば、「近視眼的」で「泥縄式」で「直観的かつ非論理的・主観的」なのだ。
そして、この高畑の文章には、宮崎駿の傑作の長所以上に、新海誠の作品の弱点が、的確に表現されていると言えるだろう。高畑のここでの指摘は、15年後の新海誠作品『天気の子』の弱点を、そのまま言い当ててしまっているのだ。
(ちなみに、前述のインタビューで、新海誠が、宮崎駿について好意的に言及している点が、たいへん興味深い。たぶん「勝者」同盟のつもりなのだろう)
高畑勳は、「日本アニメは観客巻き込み型映画の一ジャンルとなった」という見出しの後に、このようにも書いている。
例えば「ジェットコースター」を考えてみるといい。ジェットコースターには「意味的内容」はなく、客が頭を使う要素は皆無だ。乗客は、ただ座席に座って目を開いているだけでいい。あとはコースターが勝手に、「急降下」があったり「カーブ」があったり「旋回」があったりという、刺激を単調化させないための「捻りと変調」を加えた「スペクタクルの世界」へと、乗客を運びさってくれる。
たしかに、ジェットコースターは、面白い。いや、正確に言えば「快感を与えてくれる」娯楽であり、それにはそれ相応の価値がある。
そして、その「面白さ」は、『天気の子』という作品の面白さと、とてもよく似ているのであるが、その正体とは、知性や理性とは、ほとんど関係のない「脳科学的な、本能的反応(脳内快楽ホルモンの分泌)」でしかないのである。
例えば、幼児の惹かれる「YouTubeの動画」というのは、どういうものだろうか。
そうした作品とは、「中身(らしい中身)」は無く、きわめて「単純」ではあるが、テンポの良い繰り返しがあったり、時に驚くような変調が仕掛けられたりしたものであることが多いようだ。つまり、ジェットコースター的なものに近い刺激を与えてくれる。
そこには大人が鑑賞して「感心するようなテーマ」などは無いし「繊細微妙な描写」があるわけでもなく、いずれにしろ「深く、その表現するところの意味を、主体的に考えなければ味わえないような作品」ではない、というのは確かで、端的に言えば、大人には「たわいない作品」だと言えるだろう。
なぜ、幼児が、このような「たわいのない」、大人には「単純すぎる」と感じられる作品を喜ぶのかと言えば、それは作品の内容が「複雑な意味」を提供するものではなく「直接的な刺激」を提供するものだからであろう。
幼児の、そして子供の脳というのは、大人の脳にくらべて「複雑な思考」能力には欠けるものの、「刺激には敏感」である。大人のような「複雑な思考」は、経験的な「知的訓練」によって脳が思考回路として鍛えられ、漸進的に複雑さを増すことによって初めて可能になるものなのだが、「刺激にたいする敏感さ」は、これから発達していくべき幼児の脳の当然の傾向として、大人よりもずっと直接的で大きな「快感や不快感(刺激)」を感受するのである。
このような「知的鑑賞対象と本能刺激対象」という違いの、よりわかりやすい例として「エロ作品(映画・マンガ・小説)」などを挙げてみよう。
エロ作品に対して、最も感受性に優れているのは、思春期以降の若者(青年)である。これは、他の年代(幼児や高齢者)に比べて、彼らがなにがしかの優れた「読解能力=知的能力」を持つからではなく、「種の保存本能」としての「性欲」が、最も活発な世代だからに他ならない。若者は、性的な刺激に敏感なのである。だからこそ、その刺激物が「粗製濫造の拙い創作物」であろうと、若者は敏感に、つまり過剰なまでに「反応」し「興奮」し、その「創作物が惹起する性的妄想に没入する」ことが容易に可能なのである(※ 特に男性は)。
それに比べ、そもそも幼児には、その本能的能力が未発達なので、エロ作品が期待する反応を示すことが出来ない。一方、性的本能が衰えた高齢者の場合は、エロ作品が鑑賞者にどのような反応を期待して作られたものなのかを「知的に理解」してはいるけれども、「性的本能」の衰えによって、エロ作品が期待するような「反応」としての「興奮」を満足に惹起することができない。高齢者は、性的な亢進期をすぎて「性欲」が衰えただけではなく、過去の経験と記憶によって、多くの性的刺激に対して、言わば「慣れっこ」になってしまっているので、容易なことでは「本能的に興奮する」ことが出来なくなっているのである。
つまり「性的興奮」と「知的思考能力」は、ほとんど無関係であるばかりではなく、しばしば背反するものなのだが、この違いがどこに由来するのかと言えば、それは「性的興奮」とは、脳への「直接的な刺激」によって脳内快楽物質(ホルモン)が多量に分泌されるという機械的な単純現象であるのに対し、「知的思考能力による鑑賞と、それによって得られる快感」というのは、脳への「直接的刺激」ではなく、「思考」という高度な脳的作業を行うことを介して、間接的(メタ的・自己言及的)に脳を刺激し、脳内快楽物質を分泌するという高度な作業なのである。言い変えれば、この「高度な脳的作業」を行うには、それ相応の「訓練された知的能力」がなければならないが、「本能的な直接刺激」に対しては、その刺激の対象年齢内であり、脳障害でもないかぎり、誰でも、機械的な反応として「興奮」を得ることができるのである。
そして、このことをわかりやすく説明するならば、例えば「恋愛」というものは、知的能力の高低にも、倫理観の有無にも関係なく、誰にでもできるものであり、なぜそうなのかと言えば、それが本質的には「本能的(脳機構的)な単純反応」にすぎないからなのである。
「いや、恋愛とは、本能だけではない。例えば、その人の行動や人格の美しさに感動することで、人は恋に落ちたりする」と言う人もいるだろう。これはなかなか賢い抗弁だ。と言うのも「外見的美しさ」によって「恋に落ちる」というのは、典型的な生物学的反応であるからだし、「容貌や性格傾向の好みの違い(相対性)」もまた、遺伝的要素と後天的な学習による脳内プログラムの発露でしかない。だから、少しでも知的・人間的なものとして「恋愛」を考えようとすれば、(本当は単なる「面食い」であっても)対象者の「行動や人格の美しさ」を問題にしなければならないからである。
しかし、自分の胸に手を当てて正直に考えてみればわかることだが、残念ながら人間というものは「行動や人格の美しさ」だけで「恋に落ちる」ということはない。たしかに「感心する」とか「尊敬の念をおぼえる」ということはあるだろうが、それは、そのまま「恋愛」には直結しない、「副次的要素」でしかないのだ。
つまり、「自分の好み(のタイプ)」の人が、そのような「行動や人格の美しさ」を見せたならば、人は「感心」し「尊敬の念をおぼえ」、その後に「恋に落ちる」、ということでしかない。忌憚なく言ってしまえば、容貌が完全に好みではないとか、同性であるとかするならば、その人に「行動や人格の美しさ」があろうと、人は普通、その人に「恋愛」感情を抱いたりはしないものなのであり、動物としての人間(の脳)は、そのように作られているのである。言い変えれば「恋は理屈ではない」。これが真実なのだ。
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ところで、「恋愛」というのは、たしかに本能的なものではあるが、しかし、それが本能的なもの(脳科学的現象)に止まるかぎり、達成されれば、急速に醒めてしまうものでもある。
だからこそ、結婚してしまうと、恋愛的な感情は急速に醒めて、「こんなはずではなかった」とか「こんな人とは思わなかった」とか「騙された」などと言い出す人も少なくないのだ。
したがって、婚姻関係を永続的なものにしようと思えば、その根拠は「恋愛感情」的なものにではなく、むしろ「家族的なもの・肉親的なもの」へと置き換えられなければならない。つまり、一緒に暮らすことという事実行為によって、配偶者の長所も短所も含め、配偶者に「他家の人とは区別される、家族的・肉親的愛着(愛情)」を持つようにならなければならないのである。
しかし、そのような「家族的・肉親的愛着(愛情)」というものは、「非日常」を描くこと(それを期待されること)の多い「フィクション作品」には馴染みにくい、というのも確かである。
当然のことながら、「起伏に富んだ、派手な恋愛」を描いた作品(例えば「突如、恋人が不治の病に罹ってしまい、余命1ヶ月」「恋人を残して、突然、過去へタイムスリップ」等)の方が、「夫婦の地味な日常を、淡々と描いた作品」より、一般ウケが良いし、作るのも簡単である。
だからこそ、物語作家というものは、リアルで地味な「家族的・肉親的愛着(愛情)」を描くよりも、「派手な恋愛」を語りたがるというは、資本主義経済下の世界においては、理の当然だと言えるだろう。
まただからこそ、恋愛譚であっても、「自然な出会いによって恋に落ち、順調につきあって結婚し、二人は幸福になった」というような「フィクション作品」はほとんど作られず、「突如、恋人が不治の病に罹ってしまい、余命1ヶ月」式の「派手な作品」の方が多くなる。
つまり、大衆ウケのポイントは「うまく行き過ぎない(次々と障害が発生する)恋愛譚」であり、その意味での「悲恋物語」であるということなのだ(「ハッピーなバカップル」の物語なんか見せられたくない、ということ)。
こうした「恋愛フィクションの機微」について、クリスチャンの文芸評論家、ドニ・ド・ルージュモンは、その著書『愛について エロスとアガペ』において、伝説的な悲恋物語「トリスタンとイズー」を構造分析し、次のように指摘している。
もちろんここで、ルージュモンは「情熱=情熱恋愛」を否定的に扱っているのだが、私がこの引用文を持って何を言いたいのか、おおむねご理解いただけよう。
ここでルージュモンが描いた「情熱恋愛」こそが、『天気の子』の支配原理なのである。
主人公の森嶋帆高は、とても魅力的な少女・天野陽菜に恋をするし、二人の恋はわりあい簡単に成就しかけるのだが、当然、そんな二人の前に、様々な障害(警官や児童福祉課職員)が立ちはだかり、その極めつけが「陽菜の消失」だというは言うまでもない。
つまり、二人の「恋」の行く手には「様々な障害」が立ちはだかるのだが、しかしそうした「障害」の存在こそが、二人の「恋愛の凡庸さ」や「人格的な紋切り型」を覆い隠して、観客を物語の「スペクタクル世界」に引き込んでしまう。
つまり、二人の主人公の中味や魅力ではなく、ルージュモンの指摘するとおり『愛をはばむものこそは、二人の心の中にしっかと愛を植えつけてくれる』ドラマチックなものとして、二人の主人公と観客の前に立ち現れるのである。
だからこそ、最初に指摘したとおり、森嶋帆高は「独り善がりで、頭の悪い少年」でしかないし、一方の天野陽菜は「健気なお人形さん」でしかなく、やはり「頭が悪い」。
帆高の「頭の悪い、独り善がり」ぶりについてはすでに説明済みであるから、ここでは陽菜の「健気なお人形さん」ぶりについて説明しておこう。
言うまでもないことだが、陽菜の最大の魅力は「容姿」である。
アニメの主人公なんだから、陽菜が「美少女」である(と、観客には見えるように描かれている)というのは当然だと思われるかも知れないが、しかし、その視覚的要素を差し引いて、いったい陽菜にどれだけの「人間的魅力」があるのかを考えていただきたい。
たしかに彼女は「親思い」だろうし、一人で弟を育てようという「弟思いの頑張り屋」でもあろう。また、腹を空かせていた帆高にハンバーガーを恵んであげる「心優しい少女」でもあるし、極めつけは「みんなの幸せのためなら、自分がこの世から消えてしまっても良い」とまで考える「自己犠牲的な、非凡な精神の持ち主」である。
しかし、冷静に考えれば、「15歳」の彼女が「弟と二人だけで生きていくことなどできない」というくらいのことは、その年齢にもなればわかるはずだ(例えば、金銭的・手続き的に、弟を学校に通わせることが出来るだろうか)。
多少の遺産があったとしても、マクドナルドでのアルバイト代だけで生きていけるほど世間は甘くないし、だからこそ彼女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたまたま、思い込みの激しい帆高が妨害したから良かったようなものの、あのままだったら、ただの「水商売」では済まず、いずれは金になる「売春」に走らざるを得なかったかも知れないし、その果てに悪い人間に捕まって「覚醒剤漬け」にされたかも知れない。
「弟と二人で生活を」などという「夢のような話」ではない「現実」が、あのままだったら、確実に待っていたのである。また、だからこそ、そういう世間の厳しさを知らない子供たちを「保護」すべく、「社会」は、警官や児童福祉課職員として動きもしたのだ。
また彼女は、自分が消えた後の弟のことを、高校生の帆高に託そうとするのだが、それはいくらなんでも無理があって、むしろ無責任なのではないだろうか。「みんなのため」以前に、「弟のために生きよう」とするのが、当たり前の姉の務めなのではないのだろうか。
このように、なるほど陽菜は「健気な美少女」ではあるけれども、所詮は「非現実的なお人形さん」でしかない。物語構成上の都合で、程よく「頭が悪く(行動の不合理性が)」設定されていて、自分と弟の将来を、まともに想像することもできない「15歳」としか描かれていないのである。
しかし、物語世界に「巻き込まれてしまっている観客」は、そうしたことが(これに限らず)「見えなくなっている」し「考えられなくなっている」。そして、しばしばそれは、物語から終ってもまだ、そこから醒められない「思考停止の呪縛」なのだ。
このように「主人公に感情移入し、作品世界に没入することで、そのスペクタクルから脳的刺激を受けるだけの、受け身の観客」たちは、作品に「(思考を必要とする)複雑な中身」を求めたりしないし、もとよりそんな作品には「思考に値する中身は、存在しない」。なぜならそれは、そうした要素の存在が、かえって「本能的な快楽刺激の受容」の妨げになるからである。
『天気の子』に、「本能的な快楽刺激の受容」の妨げとなる「思考的要素」が排除されているというのは、この作品には「隣人がいない」という点にも表れていよう。
ここで言う「隣人」とは、無論、単なる「近所に住んでいる人」という意味ではなく、「近いところにいる他者」という意味であり、「他者」とは「違った価値観を持った、一個の人間」であり「主人公(たち)の価値観を相対化する存在」という意味である。
つまり、『天気の子』に描かれた「主人公周辺の登場人物」のように「主人公を追認し(最終的には)全肯定する、ご都合主義的な(作者の)道具」ではなく、作者と主人公の「虚構の全能」を相対化する「外部の投影」としての存在である。
それは私が先ほど、陽菜について『冷静に考えれば、「15歳」の彼女が「弟と二人だけで生きていくことはできない」というくらいのことは、その年齢にもなればわかるはずだ(例えば、金銭的・手続き的に、弟を学校に通わせることが出来るだろうか)。多少の遺産があったとしても、マクドナルドでのアルバイト代だけで生きていけるほど世間は甘くないし、だからこそ彼女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたまたま、思い込みの激しい帆高が妨害したから良かったようなものの、あのままだったら、ただの「水商売」では済まず、いずれは金になる「売春」に走らざるを得なかったかも知れないし、その果てに悪い人間に捕まって「覚醒剤漬け」にされたかも知れない。弟と二人で生活を、などという「夢のような話」ではない「現実」が、あのままだったら、確実に待っていたのである。』と書いたような「外部の知」を持ち込んで、作品の「ご都合主義」を批判することで、作品の「強度」に貢献する存在、それが「隣人」であると言えよう。
こうした「外部の知」を持ち込んでもなお、ボロが出ない、破綻をきたさない作品こそが「本物の傑作」なのである。それこそが、「リアルな外部世界」と伍することのできる、「もう一つの完結した世界」であり得るのだ。
だが、『天気の子』が(新海誠監督が)やったのは、「隣人」を排除し「外部の知」から目を逸らして、自分一個の「自己愛的閉鎖世界に引き蘢って、そこで勝ち誇る」ことだけだった。
たしかに、こうした娯楽作品は「原始的な快感」をあたえてくれるし、そうした「現実逃避」も、時には必要であろう。私とて、娯楽作品が嫌いなわけでも、観ないわけでもない(例えば、アメコミ映画などは大好きである)。
だが、娯楽作品にも「出来不出来」はあるし、また「優れた娯楽作品」というものは「現実逃避」の具であるに止まらず、むしろ「現実」に生きる力を与えてくれる作品であることも少なくない。
「私は、この映画の主人公のように、特別な才能も力も運も無いけれど、しかし、彼のように生きようと努力することは出来るはずだ」と思わせてくれる「積極的・能動的な中身」がある。
ところが、新海誠の作品には、それがない。
デビュー作でも、そして最新作『天気の子』でも典型的に示されているとおり、そこに描かれているのは「大人はわかってくれない(世界は僕たちに冷淡だ)」的な「被害者意識」、「他者」に責任を転嫁して、自分を正当化しようとする「自己憐憫的な独善」でしかないのである。
たしかに、「思考する」ことを要求せず、ジェットコースターのように、単純に「刺激」を与えてくれるような作品とは、「楽しさ(快感)」とあたえてくれる作品だ。しかし、それには「思考に値する、中身が無い」ので、通常はそれを「すぐれた作品」とは評価しない。
「ハリウッド型ジェットコースタームービー」などと呼ばれる作品は、「娯楽」に徹した作品として、その「芸術性」が問われることなど滅多にないし、問うこと自体、ある意味では的外れだと考えられている。
それは、子供ウケの良い「味の濃い駄菓子」であり、「駄菓子には駄菓子なりの存在価値」があって、それを「訓練された舌(味覚)」を前提にした「高級菓子」と同列にあつかうのは、そもそもその「違いがわからない人」だけだ、ということになるからである。
だが、そういう「味覚オンチ」は少なくない。意外に、「訓練」されずに育った「子供舌」の持ち主は少なくないし、同じ意味で、複雑微妙な内容を味わいきれない「子供脳」の大人というのも少なくないのである。
そして、その証拠が、『天気の子』の大ヒットなのだ。
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かつて日本で「一億総白痴化」ということが叫ばれた時代があった。
Wikipediaによるとこの言葉は『社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉』で『もともとは『週刊東京』1957年2月2日号』に掲載された、大宅の論評から生まれた言葉だそうだ。
この半世紀以上も前の時代、テレビが普及したことによって、「一億総白痴化」が危惧された。
そう危惧したのは、無論、大宅壮一に代表される「知識人(有識者)」であり、当時はまだ、情報や言論においては「知識人(占有)の時代」であったからこそ、テレビによる「情報の大衆化という、知の劣化」が危惧されたのであろう。
しかし、我々が直面している現在は、ネットの出現によって、情報や言論においても「知識人(有識者)」が抹殺された「超大衆化の時代(ポピュリズムの時代)」だと言えよう。もはや、私たちは「知識人(有識者)」の意見なんか気にせず、ネット上に「自分好みの意見」を見つけてきて、それで満足する時代なのである。
つまり「異論」は必要ないのだ。いや、「異論」など目にしたくはない。「私の価値観」を相対化するような「隣人」や「他者」の存在など、無いことにしたい。ただ「自分の価値観を肯定してくれるもの」だけに接していたいのだ。言い変えれば、「安全な自分の部屋に引き蘢っていたい」のである。
だから、たまに「知識人づらした、ウザい大人」が目に入いるテレビなどは視ない。情報に対して、選択的に接することの出来るネットの方が「気が休まる」のである。
そして、『天気の子』に典型される「新海誠作品」もまた、こういう「引きこもり」精神が生んだ「セカイ妄想」の具現化に他ならない。
だから、同じような願望(「嫌なものは視たくない」という願望。さらにそれをも通り越して「そんなものは存在しない」と思い込もうとする態度)を持っている現代人には、「新海誠作品」は最良の「自慰の具」なのであろう。
昨今「日本は凄い!」系の自慰的な書籍やテレビ番組が多くなったのも、同様に心性に由来するものなのであろう。今の日本人は、とにかく「自己肯定」したいのだ。「俺、サイコー!」と思いたいのである。
しかしそれは、本物の「自信」に発するものでないことは明らかであろう。
本来、日本人の美徳とは、他人に誉められても「いえ、そんなことはありません」と謙遜するような謙譲の美徳であり、しかしそこには本物の自信があった。わざわざ人様(他所様)に誉めてもらわなくても生きていられるという自負があったのである。
ところが、他人からの賞賛に謙遜してみせるどころか、露骨な「自画自賛」を恥じないのが、今の日本人なのだ。では、なぜそんな恥ずかしいことが出来るのかと言えば、それは多くの人が、それぞれの「自慰的なフィクション」に引き蘢っていて、外部の眼を排除しているからであろう。「人様から視れば、自慢話をする人間は、馬鹿にしか見えない」という「外部の視点」を喪失しているのだ。
しかしまた、だからこそ『天気の子』は大ヒットしたのだし、それに止まらず『天気の子』を「傑作だと思いたい人」が大勢いるのである。
だが、それは「『天気の子』という作品を、傑作だと評価している」と言うよりは、「私が共感する『天気の子』という作品が、傑作ではないはずがない(私の評価は正しいに決まっている=私に鑑賞眼が無いはずがない)」という、切実な「自己肯定願望」から出たものだと考えるのが、妥当なのではないだろうか。もしもそうではないとしたら、そういう人は、「異論」に耳を傾けることも出来るはずなのである。
いずれにしろ、このような意味で、『天気の子』に代表される「新海誠」作品の大ヒットは、「時代の病理」の反映だと言っても、あながち過言ではないはずだ。
そして、このように「時代の欲望に迎合しない、超然たる視点」こそが、批評的な「外部の視点」であり「大人の眼」だ。
それは「子供たちよ、物語の世界にひととき遊ぶのは良い。しかし、物語が閉じれば、またこの世界に帰って来なくてはいけない。君が生きる世界は、ここなのだから」という、帰還を促す言葉なのである。
初出:2019年10月13日「Amazonレビュー」
(※ 2020年5月23日 Amazon管理者により永久削除)
2019年10月13日「BBS アレクセイの花園」
(2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)
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