見出し画像

片渕須直監督 『マイマイ新子』は 傑作か? : 光り輝く 泥団子

映画評:片渕須直監督『マイマイ新子と千年の魔法』

結論から書いておくと、決して悪い作品ではないけれど、期待したほどの作品でもなかった。『この世界の片隅に』を100点満点とするなら、本作『マイマイ新子と千年の魔法』は、せいぜい75点といったところだろう。

しかし、本作のどこに問題があるのかというと、これはなかなか難しい。
本作についての他のAmazonレビューをざっと目を通してもらえばわかるとおり、『この世界の片隅に』で片渕ファンになった人のうちの少なからぬ人が『マイマイ新子と千年の魔法』の出来を「期待はずれ」と受け取ったようなのだが、その理由は、あまりハッキリとは指摘できてはいないようだ。

無論、主人公・新子の空想癖描写がやや極端であるとか、千年前の清少納言の子供時代のエピソードを描く必要があったのか、子供たちの世界を描いているのは分かるが、やや散漫なエピソードの積み重ねの果てに、唐突に「大人の事情」の事件が起きて、子供たちの別れが描かれるのだが、こうした「曖昧な構成」にストーリーテリング上の必然性が感じられない、といったような、いくつかの具体的な指摘はあった。
しかし、『マイマイ新子と千年の魔法』を高く評価する人たちは、たぶん、そうした、一般的には「作劇的な弱さ」と感じられるところを、たぶん「監督の個性」として容認しているようにも感じられ、それが決定的な「弱点」とは感じられていないようなのだ。これはどうしたことなのだろう。

よくよく思案して、私がまず思いついたのは、『マイマイ新子と千年の魔法』という作品については、「作品そのもの」よりも「周辺エピソード」がやたらに目立つ、という問題点である。
それは「こんなに素敵な作品を、ファンがみんなでバックアップして、最後は大きな反響を呼ぶことになった」という「作品外の美談」の問題もあるのだが、それに関連して、片渕監督が(作品の宣伝のためとは言え)「作品の意図」や「裏話・製作秘話」といったことを過剰なまでに語ってしまっている、という事実にある。

言うまでもないことだが、作品は「作品そのもの」が「すべて」であって、それ以外は「作品評価」には無関係なものである。つまり、「一生懸命作った」とか「お金をかけた」とか「低予算にも関わらず」とか「本作のテーマはこうだ」とか「これを描いた(つもりだ)」とかいったことは、「作品そのもの」を評価する場合には、「考慮」の対象ではなく、むしろ「雑音」の類いだと言ってよいだろう。無論、評論家が「作品論」を書く場合などには、そういう「周辺情報」を利用することもあるけれど、それはあくまでも「作品分析」のためであって、「作品評価」のためではないし、そうであってはならないのである。なぜなら、「一生懸命作ったとしても、傑作は傑作、駄作は駄作」だし「お金をかけよう」が「低予算」であろうが、作品は、完成した作品がすべてであって、「予算」を言い訳にすることなどできないからである。
同様に、例えば「愛がテーマ」と言うのは簡単だが、その言葉に値する作品に仕上がることは滅多にない。つまり「意図と達成は別もの」であり「想いと事実は、容易には合致しない」ものなのだ。だから、いくらご立派なテーマを掲げたところで、それがそれほどの作品になることなど滅多にないし、どんな意図を持って作ろうと、その意図が十全に達成できることなど滅多にない。「私がこの作品で描いたのは、これこれだ」と言ったところで、それが本当に描けているかどうかを判断するのは観客であって、作り手が決めることではない。作品は、作家の自己満足であってはならないのである。

だから、多くの場合、作家は「作品をして語らしめる」のを良しとして、多くを語らないというのが「作家のストイシズム」なのだが、『マイマイ新子と千年の魔法』に関して言うと、片渕監督は、作り手として、あまりにも「自己解説」が過ぎるのである。
無論、そこには不十分な上映環境という不利な条件を覆すべく、すこしでも多くの人の耳に届くよう、わかりやすいかたちで作品を紹介して、興味を惹かなければならなかった、という営業的な理由はあったのだろう。
だが、その結果として、多くの鑑賞者が「監督自身の作品解説」という「色眼鏡」を通して作品を鑑賞し、「監督の語った作品意図」に引き摺られるかたちで、作品を理解してしまったという部分がなかったとは言えまい。

本来、作品評価というものは「作品対私(鑑賞者)」という1対1の環境で鑑賞されるべきもので、そこにはいかなる「権威(的解釈)」も介入すべきではない。それなのに、この『マイマイ新子と千年の魔法』という作品の場合、そうした「作品外情報という雑音」が、あまりにも多すぎるのだ。
片渕監督に、鑑賞者の理解を誘導しようという意図は無かったのかも知れないが、しかし「この作品では、子供の世界を描きました。それだけを描きました」とか「児童文学の世界を取り戻そうとしました」とか「想像力において、人間は昔の人たちともつながっている」とか「何度も繰り返して観てもらえれば、その都度、新しい発見があるはずです」といったようなことを口にしてしまえば、「作品そのもの」については「いまいちピンと来なかったな」と感じた鑑賞者も、監督の言葉を読んで「ああ、そうか。あれはそういうことだったのか」とそれで「納得」してしまったり、「一度、観ただけだから、この作品の良さが分からなかったのかな」などと思うかも知れない。しかし、こうした「作品外の情報」によって、やっと「納得」させられるような作品というのは、そもそも「未完成な作品」だと言えるのではないだろうか。
あとで、作者が「あの作品は、これこれの意図で作られた、こういう作品です」と言って、それが「作品そのもの」だと思われてしまうというのは、初歩的な間違いでしかないはずなのだ。

無論、「作者の言葉」に容易に流されてしまう鑑賞者の方にも問題はあるけれども、しかし、それ以前に、作家ならば「作品に語らしめる」という覚悟と自覚が必要なのではないか。そして、片渕監督には、その認識がいささか不足しているのではないかと疑われたのである。

つまり、『マイマイ新子と千年の魔法』という作品の評価が、どうしてこれだけ割れるのかと言えば、それは「『この世界の片隅に』の片渕監督」にすっかり惚れ込んでしまったナイーブなファンは、その「色眼鏡」をかけたまま(つまり『マイマイ新子と千年の魔法』も「きっと素晴らしい作品だ」という予断を持ったまま)『マイマイ新子と千年の魔法』という作品を鑑賞し、仮にそこで「物足りなさ」「期待はずれ」を多少なりとも感じたとしても、そこへ「監督の言葉」という「肯定評価のための補強材料」が与えられれば、それに飛びついてしまう、「合理化」の心理が働いたためだとは言えまいか。そして、そんな評価をしてしまう人というのは、『マイマイ新子と千年の魔法』や『この世界の片隅に』の上映運動に参加したような、片渕監督に「身内意識」を持ってしまっているような、あえて言うが、「信者」的ファンが多いのではないだろうか。
その一方、作品を作品として評価している人は、『この世界の片隅に』が傑作だったからと言って、その前作である『マイマイ新子と千年の魔法』までもが傑作であるとは限らないと当たり前に考えているので、両作を比較して『マイマイ新子と千年の魔法』は「期待はずれ」であり、「よくわからない(説得力に欠ける)描写がある」と、遠慮なく注文をつけることが出来たのではないだろうか。

じっさい、私も本作『マイマイ新子と千年の魔法』における、新子の極端な空想癖の描写と、千年前の描写との対応に、必然性も整合性も感じられなかった。
たしかに、子供には空想癖はあるだろうが、新子の空想癖が、どうして「千年前の女の子」については特別に広がりを持つのかが、わからない。空想癖が強いのならば、時間的にも空間的にももっと自由で多様な空想を膨らませてしかるべきなのに、なぜか「千年前の女の子」だけが特別あつかいになるのは、新子がどうと言うよりも「監督の思いつきの都合」だとしか思えないのだ。監督が、その「千年前の女の子」との時空を超えた共鳴といったアイデアを思いつき、それが面白いと思ったために、新子の空想癖は、不自然に方向付けられてしまったのではないか。その「無理」による「不自然さ」を、少なからぬ人が「違和感」として感じ取ったのではないだろうか。

こうした、ある種の「唐突さ」による「違和感」は、「金魚の死」から「新子とタツヨシの冒険」までのシークエンスにも感じられる。つまり「金魚の死」がいかにも唐突なのはまだいいとしても、タツヨシがリードした「あしたの約束」の唐突さや、殴り込みをかけた「バー・カリフォルニア」での、新子の「ウチらの、あしたの約束を返せ!!」というセリフは、いかにも「不自然」に作り物めいており、子供はこんな「気の利いた言い方はしない」としか思えなかった。また、ヤクザたちの親切さも、いかにも「児童文学的」なパターン(怖そうな人が、実は良い人)であり、思えば「子供たちの世界」を描いたというわりには、あまりにもみんなが仲良し過ぎて、「児童文学」と呼ぶには「きれい事に過ぎる」という印象が否めない。
片渕監督が「子供の世界を描いた」「ノスタルジーを描いたのではない」と言うとき、無論それは「(表面的な形式は違えども)今も生きるリアルな子供の世界」を描いたという意味であるはずなのだが、実際に『マイマイ新子と千年の魔法』に描かれた「子供の世界」は「理想化されたもの」でしかない、と言えよう。

私は原作小説を読んでいないので、たしかなことは言えないが、仮に原作に描かれたのが「作者の実体験」をモデルにしたものであったとしても、それは決して「リアル」そのものではない。
「小説」に書き換えられた段階で、そこでは何らかの取捨選択による再構成が行われており、そこに描かれたものは、良くて「良く書けたフィクション」でしかないのである。だから、作者の実体験をもとにした原作小説の描写を、そのままアニメに再現したとしても、そこに表現されたものもまた、当然のことながら「リアルな子供の世界」でなど、あり得ない(解釈と再構成を経た「子供時代」である)。
だから、この作品を観て「誰もが経験したような子供時代が描かれている」というような感想を持った人は、それがほとんど無意味で無内容な感想(作品評価)でしかないことを理解しておらず、ただ、監督が「これは誰もが通過してきた子供時代というものを描いています」と「保証」しているから、その無内容な感想が「的確な作品評価」だと、勘違いしてしまっているに過ぎないのではないだろうか。

 ○ ○ ○

さて、以降は、片渕須直という作家の「個性」を捉えるために、先に、私と片渕監督の出会いまでの経緯を語っておこう。

私は決して、日本のアニメというものを知らない人間ではないつもりだけれど、しかし、片渕須直というアニメ作家を知ったのは、世間の多くの人と同様、劇場用長編アニメ『この世界の片隅に』においてであった。

 ○ ○ ○

私は、片渕監督の2歳年下の古いアニメファンで、子供の頃からたいがいのテレビアニメは視ていて、1978年の『宇宙戦艦ヤマト』ブームで自覚的なアニメファンとなり、1982年にテレビ放映された『超時空要塞マクロス』で現役のアニメファンであることに、いちおうの区切りをつけた人間であった。
けれども、その後も現在にいたるまで、テレビシリーズを視る暇はないものの、アニメ雑誌をチェックしては、その時々どんな作品が評判になっているのかを押さえ、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』や『魔法少女まどか☆マギカ』『けものフレンズ』といった作品も本放送に少し遅れてではあれ鑑賞し、高畑勳や宮崎駿から新海誠といった人気クリエーターの劇場用長編作品もチェックしてきたのだが、そんな私の視野に「片渕須直」の名が入ってくることはなかった。
いや、正確には、本作『マイマイ新子と千年の魔法』が一部で評判になっているというのはネット情報で目にしていたが、上映館や上映期間が極端に限定されていたため、気にはなっていたもの、結局は見逃してしまっていた。しかし、その際にも、監督名は「知らない人だな。若手かな?」というくらいの印象しかなかった。

そうした経緯の後、今度は『この世界の片隅に』が前作『マイマイ新子と千年の魔法』を上回る評判で、すごいことになっていると耳にして、今度こそは見逃すまいとして劇場に足を運び、そして、その予想をはるかに上回る出来に、すっかり感心させられて「これは、高畑勳の後継者と呼んでよいアニメ作家の登場だ。それにしても、こんなすごい作家を、いままで知らなかったなんて、やはり現役のアニメファンではない者の限界だな」と、そんな感慨を抱かされたのであった。

そしてその後、現在にいたるまで片渕監督の新作は発表されておらず、『この世界の片隅に』を増補改訂した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が、来年にも公開されるという話を耳にしつつ、先日、片渕の著書『終らない物語』を読んだのを機会に、未見だった他の長編作品を視ようと思い、先に入手した本作(DVDで)『マイマイ新子と千年の魔法』を鑑賞することとなったのである。

 ○ ○ ○

それにしても、『この世界の片隅に』に比較して、『マイマイ新子と千年の魔法』の、この見劣り感は、いったいどういうことなのか。

私が『マイマイ新子と千年の魔法』に感じるのは、場面場面は丁寧に作り込まれているのに、作品総体としての構築性が弱い、ということだった。
前述のとおり、『この世界の片隅に』を観た際には、そういう感覚はなく、だからこそ「高畑勳の後継者が現れた」と感じたわけだが、その理由は、

(1) 丁寧で的確な、人物や場面描写
(2) 間然する所がない堅牢な構成

の両立、ということになる。

つまり私は、『この世界の片隅に』が、この2点を兼ね備えた作品だと思ったのだが、『マイマイ新子と千年の魔法』には(1)はあっても(2)が無いように感じられた。場面場面はしっかりと描かれ作り込まれているのに、全体としては構築性に欠けており、いわば「骨格が無い」のである。
そこで私は「表面は磨き上げられているのに、骨格に欠ける」という意味で、『マイマイ新子と千年の魔法』という作品の特質を「光り輝く泥団子」と比喩してみたのだ。

一一ここまで本稿を書いたところで、私は劇場で観て以来の二度目となる『この世界の片隅に』をDVDで鑑賞して、私がこの作品のどこにどう感心したのかと、両作の違いについて確認してみた。

その結果、私が思ったのは、どちらも(1)はあるが、なぜ(2)が『マイマイ新子と千年の魔法』には感じられなかったのか、その「理由」は、『この世界の片隅に』の方は「戦争」という、おのずとテーマ的に際立つ「時代背景」を有しているのに対し、『マイマイ新子と千年の魔法』の方は「普遍的な子供時代」というやや曖昧なものを描いている、という、その「差異」だった。

このことから私が気づいたのは、私を含む多くの観客は『この世界の片隅に』という作品を「戦争という非常時に生きる、普通の人(常人)の生」を描いた作品と見たのだが、しかし『マイマイ新子と千年の魔法』という作品に込められた「子供時代の超時性」ということを考え合わせれば、片渕監督は『この世界の片隅に』という作品を作るにあたっても、じつは、ことさらに「戦争」や「戦時」を描こうという意識は無かったのではないか、ということである。

片渕監督にとっては、時代背景が問題なのではなく、あくまでもそのなかに「生きる人間」を丁寧に描くことが目的であり、『この世界の片隅に』の場合には、たまたま時代背景が「戦時」であったのを「いつもどおりに丁寧に描いただけ」だったのではなかったのか。
しかし、その「戦時」という背景が、たまたま「普通に生きる人々」との間でコントラストを際立たせるものだったので、作品が「引き締まった」のではないか、ということだ。

その点、『マイマイ新子と千年の魔法』の場合は、『この世界の片隅に』と同様に「過去の日本」を背景にしているとは言え、「戦時」のような「特別な時間=非日常」ではなかったから、「子供の普通の生活における生」という主題(描きたいこと)との間でコントラストに欠けて、全体として平板単調化してしまったのではないか。
また、だからこそ「新子の冒険」という「非日常的事件」を無理にでも押し込まないと、作品の着地点が得られない、ということになってしまったのではないだろうか。

つまり、片渕須直監督というのは、高畑勳のように「テーマを決め、設計図をひいて、それにしたがって細部を詰めて構成し、磨き上げる」というタイプではなく、「人間を描く」という一貫したテーマが根本にあって、それを盛るための「原作という大皿」を借りてきて、そこに丁寧に磨き上げた場面場面を並べていく、というタイプなのではないか。
その点では(高畑勳が宮崎駿の個性を否定的に評する時につかう)「場当たり的・建て増し的」な(骨格を欠いた、非構成的な)創作法だと言えるのではないだろうか。
しかも、片渕が「人間を描く」という場合の「人間」とは、極めて直観的で、曖昧なリアリズムに立脚するものであり、「人間とは何か」という(高畑勳的な・抽象化した)突き詰めを欠いているのではないだろうか。

まとめて言えば、片渕須直監督の創作法とは、「人間を描く」というのを目的として、そうした描写を「串団子」式につなげていく、というものなのではないだろうか。その意味で、描きたいものは高畑勳に近いけれど、作り方はむしろ宮崎駿的なのではないか、ということなのである。

もちろん、私はここで、「構成」や「骨格」が「まずあるべきである(肉付けはあとだ)」と言いたいのではない。
高畑勳の創作法がそうしたものであるのは明らかだが、そういうやり方で、成功した作品もあれば失敗した作品もある。また、宮崎駿の「場当たり的・建て増し的」な(骨格を欠いた、非構成的な)創作法だって、それによって成功した作品もあれば失敗した作品もあるのだから、これは「どのような創作法が、正しいのか」という話ではなく、私がここで言いたいのは、片渕須直という人が、どういうタイプの作家性を持った人なのか、ということなのだ。

そして、同じ片渕作品でありながら、『この世界の片隅に』が『マイマイ新子と千年の魔法』に比べて、ずっと良く出来て見えるのは、「普通の人間」を描くために選ばれた「時代背景(状況設定)」の違いによるものなのではないか、ということである。

つまり、「人間を丁寧に描きたい」のであろう片渕監督が「人間を描く」ための背景となる「状況設定」は、「当たり前の日常」であるよりも、それを引き立たせる「非日常(非当たり前)」の方が、作品が引き締まるのではないか、ということである。
これは、片渕須直監督の、以降の作品の出来を占う上で、ひとつのポイントになるのではないだろうか。監督が、どのような物語の「時代背景(状況設定)」を好むのかは別にして、「非日常(非当たり前)」な「状況設定」の方が、作品としては引き締まったものになるのではないかと、私は予想するのだ。

その意味で、次回作である『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、『この世界の片隅に』と背景を同じくする、実質的に「増補版」となるようだから、心配はいらないのだろうが、問われるのは、それ以降の作品ということになろう。
私のこうした読みが、正しかったか間違っていたかは、その時に、ある程度は明らかになるはずである。

初出:2019年11月30日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

——————————————————————————
【補記】(2019.12.02)

片渕須直監督と高畑勲の、似ているようで、違っている点について、補足しておこう。

両者は、非常によく資料を博捜し、現場取材を行い、それに基づいて丁寧な描写をおこなう、という点において非常に似ているし、その印象も強い。

しかし、片渕監督の著書『終らない物語』を読んで気づくのは、片渕監督が「資料」的な書物の収集に熱心な一方、高畑勲に見られるような「思想・哲学・批評」的な書物については、まったく触れていない点だ。
また、片渕監督の発言にも、そうした物の見方は、あまり感じられない。
もちろん、片渕監督とてそういうものも読んではいるだろうが、高畑勲のような玄人はだしの批評的知にまで強い関心があるようには見えない。

高畑勲には、良くも悪くも、思想的であり観念的なところが窺えるが、片渕監督には、そこまでのものは見られず、ごく常識的な範囲での「経験と直感と資料による演出」という印象が強い。
私は、このあたりに、片渕須直監督の作劇法の強みと弱点があるように思えるのである。

 ○ ○ ○






 ○ ○ ○