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〈天才〉という恩寵・ 高畑勲論 : 鈴木敏夫 『天才の思考 高畑勲と 宮崎駿』

書評:鈴木敏夫『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』(文春新書)

「天才」とは、単なる「優れた才能」のことではない。「天が授けし才能」とは、元来、人間のものではないからだ。
言い変えれば、それは、人の間での優劣の問題ではない。人間的な優劣を超えたところにある才能。だからこそ、人は、その理解を超えた才能に憧れたり、時に怖れ、憎んだりもする。

だが、「天才」とは、そんな人間的な感情や思惑を超えたところで作動する、なんとも扱いに困る「非地上的なしろもの」なのだ。

そうした意味で、本書においても、語の本来の意味における「天才」の持ち主とは、サブタイトルも示すとおり「高畑勲と宮崎駿」の二人しかいない。
この二人を見事に御してきたという意味において「猛獣使い」と評されることもある著者・鈴木敏夫を、その手腕において「天才」だと評する向きもあるかと思うが、しかし私は、そうした言葉の使い方は、語の安易な拡張でしかないと思う。たしかに鈴木敏夫は「凄い人」ではある。だがそれは、「人」の範疇での話であって、「天才」と呼ぶべきものではないのだ。

さて、高畑勲と宮崎駿だが、私は高畑勲のファンである。
アニメーション作品の作家として見た場合、宮崎の、わかりやすい才能を推す人の方が多いであろうことは容易に想像できるし、そのような評価が間違いだとも思わない。
しかし、高畑勲の「天才」であり「偉大さ」というものは、そもそも「アニメーション作家」という枠内に収まるものではなく、むしろ「天才」が「アニメーション制作の世界に生きた」と考える方が正しいのだと思う。高畑勲は「天才作家」ではなく、まさに「天才」なのだ。彼は、アニメーションに関わらなかったとしても、やはり「天才」として生きた人であろうことは、本書で語られたエピソードの数々に明らかであろう。
彼の「天才」は、「作品を作らない」という選択肢をも含むものであり、だからこそ彼は「作る」ことを前提として考えたりはしなかったのである。

当然、そんな彼の「天才」は、「面白いアニメ作品を作る作家」であることを「評価」の前提とする「アニメファン」には、理解し難いものであろう。
たしかに「凄い作品も作っている」し「常識では測れない人のようだ」。そのように漠然と感じてはいても、どこか素直に評価しずらいところがあるのは、「アニメ作品を作る人」であることが前提となっている「アニメファン」にとっては、むしろ当然のことなのである。

無論、私も「アニメファン」の一人ではあるし、高畑勲の「アニメ作品」のファンでもある。
だが、高畑作品ならば、どれでも高く評価できるというわけではなく、多くの作品に「注文がつく」という事実は否定できない。

しかし、高畑勲その人については、注文を付けるところが見あたらない。彼は、私の求める「天才」として完璧であり、世間的には「非常識」だとか「偏頗頑固」だと評されるであろうところも含めて、いやむしろ、そうした点においてこそ、私は彼に「天才」を見、その点に魅了されるのである。
そして、その魅力において、もはや「作品」は二の次ですらあるのだ。

私は、高畑勲という人を、「アニメ作家」という小さな枠の内側でだけ評価してはいない。
具体的に言えば、私にとっての高畑勲とは、大西巨人や柄谷行人といった「天才」たちと並ぶ、私好みの存在なのだ。決して、大西巨人や柄谷行人に劣りはしない、曇りのない「天才」を生きた人なのである。

だからこそ彼は、人が避けて通るところで、あえて真っすぐに進むことができた。「損得」や「結果」ではなく、彼には「真っすぐに進む」こと自体が、天から与えられた「使命」であり「作品」であり、そして「才能」であった。
それは、しばしば人々の理解を遠ざけただろうが、彼に与えられた「天才」とは、「あえて困難な道を、真っすぐに歩んでみせる才能」として与えられていたのだ。

彼の非凡な生き方は、多くの人にとって、敬服するしかないものであると同時に、脅威すら与えるものであっただろう。「誰も、高畑勲のようには生きられない」という敬服の念が、時に「あんな生き方なんて、(傲慢な)バカのすることで、そんな真似をする気なんか、(謙虚な)私にあるわけないよ」という、反発を装った「怖れ」の表明をも招くのだ。

だが、イエス・キリストの愚かな生き方と死に方が、多くの人々に、人間の限界を超えるという「希望」を与えたように、高畑勲の「地上における孤独な苦闘」は、かならずや人々に希望をもたらすものとなるだろう。

「エッケ・ホモ(この人を見よ)」
  (『ヨハネによる福音書』 19章)

彼は、公衆の面前で鞭打たれたとしても、あるいは、十字架にかかったとしても、決してその「権威」を失わないだろう。

そればかりか、彼は十字架上で、イエスのように「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と嘆くこともなかっただろう。それが、彼の「天才」であり、並外れた「恩寵」だったからだ。
彼は、その「天才」において、この度しがたい「地上」を愛したのである。

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【補記】

私にとって、本書の魅力は、高畑勲の姿を描いた本書前半に集中しており、その意味では「努力家」たちの葛藤を描いた本書後半は、興味の外だった。
それでも、本書は、高畑勲の姿をつたえる貴重な「Q資料」となり得ており、その点で、微塵も評価を惜しむつもりはないのである。

初出:2020年9月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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