見出し画像

庵野秀明 & 樋口真嗣 『シン・ウルトラマン』 : いま、ウルトラマンを描くこと

いま、ウルトラマンを描くというのは、もちろん容易なことではない。なぜなら私たちは、人間の愚かさというものを、嫌というほど思い知らされており、未来に対しては、「希望」よりも「危機感」、いや、いっそ「絶望」の方が圧倒的に大きいからだ。

いまの私たちにとっての「希望」とは、「光り輝く未来」ではなく、「危機の回避」といったような、消極的な意味しか持ち得ないのではないだろうか。
具体的に言えば、「地球温暖化」の問題などがその典型であり、私たちはこの問題が「人類の叡智」によって避けられるなどという楽観的な考えを、正直なところ持てないでいる。

言ってみれば、人類は、地球環境を散々に荒らし、多くの生物種を絶滅に至らしめた上で、文字どおり「自業自得」的に「自滅」しようとしている生物種なのである。
それなのに、他の星からやってきた異星人(本作では「外星人」と呼ばれる)が、人類に、守り生かすに値する価値を見出すことなど、あり得る話なのだろうか。むしろ、この地上から人類を抹殺した方が、少なくとも、大半の地球生物のためなのではないだろうか。

一一そんな疑問に対し、本作のウルトラマンは、はたして応答し得ているだろうか?

画像1

(※ ネタバラシになる内容が含まれますので、作品未鑑賞の方はご注意ください)

本作『シン・ウルトラマン』の映画作品としての出来については、いろいろと細かな注文もつけられると思うが、そうした点は、他の評者にお任せするとして、本稿において私は、もっぱら前記のような「テーマ」について考えたいと思う。
なぜなら、細々とした問題はあるにせよ、この「テーマ」において本作が十分に存在価値を持つ作品となっていたなら、それだけでこの作品は、「この時代」に作られた意味を持つと考えるからだ。

 ○ ○ ○

『シン・ゴジラ』でも多少は描かれていたが、本作ではさらに一歩踏み込んで、「政治」の問題が描かれている。
禍威獣(怪獣)や外星人(異星人・宇宙人)といった、人類の常識を超えた「巨大な力」が登場したとなれば、「核兵器」などと同様に、その取り扱いが「政治問題」となるのは当然だし、まして知性を持つ外星人は「交渉」の相手ともなる存在なのだから、単なる「駆除」の対象でなどあり得ない。したがって、そこでは否応なく「政治問題」が発生し、さらにはそれが「国際政治」の問題となる。

だが、「人類を救うために一致団結すべき、政治案件」についても、人類は、その救い難さをしばしば露呈してきたし、今もしている。
前記の「地球温暖化対策」についても、「二酸化炭素の排出量」を「国家間の経済的な取引の具」にしてしまって、国家を超えた「人類共通の未来」という本質が蔑ろにされてしまう。目先の欲のとらわれ、自分たちさえ良ければいいという愚かなセクト的欲望にとらわれ続けた結果、「地球温暖化対策」はもはや手遅れになりつつある。
我が国の首相が「2050年カーボンニュートラルの実現」などと言って見せても、それが「国際政治的駆け引き」に必要なものとして採用されただけでしかなく、本気で「人類の未来を危ぶんだ」ものだとは、とうてい思えない。

無論、世界には、こうした避けて通れない重大問題に、真剣に取り組んでいる人も大勢いるのだが、それが「国際政治」の俎上にのぼると、途端に「本気を疑わせる」扱いになってしまい、若き気候問題活動家であるグレタ・トゥーンベリなどによって非難されるのも、至極当然のことにしか見えない仕儀となる。

もちろん、現実の政治というのは、「環境」ではなく「人間」を相手にするものだからこそ、そう簡単ではないのだけれど、そういう「賢しげ」なことを言っているうちに、人類は絶滅してしまいそうなのである。「病院へ行かなきゃ死んじゃうってのはわかってますが、先立つもの(金)がないので、まずはそれを稼いでから」などと言っているうちに死んでしまうのが、私たち人類なのだ。

したがって、本作が描くように「人類は、より優れた外星人の管理下に入って、資源として有効利用された方が良いのではないか」とか「資源として悪用される恐れがあるなら、いっそ絶滅させた方が、宇宙平和のためではないか」という意見が出てくるのは、むしろ当然であろう。

私は以前、佐藤岳詩の著書『「倫理の問題」とは何か メタ倫理学から考える』を論じたレビュー「『進撃の巨人』的世界という〈思考実験〉」で、次のように論じている。

画像2

『もし、私たち人間の他に、こうした圧倒的に強い巨人族がこの世界におり、彼らの主食が人間だった場合、人間を喰らう巨人たちを、私たち人間は「倫理的に非難する資格を持つだろうか」。一一最初の「思考実験」は、そんな問いである。

この場合、巨人たちには、人間がどんなことを考え、どんな感情を持っているのかが、よくわからない。種族が違うので、意思疎通もできず、相互理解は成立しない。彼ら巨人にとっての人間とは、動く自然植物みたいなものだと考えれば良いだろう。こうした場合、人間を採取して食用に供する彼ら巨人族を、人間は「冷血で残酷だ」と「倫理的に」非難することができるだろうか。そんな資格が、人間にはあるだろうか?

本書で倫理問題の一例として紹介されている「肉食」問題(高度な知能を有した生物である牛や豚などの肉を、食用にすることの倫理問題)について、多くの日本人は「仕方がない」と考えるだろう。かく言う私も、おおむねその立場である。
だが、そんな「いろんな動植物を、自分たちの都合だけで食っている」私たち人間に、巨人族を非難する資格などあるだろうか。
一一私は「ない」と思う。』

『シン・ウルトラマン』を観た人ならば、私のこの意見が、『シン・ウルトラマン』に登場するメフィラス星人の意見に酷似していることに気づくはずだ。そして、そのメフィラス星人が、きわめて知的であり「倫理的」であるというのは、決して偶然ではないだろう。
つまり、客観的・論理的かつ「倫理的」に考えたならば、地球人類は、その自滅に抗してまで生かすには値せず、せいぜい「資源」であり「家畜」として他に「有効利用」されるなら、それもやむを得ないような存在でしかない、ということである。

しかし、『シン・ウルトラマン』のウルトラマンは、こうした考えに『見解の相違だ』と言うだけで、どうして人類が生かすに値する存在なのか、その十分な説明をしようとはしない。一一なぜ、説明しないのだろうか。

それは多分、説明なんかできないからである。
つまり、ウルトラマンは、理屈ではなく、人類に興味を持ち、人類と一体化して、半分「当事者(人類)」になってしまったから、理屈は別にして「人類は生かすに値する存在だ」と思いたい、と思うようになっただけ、なのではないだろうか。

だとすれば、この『シン・ウルトラマン』では、ウルトラマンのこうした選択が正しかったのか、メフィラス星人、あるいはゾーフィの判断が正しかったのかの「回答」は与えられていない、と考えるべきなのではないだろうか。

では、なぜ、その答えを『シン・ウルトラマン』の作者は、与えなかったのだろう?

それはきっと「その答えは、あなたがた自身が考えて、出すべきものだ」ということなのではないだろうか。

考えてみれば、テレビシリーズの『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』などで提示された「本当に人間が正しいのか。怪獣や異星人は悪なのか?」といった「問い」に対する答は、作中では与えられていなかった。
それらはあくまでも「問いかけ」であり、その答を出すのは、それらの作品に接した「子供たち」自身だったはずだ。

だからこそ、本作でも、回答は与えられない。

はたして、人類は、生かすに値する生物種なのか?
もしそうだとするならば、人類はそれをどのような行動で、実証して見せなければならないのか?

本作において投げかけられた「問い」は、「これは傑作だ」とか「オリジナルへの冒涜だ」とかいった、「従来の人間」レベルの問題など、どうでもよくなるレベルに設定されているのである。

『そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。』

これは、あまりにも重い言葉ではないだろうか?
少なくとも、人間嫌いの私には、そのように響くのである。

(2022年5月16日)

———————————————————————————————
【補記】

『シン・ウルトラマン』が、『ウルトラマン』や『ウルトラQ』といった作品を踏まえているのは意識的なものだし、脚本を書いたのが庵野秀明なのであれば、内容的に『新世紀エヴァンゲリオン』に似た部分が多いというのも致し方のない類似であろう(例えば、冒頭の『ウルトラQ』禍威獣の連続的な出現が「禍特隊」を生んだという前史的描写は、「使徒」の襲来とNERV(ネルフ)の関係に酷似している)。

しかし、こうしたものとは別に、私が関連を見たのは、例えば『無敵超人ザンボット3』や『さらば宇宙戦艦ヤマト』との類似である。庵野秀明が、どこまで意識していたかはわからないが、影響関係は確実にあると思う。

画像3
画像4

(2022年5月16日)

———————————————————————————————
【補記2】

下のレビューの中で、『シン・ウルトラマン』における「セクハラ表現」問題の「謎」について、ひとつの「解答」を提示しました。
かなりショッキングなものになっていますが、是非ご一読ください。

(2022年5月17日)

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○












 ○ ○ ○



 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

映画感想文