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佐藤岳詩 『「倫理の問題」とは何か メタ倫理学から考える』 : 『進撃の巨人』 的世界という〈思考実験〉

書評:佐藤岳詩『「倫理の問題」とは何か メタ倫理学から考える』(光文社新書)


(※  屠殺に関連する残酷な写真も掲載していおります。ご注意ください

倫理学とは、あらゆる人間的事象において「何が正しい(倫理的な)のか」を考える、哲学系の学問だと言えるだろう。

では、本書のような「メタ倫理学」は、どういうものなのかというと、「『正しい』(あるいは『良い』)とは、何を意味するのか」「『倫理的』とは、どういうことを指すのか」を考える学問だと言えよう。要は、個々具体的な「倫理問題」の正解を求めて考えるのではなく、その前段の「倫理とは何なのか」「『倫理的に考える』とは、どういうことなのか」ということを考える学問なのである。

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さて、ここでひとつの「思考実験」を提案しよう(後で、もうひとつ提案する)。

『進撃の巨人』という、諫山創によるマンガ作品がある。アニメにもなっており、原作、アニメともども世界的に大ヒットした作品で、読んだ方も多かろうと思うが、私は読んでいない。
だから、これから提案する「思考実験」は、『進撃の巨人』そのものではなく、イメージ的にそんな感じのものだと考えてほしい。

『進撃の巨人』では、巨大な防壁に囲まれた都市で暮らす人間たちと、それを外部から襲撃してくるグロテスクな巨人たちとの戦いが描かれる。巨人たちは都市を襲って、人間を喰らうのである。

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さて、これと「似たような設定」で、もし、私たち人間の他に、こうした圧倒的に強い巨人族がこの世界におり、彼らの主食が人間だった場合、人間を喰らう巨人たちを、私たち人間は「倫理的に非難する資格を持つだろうか」。一一最初の「思考実験」は、そんな問いである。

この場合、巨人たちには、人間がどんなことを考え、どんな感情を持っているのかが、よくわからない。種族が違うので、意思疎通もできず、相互理解は成立しない。彼ら巨人にとっての人間とは、動く自然植物みたいなものだと考えれば良いだろう。こうした場合、人間を採取して食用に供する彼ら巨人族を、人間は「冷血で残酷だ」と「倫理的に」非難することができるだろうか。そんな資格が、人間にはあるだろうか?

本書で倫理問題の一例として紹介されている「肉食」問題(高度な知能を有した生物である牛や豚などの肉を、食用にすることの倫理問題)について、多くの日本人は「仕方がない」と考えるだろう。かく言う私も、おおむねその立場である。
だが、そんな「いろんな動植物を、自分たちの都合だけで食っている」私たち人間に、巨人族を非難する資格などあるだろうか。
一一私は「ない」と思う。

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ならば、もしも現実に巨人族が存在したとしたら、私たちは黙って彼らに食われるしかないのだろうか?

無論、そんなことはない。私たちは「生きる」ために、巨人たちと戦うだろう。勝てないとしても、抵抗はするだろう。
だが、その戦いは、「正義と悪」との戦い、「倫理」が問われる戦いではなく、あくまでも「自然現象」としての「食物連鎖」の問題でしかなく、私たちは、私たちが「正しく」、巨人たちが「間違っている」から、戦うのではないのだ(その逆でもない)。
言い換えれば、私たち人間は、巨人たちが人間を食うこと自体は、批判できないし、非難もできない。同じことをやっている立場の者として、そんなことできる(倫理的な理屈としての)道理はない、ということなのだ。

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しかし、こうした「思考実験」なら、それで済むけれども、例えば「同じ人間」の中にも「食う者と食われる者」がいるという思想を、現に持つ人がいて、強者としての「食う者」には、その「資格」があるのだと考える人がいたとしたら、どうだろうか。

「同じ人間」なんだから、それは「倫理的に間違っている」と批判したところで、彼ら「知的・政治的・経済的エリート」たちから「あなたは本気で、私たちが『同じ人間』だと思っているんですか? 現実を見てください。現に、私たちは、まったく別種と考えていいほどの、違った生き方をしているじゃないですか。つまり、人間が平等だなんて考えは、低能力者としての弱者の願望充足的ファンタジーでしかないんですよ」と言われたら、あなたはそれにしっかりと反論できるだろうか。

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(アウシュビッツ強制収用所のユダヤ人)

この2つ目の「思考実験」は、最初にご紹介した「巨人族と人間」という(1つ目の)思考実験とは違って、この現実世界、この社会にありふれている「現実」のひとつにすぎない。

つまり、天才でも金持ちでも権力者でもないあなたは、実際のところ、そうした「エリート」層から「同じ人間」とは見られておらず、消費利用の対象としてしか見られていないことが、しばしばなのだ。
例えば「派遣社員」なんてものは、エリート層にとっては、人工的(政治的)に作り出された「労役獣」か「生体ロボット」にすぎないのだが、はたして、私たちのどれくらいが、その現実に気づいているだろうか。

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(チョコレート産業における、子供の奴隷労働)

このように「倫理」について考えるということは、決して「抽象的な哲学趣味」などではない。
私たちが「人間」らしく生きていくために、ぜひとも必要な「思想的基盤」なのである。

「『正しい』とは、何なのか」「『倫理的』とは、どういうことなのか」。
それを考えることは、私たちが「人間」らしく生きるためには、是非とも必要なものなのである。

そんなわけで、思考のきっかけとして、本書をオススメしたい。

初出:2021年4月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月14日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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