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安彦良和監督の最高傑作 : 映画 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』

映画評:安彦良和監督『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』

監督・富野喜幸(富野由悠季)、キャラクターデザイン&作画監督・安彦良和で、1979年から全43話でテレビ放映された、歴史的名作アニメ『機動戦士ガンダム』。その通称「ファースト・ガンダム」の第15話「ククルス・ドアンの島」を、劇場用映画として長編化してリメイクしたのが本作である。
一一監督は、テレビシリーズで作画監督を務めた、安彦良和だ。

安彦良和は、アニメーター出身で、マンガ家に転向して数々の傑作マンガをものにしただけではなく、『機動戦士ガンダム』を、自分の流儀でコミカライズした『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を全24巻の大作として完成させ、さらにこれを原作に、敵役であるシャア・アズナブルの、テレビシリーズでは描かれなかった部分に光を当てた、劇場用アニメーション作品『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』全6作も作っている。

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安彦が、『機動戦士ガンダム』のリメイクにこだわったのは、テレビシリーズの『機動戦士ガンダム』つまり「ファースト・ガンダム」には、キャラクターデザイン、作画監督という職掌を超えて、その世界創造に深く関わったからで、安彦としてもこだわりのある作品だったからに他ならない。

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無論、『機動戦士ガンダム』は、基本的には、監督であり原作者でもある富野喜幸の作品ではあるものの、実際には富野ひとりの作品ではなく、安彦良和の個性が強く深く刻印されており、安彦との「合作」に近い部分が、たしかにある。
それは単に、作画の部分に限った話ではなく、主に「戦争」「戦争と政治」「戦争と子供(若者)」といった「人間の業とその現実(リアル)」をめぐる部分であり、そうした点において、富野喜幸と安彦良和の「個性の違い」によって大きな対立へと発展したのが、シリーズ後半に登場する「ニュータイプ」という概念の描き方であった。

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「ニュータイプ」とは、簡単に言えば「新人類」である。人類ではあるけれども、それまでの人類(旧人類=オールドタイプ)とは違い、人類が宇宙空間に進出したのちに生まれた世代らしく、その「認知共感能力」が「(重力に縛られない)三次元的」な広がりを持ち、オールドタイプからすれば「超能力」にしか見えない「直観的な感覚の拡大した人間」だと言えるだろう。

この「ニュータイプ」という概念が『機動戦士ガンダム』の世界に導入された理由は、主に次の二つが挙げられるだろう。

(1)主人公のアムロが、モビルスーツの操縦に天才的な能力を発揮する、その合理的な理由づけ。
(2)「戦争」をやめることのできない人類の愚かさ(業)は、人類の生活圏が宇宙空間にまで拡大されても、何も変わらないのか、という問題意識。

つまり、(1)は、作劇上の「リアリズム」の追求の問題で、(2)は、「戦争」というテーマ的な部分での、哲学的な「思考実験」の問題だと言えるだろう。

(1)の問題については、それまでの「ロボットアニメ」が、おおむね不問に付してきた部分であると言えよう。
つまり、それまでの「ロボットアニメ」では、主人公がロボット操縦の天才であるというのは、わざわざその理由を断るまでもない大前提であった。「そうでなければ、主人公は務まらない」と。仮にその主人公が、第1話での登場時の設定が「スポーツ万能の熱血少年」ではなく、どこにでもいる「普通の少年」であったとしてもである。
ロボットに乗ってしまえば、彼はなぜか、もうその運命に巻き込まれてしまって、余人をもって代えがたい主人公となり、ナンバーワン操縦者だということになってしまうのだ。

だが、『機動戦士ガンダム』という作品の画期性は、そのリアリズム描写にあって、アニメ的な「お約束」を自明視しなかった点にあったと言えるだろう。
つまり、第1話において、なりゆきでガンダムに搭乗し、敵と戦うことになったアムロは、性格的には「普通の少年」だが、父親がモビルスーツの開発者で、アムロ自体、その血を引いた優秀な理系少年で、ロボット工学にも詳しく、ガンダムだって「それなりに」程度なら、操縦できても不思議ではない、という理由づけがなされていた。

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しかし、そこまではいいのだが、そんな「優秀な理系少年」でしかないアムロが、その後に続く「実戦戦闘」において、ジオン軍の優秀なパイロットたちの操るモビルスーツを次々と倒し、ジオン軍のエースパイロットで、「赤い彗星」の異名を持つほどのシャア・アズナブルとさえ互角以上の戦いをしてみせるとなると、これは「優秀な理系少年」という説明だけでは、不十分となってくる。
そこで、その部分を補う説明として、アムロを単に「操縦にも才能があった」とするか、「アムロは、じつはニュータイプだったのだ」とするか、ここで「趣味」が分かれてしまう。
言うまでもなく、前者が安彦良和であり、後者が富野喜幸の選択だ。

結局のところ、ロボットを操縦する主人公が、どうして「余人をもって代えがたい」人物なのかと言えば、それは「天才」だから、としか言いようがない。したがって、そこにはもともと「完全に合理的な説明」などつけきれず、問題は、その「嘘」の妥協点を、どこに置くかという問題となる。
つまり、安彦の場合は、基本的には、「リアルな人間」「リアルな戦争」「リアルな生と死」を描きたかったから、「ニュータイプ」などという「SF」めいた設定は余計なものでしかなく、アムロの「操縦者としての天才」の問題については「そうであったのだ」で良いではないか、というものだったのだろう。そこがフィクションとして避けられない、妥協点だったのである。

ところが、富野喜幸は、そうは考えなかった。
富野は「ニュータイプ」という設定にこだわりがあり、その点で、安彦に妥協することはなく、テレビシリーズでは「ニュータイプ」による「人類の成長」に、希望を託して見せたのだ。

しかし、安彦良和にとっては、これは「逃げ」にしか感じられなかったろう。
安彦は、学生時代、全共闘運動に積極的に参加して、現実社会の変革を夢見た、理想主義的な人であった。そして、その運動が敗れた後に、アニメの世界へ入った。だから、彼の作には「現実に対する抵抗」の血が流れており、その「抵抗」の意志は、観念的なものではなく、「現実との戦い」とは、自分たちの手で為さねばならないものであった。

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つまり、「人間」とは、いつまでも「戦争」がやめられない「業の深い存在」であったとしても、その解決を「(まだ見ぬ)ニュータイプ」に委ねるといったようなことは、所詮は「観念的な逃げ」でしかない、と感じられたのだろう。
主体的であらんとする安彦としては、「人間の問題は、人間が決着をつけるしかないのだ。仮に、それでも滅ぶことが運命だったとしても」ということだったのではないか。

WIKIpediaには、安彦良和のそんな「十字架」を示す、次のようなエピソードも紹介されている。

『根っからのアニメ好きというわけではなかった安彦は、学生運動時代の友人から「アニメやってどうすんの? 世の中変えられるの?」と言われ、「ただの絵描きじゃなく(中略)責任領域を広げてやりがいを拡大しないと合わせる顔がなかった」とアニメの仕事に罪悪感のようなものも覚えていた。だが1974年に『ヤマト』の仕事を手掛けるようになってからは西崎義展プロデューサーの影響もあり「いい大人が本気でやってもよい仕事なんだ」と感じるようになったという。』

つまり(2)の「「戦争」というテーマ的な部分での、哲学的な「思考実験」」というのは、安彦にとっては、あくまでも「リアルなもの」でなくてはならず、「SF」的な観念遊戯であってはならなかった。また、その点で「ニュータイプ」というアイデアは、「進化論」的な装いを採ってはいるものの、実質的には、所詮は「超能力者」の類でしかなく、フィクションの作り手の「ご都合主義」としか感じられなかったのであろう。

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では、安彦良和には「非現実的」「ご都合主義的」「現実逃避的」だと感じられた「ニュータイプ」というアイデアに、富野喜幸は、なぜこだわったのだろうか。
それはたぶん、富野が、安彦良和よりも深く、人間に絶望していたからであろう。

人間とは、頭ではダメだとわかっていても、それに惹かれ、それに振り回されて、道を誤ってしまう「業」の深い「度し難い存在」であると、富野喜幸は自身の人生の中で、嫌というほど経験的に学んできた。だから、本音としては、人間は、そうした「業」を超えることのできない愚かな存在であり、最後は滅ぶべき存在であると、そう感じていたのであろう(自伝『だから僕は…   「ガンダム」への道』参照)。

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しかし、その一方で、富野喜幸は、人間への愛着を捨てられない(情の)人であり、その意味では、決して希望を捨てられず、それが「ありえない希望」であっても、それにすがらずには生きられない、きわめて「人間くさい人」だったのだ。
つまり「人類は救われないに決まっていると頭では思っていても、でも救われてほしいという感情が抑えきれないという、そんな矛盾に苦しむ」のが富野喜幸という人で、要は、彼自身が「業の深い、矛盾だらけの人間」だったのである。

だからこそ、そんな「愚かな存在」ではなく、もう一段上に立って「人間」を見ることのできる存在としての「ニュータイプ」に期待せずにはいられなかったのであろう。富野喜幸にとっては、それは、現実にありえるとかありえないとかいった問題ではなかったのである。
(※ 富野喜幸の個性については、拙論「皆殺しと転生:富野喜幸(富野由悠季)監督作品『伝説巨神イデオン』との再会」を参照)

このようなわけで、テレビシリーズ『機動戦士ガンダム』では、最終的な判断は、監督である富野喜幸に譲らざるをえなかった安彦だが、どうにも「ニュータイプ」による解決には納得いかなかったので、「ニュータイプ」概念を出さずに『機動戦士ガンダム』の世界を語り直した作品を、自らの手で提示せずにはいられなかった。
そして、「ニュータイプという逃げ」を排して、真正面から『機動戦士ガンダム』の世界を描いたこちらこそが、むしろ「オリジナル」なのだ、という意思を込めて、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』という挑戦的なタイトルを付したのであろう。

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安彦良和が描きたかったのは、あくまでも「現在の人間」によるドラマであり、「人間の業」との対決という意味において、「現実逃避の具」ではない、フィクションの可能性と価値を、そこに見出していたのではないだろうか。

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だが、問題は、結果である。安彦良和の考え方が、しごく真っ当であり真摯なものであることは、誰人も否定できない事実だと思うのだが、しかし、その「志の高さ」に比して、果たしてその作品は、現実に、それ相応のものになっているであろうか?

私は、なっていないと思う。
安彦良和の作品は、そのテーマや志の高さは認めるものの、結果としては鑑賞者を圧するような力を持ちえていないのではないだろうか。

それは何も、アニメ版『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』に限定される話ではなく、安彦のマンガ作品を含めて、すべての作品に言えることなのだ。たしかに誠実な作品であり、力作であるというのは認めるのだが、傑作かと言われれば、そうは思えない。
安彦の作品は、本当にきちんと誠実に作られており、「完成度」という意味では、高い達成を実現しているのだが、しかし、「その割には」いまひとつ面白くないのである。悪くはないが、「すごい作品を観た(読んだ)」というような、震えるような感動がない。「よく出来ていた」「いい作品だった」あるいは「勉強になった」「考えさせられた」と、そんな感想止まりなのだ。

例えば、これまで安彦良和が「監督」を務めたアニメ作品は、本作『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』までに、次のような作品がある。

・『クラッシャージョウ』(1983年)
・『巨神ゴーグ』(1984年・TVシリーズ)
・『アリオン』(1986年)
・『風と木の詩』 (1987年)
・『ヴイナス戦記』 (1989年)
・『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(2015年〜2018年、全6作)

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これらの作品は、それぞれ、それなりに低くはない評価を得た作品ではあるけれど、安彦良和のファンではない者から、今でも評価され続けている作品だとは、残念ながら言い難い。
そして、そうした意味では、安彦良和は、「監督」としては、高畑勲、宮崎駿、出崎統、庵野秀明、幾原邦彦あるいは富野喜幸といった「超一流」の「監督」と、肩を並べる存在だとまで高く評価するわけにはいかないのだ。

私は、こうした安彦良和の作家的「弱点」とは、その「人間的な真っ当さ」にあるように思う。
と言うのも、優れた「作家」というのは、しばしば「立派な人」でもなければ「頭のいい人」でもなく、ただ「異様なまでのこだわりを持つ人(変人)」であることが少なくないからで、そうした観点から安彦良和という人を見ると、たしかに「非凡な熱量」は持っているものの、物の考え方という点では、極めて良識的であり論理的で、そうした人間的な美点が、クリエイターとしては、かえって「足枷」になっているのではと、私は見ているのである。

フィクションの創作というのは、世界を丸ごと創るということだから、堅実にブロックを積み上げるようにして作ることはできない。できたとしても、小さな、よく出来た小屋しか作れない。なぜなら、「人間」は「神(創造神)」ではないからであり、世界を丸ごと創るような「非常の力」など、本来は持っていないのだ。

ところが、ごく稀に「神がかり的な、非常の力」を発揮する人がいる。
その場合、彼は「自分の力」以上のものを発揮していて、だからこそそれは「いつでも発揮できる(実)力」以上のものなのである。また、だからこそ、いつでも必ず「傑作」を作れる人など、いないのだ。

つまり、そうした時、その作家は、自分の体を開いて、自分以上の何かを受け入れることに成功しており、それは一種の「巫覡(シャーマン)」的な能力だと言えるかもしれない。科学的に言うならば、その時、そうした「天才」たちは、一種の狂気に陥ることによって、脳科学的な制約から解放され、それで「非常の力」を発揮するのだ。

だが、こうした「神がかり」は、安彦良和という「誠実な作家」には、まったく受け入れられないものであろう。彼は、「ニュータイプ」を嫌ったのと同様、「神がかり」など拒絶し、「人間として誠実に、持てる力の全てを傾けて、作品を作る人」なのである。だからこそ逆説的にも、彼の作品は「(誠実な)人間の域」に止まってしまうのではないだろうか。

以上のような理由で、(「絵描き」としてではなく)「物語作家」「監督」としての安彦良和に対する私の評価は、決して無条件に肯定的なものではあり得ない。安彦良和は、意志の人として、自ら「人間の域」に止まった人であり、善かれ悪しかれ、それを限界として持つ作家なのである。

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そして、そんな「人間の域」に止まる作家としての安彦良和にとって、本作『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』は、最高傑作なったのではないかと、私は評価する。
つまり、「天才的な非常の作品」ではないけれども、「人間的に誠実に作られた、最高の成果」だと、私は本作を高く評価したいのだ。

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ではなぜ、本作は、安彦良和の「最高傑作」になり得たのだろうか?

それはたぶん、本作が「子供たちを中心に描いた物語」だったからではないかと思う。
安彦良和は「誰よりも子供の幸福を願う、まるでククルス・ドアンのような作家」なのである。だからこそ、本作は、その個性が「ハマった」のだ。

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実際、安彦良和は、絵描きとして「子供」を描くのが好きだし、得意でもある。
若い頃の作品としては、『自ら企画書を出し、脚本、演出、作画にも関わった』作品『わんぱく大昔クムクム』(1975年)は『主人公クムクムは、1973年に生まれた安彦の長男がモデル』で「小さきものへの愛おしさ」にあふれる作品となっている。また、キャラクターデザインだけではなく、初の作画監督作品となる『ろぼっ子ビートン』(1976年)は、安彦良和らしい「子供の可愛らしさ」にあふれた作品だった。

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もちろん、周知のとおり、絵描きとしての安彦良和は、全年齢の男女を巧みに描き分ける天才なのだが、それでも、最も生き生きと描けているのは、やはり「子供」であろうし、その性格造形にも幅がある。
安彦には、性格造形においては、やや「パターン化」のきらいがあるのだが、子供キャラについては、かなり幅広い描き分けが出来ているのではないだろうか。

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また、他のアニメーターがロボットアニメの主人公をデザインすると、カッコイイ主人公にしようとするせいか、年齢的には「少年少女」のはずなのに、子供から見れば「大人」にしか見えないようなキャラクターデザインになりがちである。
だが、安彦が少年少女を描けば、ロボットアニメの主人公であっても、設定年齢相応の「子供っぽさ」を残したキャラクターデザインになっている。これは、決して偶然ではなく、安彦には人一倍「子供」たちに注ぐ「愛の目」があるからだと私は考えるが、如何だろうか。

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そんなわけで、「ククルス・ドアンの島」は、安彦良和のためにあったような「お話」だし、原作のテレビ作品を膨らませるに当たっても、他の作家ならここまではやらないであろうと思えるほど、子供たちの日常を生き生きと描いて見せ、結果として、戦災孤児である子供たちを命がけで守ろうとして「脱走兵」になった、元ジオン軍兵士で、モビルスーツのエースパイロットだった「ククルス・ドアンの選択と生き様」にも説得力が増し、ドラマ全体が厚みを持ったのではないだろうか。

無論、安彦良和の弱点である「大人キャラクターの類型性」は、本作にも見られる。
大人のキャラクターの場合、それぞれに「いかにもそれらしいパターン」で「カッコいい」のだが、富野喜幸のように「パターンをはみ出していく、異様な人間くささ」が、安彦良和の描く「大人」たちにはない。

例えば、本作でのオリジナルキャラクターである、「褐色のサザンクロス」の異名を持つ、有能なモビルスーツ小隊の6人は、いずれも「個性的」ではあるものの、いずれも「どこかで見たことのあるパターン」のキャラクターであり、しかも「役割分担」的に個性がハッキリしすぎている。
「前隊長であるドアンに劣等感を持っている、粗暴な新隊長」だとか「実は、ドアンに惚れていた、美人女性パイロット」とか「ドアンに憧れて入隊してきた、戦闘狂の新人パイロット」とか「戦闘を楽しむ冷静さが売りの知性派パイロット」とかいった具合である。
これは、テレビシリーズからおなじみのマ・クベ将軍も同様で、安彦『ガンダム』では、随分とカッコよくなっているのだが、その見栄の切り方が「いかにも」という感じは否めない。

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そしてこれは、ククルス・ドアンについても、基本的には同様だ。
ドアンが、脱走兵となってまで戦災孤児たちを守り育てようと考えたきっかけとして、彼が「褐色のサザンクロス」小隊の隊長として、市街戦を戦っていた際に、上半身を倒壊した建物の下敷きにして死んでいる母親のそばで「ママー、ママァー!」と泣いている子供の姿に目を奪われ、凍りついたようになったドアンの様子の描かれた「回想シーン」があったけれども、普通に考えて、ドアンが「赤い彗星」にも並ぶほどの名声を得ていた、歴戦のエースパイロットであったとしたら、同様の市街戦を何度も経験しているはずだし、悲惨な光景や哀れな戦災孤児の姿や死体も数多く見ているはずで、この「回想シーン」だけで、ドアンの「回心」を説明するのは、どうにも無理があろう。

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無論、これだけでも、それなりの説得力はあるだろうが、十分に厚みのある説明だとは言えないのではないだろうか(その意味で、アムロがガンダムで、「褐色のサザンクロス」の一人であるパイロットを踏み潰して殺すという描写には、安彦良和らしい誠実さがよく表れている)。

だから例えば、ドアン自身に戦争で失った子供がいるとか、彼には自身の手で子供を殺した経験のあることを暗示するとか、そのあたりをもう少し描きこめば、彼は単なる「子供を守る、強く優しい男」という「ひとつの紋切り型」を出ることができたのではないだろうか。
そして、それは、子供たちの日常を描くシーンを、ほんの少し削るだけで、十分可能なことだったはずだ。

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だが、それでも「自らの望むところ」に忠実に、「子供たちの子供らしさ」に重点をおいて描いたからこそ、この映画版『ククルス・ドアンの島』は、安彦良和らしい「理性と信念の軛」から逃れて、生き生きとした作品になったのではないだろうか。

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ドアンに育てられていた戦災孤児たちだけではなく、何よりもアムロをはじめとした、ホワイトベースのクルーたちの「子供っぽさ」や「青年らしい清潔さ」が、この作品を、「戦争」という重いテーマを掲げながらも、観念に堕することなく、ある種のリアルさを持った作品にしたのではないだろうか。

安彦良和という、過剰なまでに克己心のある作家が、それゆえにこそ自身を縛っていたものを、子供たちの屈託のなさが解放したのではないか。

一一本作は、そんなふうに感じさせる、安彦作品としては、稀有に「人間くさい」、優れた作品になっていたのである。

(2022年6月6日)

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