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矢寺圭太 『ぽんこつポン子』 第9巻 : 〈完結〉を受け入れるということ。

書評:矢寺圭太『ぽんこつポン子』第9巻(ビッグコミックス・小学館)

次巻での完結が予告されている。これはもう冗談でも何でもないだろう。ポン子ともあと1巻でお別れかと思うと、残念でならない。
しかし、ゲンジが、自身の死を受け入れることで、妻の死をも受け入れ、今をよりよく生きようとしていることに学ぶならば、私たちもたぶん『ぽんこつポン子』という作品の〈完結〉を、感謝を持って受け入れるべきなのかもしれない。

『ぽんこつポン子』のテーマである「心」という問題は、私にとって長らく考え続けてきたものであった。
最近も、池辺葵の、少女型ロボットを主人公にしたコミック作品『私にできるすべてのこと』についてのレビュー「心など無くても感情ならきっとある。」で、私は現時点での「人間以外の存在における、心の問題」を論じている。レビューのタイトルからもお分かりいただけようが、私はそこで、いわゆる「心」と呼ばれているものと、「感情」とを区別して、「感情」的なものであれば、あらゆるものに宿っていても不思議はないし、そもそもそれを否定することは誰にもできない、と論じている。なぜなら、「心」というものの存在は、実際には「自分の心」しか確認できないものであり、目の前に存在する親兄弟を含めた「他人」の「心」の存在さえ、実際には「確認する」ことなどできないからだ。

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SFを読む人なら知っていると思うが、数学者アラン・チューリングもまた「心」の問題を深く考え、機械に「心」が宿る可能性を認めた人だった。
私たちが、外から対象を眺めて「心」の有無を「感じる」ことしかできない以上、人間と区別がつかないほど巧妙に作られた「ロボット」には、「心」を認めるしかないのであり、それは「人間の他人」に「心」を認めることと、何ら区別はないからである。

私たちは、どうしてアトムやポン子に「心」の存在を認めてはいけないのだろう。それは「非科学的」であり、愚かで幼稚なことだからだろうか。
しかし、ロボットに、あるいはAI(人工知能)に、「心」あるいは「心のようなもの」、さらに言えば「感情のようなもの」が宿る可能性というのは、科学においても、完全に否定しさることはできない。だからこそ、「シンギュラリティ」問題でも、科学者の意見が分かれるのである。
「AIなど、所詮は膨大な演算のこなすだけの、高性能計算機でしかない」という言葉に対しては、「生物が、非生物から生まれたように、機械が途方もなく複雑化する過程で、心のようなもの、あるいは演算からの逸脱が生まれないと、どうして言えるのか。どうして、その逸脱が累積的に発展しないと言えるのか」と、私は反論したい。
そもそも「科学」とは、「絶対(真理)」ではなく「仮説」であり、現実の場においては「想定外」の事故や逸脱は常に発生するものなのだ。だから「断定」はできまい、とそう思う。

ともあれ、「他人」に「心」を想定することが、その「類推と蓋然性の高さ」において許されるのであれば、どうしてアトムやポン子に「心」を見てはいけないのか。どうして、犬や猫に「心」を見てはいけないのか、どうして草花や鉱物に「気分のようなもの(原始的な心)」を「想定」してはいけないのか。

私は「人型ロボット」の「心」の問題を、科学的に追求した先駆的SF小説、瀬名秀明の『デカルトの密室』(と、そのシリーズ作品)を読んで以来、ずっとこうした問題を考え続けている。いろんな科学書を読みながらも、頭のどこかには「心」の問題がある。
例えば、「量子ジャンプ」の問題は、「機械」が「心を持つもの」へと「飛躍」する瞬間の可能性を語ってはいないか、「粒子と波動の重なり合った存在のあり方(コペンハーゲン解釈)」とは「観測した途端に、心の存在が消える」ことの説明にはならないか。つまり「人間を、あるいは脳を、いくら解剖しても、心は見つからないのと同様に、機械の中に心を見つけられないのは、ある種の、観測問題」ではないのかと、といった具合である。

そんなことを考えながらも、多くのファンと同様に、私は『ぽんこつポン子』という作品に「癒され」ながら、楽しんできた。

最近、何かのテレビ番組で、『約束のネバーランド』を紹介して「最近のマンガは、昔のマンガとは違い、人気があるからといって無理な引き延ばしはせず、適度なところで完結させるので、作品としての完成度が高いまま終われる」といったようなことが語られていたが、たしかに『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』といった超ド級の人気作品であっても、人気がある間に、節度を持って完結をしている。これは、作者自身が絶望させられた『ドラゴンボール』などの「悲劇」を知っている者にとっては、驚くべき「改善」だと言えるだろう。

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だから、『ぽんこつポン子』が終わってほしくないと願うファンの気持ちはよくわかるし、私にもそんな感情があるのだけれど、やはりポン子たちのために、私たちファンは「完結」を受け入れるべきなのではないだろうか。
これは「無理な延命措置」は、当人のためのものではないというのと、同じ事情だと思う。無理に引き延ばして、(例えば、アニメ『けものフレンズ 2』のように)ポン子が「似て非なるポン子」になるくらいなら、ポン子との「別れ」を、私たちも引き受けるべきであろう。

ポン子の「心」を物理的に確認することはできなくても、それが「心」として認知できるならば、そんな「心」に物理的な媒体は必要なかろう。つまり、「ポン子の心」は、私たちの心の中に生き続けるだろうということである。

このようにして私は、ポン子たちとの別れについて、心の準備を進めている。

初出:2021年4月2日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月16日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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