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矢寺圭太 『ぽんこつポン子 』 第2巻 : 〈心〉というアポリア

書評:矢寺圭太『ぽんこつポン子 』第2巻(小学館サービス)

『ぽんこつポン子』第2巻は、第1巻からは大きく展開して、ポン子が、突如現れた謎の巨大生物から日坂町を守るため、人型決戦兵器PONKOに搭乗して、決死の戦いを挑む物語となっている、わけではなかった。第1巻巻末での予告は、やはりおフザケだったのだ。残念である(嘘)。

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第1巻のレビューに『「ポン子名付け」のシーンで、ポン子の「………嫌だ。」という心内語が描かれているが、これは今後の展開の中で重要な伏線になってくるかも知れない。』と指摘しておいたが、本巻では、ロボットであるポン子の「心」の問題に、何度か言及がなされている。

先に指摘したように、私たち読者には、ポン子に「心」があるという事実がハッキリと示されているのだが、作中の人々にとっては、それは決して自明なことではない。ポン子がいかに人間ぽくとも、作中の人々にとっては、ポン子はロボットであり、感情があるように見えるのは「(機械として)よく出来てるから」であろうということになる。しかし人は、人型のロボットが、表情豊かに感情「表現」をすれば、そこに「心」があるように感じてしまうものなのだ。

昨今、AI(人工知能)の発展がめざましく、AIが人間の知能を(総合的に)超える日も遠くはないと言われているし、そうなれば、AIが感情を持つようになってもおかしくはない、というふうに考える人も少なくない。AIが人間を越える特異点(シンギュラリティ)は、近い将来に、現実に到来するものとして語られ始めている。

しかし、「心」とはいったい何だろう。
そもそも「心」というものの定義は、じつのところ定かではない。だから、AIどころか、他の高等生物に「心」があるのかさえ、いまだ定かではない。たしかに「感情」のようなものはあるみたいだが、それは一種の「脳科学的な生理反応」であって、「心」とは別物なのではないか。「心」とは、そのような「物理的反応の累積」のようなものではなく、それを超えたところにあってこそ、「心」と呼ぶに値するのだし、それこそが「心」なのだ、と考える人も少なくない。
と言うか、私たちの大半は、そのように考えている。つまり、自分の、この「心」が、単なる化学反応の産物だとは思っていない。他人に対する、愛も憎しみも、そして悲しみも、単なる化学反応ではなく、もっと「人間的なもの」つまり「心」だと思っているのである。

しかしそれは、私たちが主観的に「自分の心」を感じているから、「心」があるように思っているだけで、他者の中に、自分自身と同じような「心」があるかどうかは、ついに確認することは出来ない。
たしかに、脳の電気的活動を測定する器械ならあって、この刺激を与えればここが反応するのはここにそれに対応する脳の領域があるからだとかいったことは分かる。たしかに脳は刺激に対して反応しているのだが、これはどこまで行っても化学的反応の記録であって、それを「心」(の一部)だと認定するかどうかは、「心」の定義しだいということにしかならない。

例えば、AIを語る上で、かならず言及されるのが、哲学者のジョン・サールが考案した思考実験「中国語の部屋」である。詳しくは、Wikipediaを確認していただくとして、要は、外からの質問に対して、いかにも人間的に応答する「ブラックボックス」の中にあるものが、果たして「心」なのか「機械的情報処理」なのかは、外の者には区別がつかない、という話である。
だから、ポン子に「心」があるのかどうかが、作中の日坂町の人々には、論理的にはわからない。論理的には「決定不可能」なのである。

それでも、彼らはやがて、ポン子に「心」を見るようになるだろう。ポン子の中で何が起こっていようと、判断するのは、外部にいる人たちなのだから、そうなってしまうのは極めて自然なことであり、それを非科学的だと一蹴することは、決して容易なことではないのである。

そして私たちは「それならポン子の心を認めてやるべきではないか。いや、認めるべきだろう」と考えるだろう。だが、その時、私たちは「機械に心を認める」という、決断を迫られることになる。彼らはもう「機械的な生き物」なのだ。人間が作った物だとしても、生き物としての「尊厳」を持つ存在であり、私たち人間は、その「尊厳」を認め、相応に遇しなくてはならない、ということになるだろう。だが、そんなことが、私たちに出来るのだろうか?
わかりやすい例として、私たちは、ポン子のような「人型ロボット」の「人格」を認め、そして相応の「人権(相応の権利)」を認めることが出来るだろうか? 私たち人間と、彼ら(人間すら越えていくかも知れない)「ロボット」を、対等な存在だと認めることが出来るのだろうか?

『ぽんこつポン子』の世界でも、すでに「人型ロボット」の製造は中止になっている。なのに何故、旧式のポン子は、まだ存在を許されているのだろうか?
それは、もしかすると、彼らに「心」を見てしまった人間が、彼らを「殺す」にしのびなく、彼らが「自然死」してくれるのを待っている、ということなのかも知れない。

そして、ここにも「アトムの命題」が立ち現れてくる。
私たちがロボットもののフィクションを楽しむ時、何度も何度も立ち現れてくる難問だ。
私はここで、必ずしも、評論家の大塚英志の立てたものとしての「アトムの命題」について語っているわけではないのだが、私たちがポン子に感情移入し、彼女に「幸せ」になって欲しいと願う時、この難問は、誰にも避けて通れないものとして立ち現れてくるはずだ。

私たち人間は、「ロボットの心」がわからないどころか、しばしば「人間の心」さえ見失ってしまう存在だ。同じ人間を「心の無い物(無機物)」のように感じ、「ゴミ」のように廃棄して「心」が痛むこともないといった歴史的経験を何度もして来た。そんな私たちが「ロボットの心」を認めようなどというのは、ある意味で、身の程知らずの傲慢であるとも言えよう。

しかし、それでも「ポン子の心」を認めたいのであれば、私たちはまず、すべての「人の心」くらい、ちゃんと認められるようにならなくてはならないのではないだろうか。
しかし、これは私自身にとっても難問である。アトムがその「傷ついた様子」で、そしてポン子がその「笑顔」で、私に突きつけた難問なのである。

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初出:2019年9月30日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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