矢寺圭太 『ぽんこつポン子』 第4巻 : 私たちは、ポン子を怖れるべきなのか?
書評:矢寺圭太『ぽんこつポン子 4』(ビッグコミックス)
本作第1巻では、ポン子が「(ぽんこつの)ポン子」と名づけられた際に、「………嫌だ。」というポン子の「心内語」が描かれており、さらに第2巻では、本作における「心」の問題の重要性がハッキリしてきたとして、私は第2巻のレビューに、次のように書いた。
そして、この「心」の問題に関して、本巻で注目すべきは、第27話「くまうちポン子」での、「害獣としての熊」狩りに抵抗する、ポン子の行動である。
ポン子たちは、友達であるさんごちゃんのパンツを持ち去った熊からパンツを取り戻しに行って失敗し、かえってポン子の胴体部分(外れた頭部以外ぜんぶ)を熊に持ち去られてしまう。ちょうどその頃、村でも、里に下りてきて農作物を荒らす熊の存在が問題となっていたので、村人たちは、ポン子の胴体奪還と同時に、熊の駆除に乗り出す。
そして、それに同行した「ポン子の頭部」は、見かけはいかにもロボットという旧式な感じの「新型ロボット」上に、仮設されるかたちで取りつけられていた。これで、ポン子は自力移動が可能となった。だが、この新型ロボットは、ポン子とは違って、いかにも「ロボット工学三原則」をプログラムされた「ロボットらしいロボット」であり、ポン子との間で齟齬を来してしまう。
「ロボットは、このようなものとして作られなければならない」として示されたものが、この三原則なのだが、ロボットが人間に近づくにしたがい、この三原則と齟齬を来すことになり、それが過去の多くのロボットSFのテーマともなった。
そして、本巻第27話「くまうちポン子」で問題となるのも、この三原則のうちの「命令への服従」である。
言うまでもなく、ロボットに対する「人間からの命令への服従」というのは、「人間が主人であり、ロボットは奴隷」であるという関係を、原理的に規定して保証しようとするものなのだが、ロボットがどんどん人間に近づきはじめると、「ロボットにおける人格権」的なものが浮上してきて、この原則が揺らぎはじめる。
そして本巻第27話では、「害獣」となった熊を、心ならずも射殺しようとする村人を、ポン子は妨害してしまう。これはポン子自身、その後落ち込んでしまったように、ロボットとしてはあってはならない「原則からの逸脱」であり、本来であれば「解体処分」にされて然るべき、重大問題行動だ。
なぜなら、人間の命令(=意志)に逆らうロボットなどというものを、人間は怖くて「生かしてはおけない」からである。言い変えればそれは、ロボットが、「害獣」に等しい存在として認定されたことを意味するのである。
しかしながら、これが徹頭徹尾「人間の都合」でしかないというのもまた、明らかであろう。
本作のように、ロボットが「人間的な心」を持ってしまった場合、つまり「心を持ったロボット」が生まれてしまった場合、もうそこでは、人間とロボットの絶対的な主従関係は、人間倫理的に成立しなくなる。「人間的な心」を持った存在を、「道具」扱いにすることは、なによりも「非人道的=非人間的」な行為となってしまうからだ。
人は、相手が「ロボット」であれ「動物」であれ、そこに「人間的な心」を見てしまうと、その命を一方的に奪うという「権力関係」の正当性を保てなくなってしまう。人間的な倫理として、それが倫理違反だと認識されてしまう。
そして、ポン子もまた、「熊」に「人間的な心」を見てしまったがために、「ロボット三原則」に違反してまでも、熊を助けてしまった。しかしこれは、ポン子自身に「人間的な心」があればこその「ジレンマ」なのだ。
私は第2巻のレビュー「〈心〉というアポリア」で、ポン子に「心」を感じてしまう「人間の側の、心のあり方」の重要性を提起したが、本巻では、ポン子自身が、その範例を示してくれたと言えるだろう。
その範例が示したものとは「人間の人間らしさとは、他者(異なった存在)への想像力(思いやり)」だ、ということである。
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しかし、このテーマは、単に「感動的な物語」の問題であるに止まらず、もはや「最先端の思想的難問」ともなっている。その端的なものが「AI(人工知能)」の問題であり、それが人間を超える「シンギュラリティ」の問題だ。
私たちはすでに、一方的に「ロボット」に哀れみを垂れる立場にはなく、「ロボット」をリアルに怖れなければならない時代に入りつつあるのだが、はたしてその時に、読者諸氏は、ポン子のような存在を容認しうるだろうか?
こうした問題を扱った、最新の小説として、私はSF作家 瀬名秀明の最新短編集『ポロック生命体』(新潮社)を、強力にお奨めしたい。
この作品集所収の4短編は、いずれもAIが人間の能力を超えた時代の、人間の「思い」を問うている。
特に、「将棋AIロボット」を扱った短編「負ける」では、ロボットに対して「人間的に、美しく負ける」ことを教えようとする人間の姿と、それを学習したロボットの「美しさ」を描くことで、むしろ「負け」を認めようとしない人間の側の「非人間性=醜さ」を描いた作品だと言えるだろう。
また、社会心理学者 小坂井敏晶の『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫)は、「責任」という概念は、人間が、人間社会を成立させるために捏造した「虚構(フィクション)」でしかなく、さらに言えば、「責任」をささえる主体としての「私」というものもまた「虚構」でしかない、と論じている。
これは一見、奇矯な主張のように聞こえるかも知れないが、「人間の都合」を排して客観的に「この世界に事実」を見れば、この世界には「あらかじめ存在する」ものとしての「善や悪」などは存在せず、したがって「責任」などというものも「無い(存在し得ない)」ということになろう。
「責任」というのは、「社会的な動物としての人間」が存在して初めて「必要になる」もの(人工的システム)であり、その意味で「人間による人間のための人間的フィクション」なのだ。
そして、そうであるならば、この「責任」というものを支えている「私」や「個人」や「人格」や「心」というものは、どうなのだろうか。
それらを、私たちは「ある種の存在物」のように感じているのだが、しかし、それらこそ「人間という生物」が生き残っていくうえで構築してきた、「進化論的な虚構」なのではないのか。
外部環境から各種情報を取り込み、それを適切に組み込みつつ自身を変容させていく「進化する情報交換システム」である人間が、その効率性を高めた果てに生み出したのが「心という虚構=フィクション」なのではないか。
だとすれば、私たち人間と、ロボットや動物には、本質的な「違い」など無い、ということになってしまう。
だからこそ、マルクス・ガブリエルに代表される最新の哲学・思想潮流は、「心」を「脳科学的な物理現象」に還元することに、強い抵抗を示しており、これが「新実存主義」として注目を集め、もて囃されてもいるのだが、しかし、「心」を「実存」の一部だと考える態度は、いかにも「人間的」ではあろうけれど、本当の意味での「人間的」つまり「人間倫理的」だと言えるのだろうか。
ポン子が、自身を親だと思っていたヒヨコたちのこと思い出し、子連れの熊を助けようとした、その「心」を、「人間的実存の一部としての心」とは別物であり、所詮は「複雑な機械的情報処理」が生んだ、「人間と酷似した、しかし人間とは別の行動」だと理解することが、はたして、人間的に「正しいこと」なのだろうか。
私は「人間の心」を、「進化する情報交換システム」としての人間が生んだ「脳科学的な物理現象=心というシステム」であると認めることができるし、だからといって、それで「人間の尊厳」が否定されるとも思わない。
むしろ「人間の心」を特別(例外)扱いにしようとする「新実存主義」的な「心」の捉え方の方が、かえって「人間」を、欲望充足的に特権化することで、結果としてロボットや動物などを不当に貶める(差別する)「非人間的な心」を生むものなのではないか、と感じられる。そしてその意味で、「人間の尊厳」を損ねるものなのではないかとも感じられるのである。
「ポン子の人間的な心」を、私たち人間は、はたして「怖れ」なければならないのだろうか。
やはりポン子は、「不具合のある旧式ロボット」として、廃棄されなければならないのであろうか。
これは「ロボットの問題」ではなく、われわれ人間の「人間的な問題」であることを、決して忘れてはならない。
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【余談】
本書巻末の「予告編」は、ゲーム「スーパーロボット大戦」のパロディーとなっている。同ゲームで扱われた多数の作品の中から、本書作者が『無敵鋼人ダイターン3』(富野喜幸監督)の主人公 破嵐万丈の決めゼリフをセレクトしたのは、単に作者の年齢を窺わせるヒントに止まるものではないのかも知れない。
つまり、破嵐万丈が「メガノイド」だったかも知れないという同アニメ最終回の「暗示」が、「人間とロボットとの境界」を問い、「人間としての尊厳」の在処を問うているものであったことを想起するならば、本書著者のこのチョイスも、そのあたりが理由だったのかも知れないのである。
初出:2020年3月13日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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