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山本弘 『プロジェクトぴあの』 : 夢と理想と現実とSF

書評:山本弘『プロジェクトぴあの』(ハヤカワ文庫)

『これは "ハードSF作家・山本弘" の遺書だと考えてください。』

何かをネット検索していて、この言葉が目に飛び込んできた。

『多くの方がすでにご存じでしょうが、僕は二年前に脳梗塞を患いました。本当に突然の発病でした。現在、いくらかは回復してはいますが、依然として計算能力や論理的思考力は低いままです。』

だから、もうこの作品のような、科学理論を駆使した「ハードSF」は書けないだろう。そのため、本作は『"ハードSF作家・山本弘" の遺書』になるだろう、と言うのだ。

山本の作品はいくつか読んでいて、中でも『アイの物語』は、そうとう愛着のある作品だ。
また、私は「宗教」批判のために、わざわざキリスト教の研究を独学で始めたような、自覚的な「無神論者」なので、『神は沈黙せず』なども面白く読んだし、山本の「と学会」活動にも一定の興味は持っていて、そこから副島隆彦『人類の月面着陸は無かったろう論』なんて本も、わざわざ古書で入手して読んでみたりもした。

つまり、山本の熱心なファンというわけではないけれども、山本を「ちょっとユニークで、書けるSF作家」だと思っていたので、そんな彼が脳梗塞に倒れ、思うように書けなくなっていたというのを知って、なんとも言えない感情(あえて言えば、同情をともなった残念さ)を憶えた。
そして、山本のこのエッセイが、文庫版『プロジェクトぴあの』の「あとがき」の転載だと知って、それならば同作を読まねば、と思ったのである。

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『プロジェクトぴあの』は、単行本刊行時に目にしていたが、「アイドルもの」という点で興味がなかったのでスルーしていた。また先日、文庫版が刊行されているのも、書店頭で見かけて知っていたが、その時点では、山本の、このエッセイを読んでいなかったので、その時もまったく興味がなかった。
では今回、作品本編を読んでみて、どうであったか。

一一 面白かった。
本作は、「古き良きSF」的な、リリシズム溢れる佳品であったのだ。

私は典型的な文系人間だから、物理法則や宇宙論についても、文系的に興味を持ってはいたものの、決して詳しいわけではないし、正しく理解しているわけでもないので、山本が本作で描いてみせた「航宙動力理論」の面白さや斬新さも、十全に理解できたわけではない。その意味では、私は本作の良い読者ではないのだが、それでも本作は、とても面白く、記憶に残る作品となった。

どこが良かったのかと言えば、それは主に、主人公の「ぴあの」のキャラクターであり生き方であった。
「重力の桎梏から逃れて、外宇宙にまで行ってみたい」という幼い頃からの夢を持ちつづけ、そのために、独学で科学を勉強するかたわら、アイドルになって資金集めまでした、ブレることを知らない、ぴあの。天才的な頭脳を持ちながらも、宇宙以外のことには基本的に興味がなく、他人の感情にもかなり鈍感で、おのずとそうとうな「変人」である、ぴあの。
そんなぴあのが、外宇宙へ旅立つまでの姿を、彼女に恋していた青年の目を通して描いた「片恋物語」が、本作でもある。

つまり、著者の山本が強く意識した、アイデア勝負の「ハードSF」というだけではなく、本作は「切ない片想い」を描いた「青春恋愛小説」でもあったのであり、たぶんかなり多くの読者が、そうした側面に惹きつけられたのではないだろうか。

私が本作に特別に惹きつけられた点は、ぴあのの性格設定にある。つまり、その「変人」ぶりだ。
自慢するわけではないのだが、私もかなり「ぴあの的な変人」なので、彼女の生き方には、深く共感できた。いかんせん、彼女のような「天才的頭脳」は持ち合わせていないので、彼女のような派手な人生を歩むことはできなかったのだけれども、それでも平均的な人生からはかなりズレているし、私の変人ぶりは「知る人ぞ知る」程度のものにはなっていると思う。

例えば私は、徹底した「趣味人」であり、その趣味人的な生活の水準を維持するために、結婚はせず、子供も作らなかった。子供は嫌いではなかったし、異性を好きになることもあったが、結婚しなければならないとか、子供を作らなければならないとは思わなかったし、それで「世間体が悪い」とは少しも思わなかった。そんな世間の目など、屁とも思わなかったのだ。
結婚については、例外はあろうものの「恋愛感情は脳科学的な現象でしかなく永続はしないから、結婚という制度的拘束はリスクが高い」とそのように考えていたし、子供については「結婚すれば子供が欲しくなるだろう。子供を作れば、きっと可愛くて仕方がなくなり、自分の趣味人的人生を犠牲にさえするだろうが、現時点の感情として、わざわざそんな人生を選びたいとは思わず、今の生活を守りたい」と考えた。かなり恵まれていると思える現在の生活の「現状追認」である。
また、性欲処理については「今どきオカズには困らないのだから、マスターベーションで済ませた方が、時間的にも金銭的にも無駄がない。性交は、あえてしなければならないものではない」と考えた。
一一 つまり、私はこれくらい「割り切った考え方」のできる人間であり、これは傍から見れば、たぶん「変人」の範疇であろうと、自覚しているのである。

そして、こんな私だからこそ、ぴあのの徹底した生き方には共感ができた。
私の場合、宇宙には興味はないけれど、世間的な価値観に縛られず、一直線に自分の求めるものを追い続けた、ぴあのの徹底した生き方に共感したのである。

そして、その一方、ぴあののような「天才」を持たない私は、彼女に「片想い」をするしかなかった、本編語り手の青年・昴(すばる)の「切ない感情」にも共感できた。それは「届かないと知りながらも、思い続けずにはいられない」という感情への共感である。

私の場合、「一切知の夢」が、それであった。
この言葉は、博覧強記の天才・南方熊楠を評するために使われた言葉だが、私はこの熊楠よりもさらに広い範囲に興味を持ち、それらを全部「ひととおりは知りたい」という感情を持っているのだが、しかしこれは、たかだか百年しか生きられない人間には「とうてい届かない夢」であることは明らかだ。
例えば私は、もう20年近く前には、すでに死ぬまでかかっても読み切れないだけの本を所蔵していた。それを読んでいるだけで、もう1冊も買う必要はなくなっていたのだが、しかし、私の興味は、日々広がりつつ重点を移していくために、欲しい本が途切れることはなく、その後も、1冊読む間に3冊買うという度しがたい読書人生活を続けてきた結果、自宅は、『子供より古書が大事と思いたい』という著書のある鹿島茂の自宅よりも、すごいことになっている。鹿島のような邸宅に住んでいるわけではないものの、独身生活の故に、ほぼ4室が本で埋め尽くされるような生活をしているのだ。
あまり見栄えのするものでないのは無論だが、しかしこれもまたやはり「届かないと知りながらも、思い続けずにはいられない」もの、つまり私の場合「一切知の夢」への、言わば「片想い」の結果だからこそ、本編語り手の青年の「切ない片想い」にも、実感をともなって共感できたのではないかと思う。
そして「畢竟、人生とは、夢を追う旅路の半ばで終えるもの(つまり、片想い)である」というのが、私の現在の人生観なのだ。

こうした点からしても、すべてではないにしろ、優れた能力を失ってしまった山本には、痛ましさをともなった同情の念を禁じ得ないし、空疎な励ましの言葉などかけられはしないのだけれども、ただ私がここでお世辞抜きで言えることは、本作『プロジェクトぴあの』は「ハードSFの部分を抜きにしても、十二分にすぐれた片想い小説になってますよ」ということであろう。

この評価に、山本自身は満足しないかもしれないが、すべてではないにしろ、彼の作品が残っていくことは確かだ。それは、彼が物理的に死んでからも、である。

また、変人的に非常識な褒め方をするようだが、小説家は小説を残すことこそが、その生きた証であり、山本はそれをなし得た稀有な作家のひとりであると、私は高く評価するのである。

だから、多くの読者に、本作『プロジェクトぴあの』を読んでほしいと思う。
夢には届かなくても、夢を追いつづける人間の姿は、きっとあなたを励ますはずだからである。

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【補記】

本作について「人間に対する絶望が貼付いており、その意味で救いのない作品となっているのだが、SFは人類への希望を語るべきである」とする批判もあるようだ。
その気持ちもわからないではないけれども、私はそうは思わない。

というのも、無根拠かつ無責任に「希望」を語るだけなら容易だが、人類の「度しがたい愚かさ」に挑みつづけるという「実体験」のある人間には、観念的でイデオロギー的な「キレイゴトの理想」など、とうてい語れるものではない(例えば、ネトウヨなどへの説得を試みる、普遍的な人類愛のある人が、どれほどいるだろうか?)し、そんな空疎なものを語るのは「文学ではない」とすら思うからだ。
「文学」が語るべき理想とは「絶望の彼方にこそ見いだす、微かな希望」であって、「安価な希望」などでは、決してない。

山本弘が、人類に絶望するのは、彼が人類の「理性」に期待して、本気で人々を啓蒙しようとしたからに他ならず、それが「と学会」の根本思想でもあった。
しかし、いくら諄々と理屈を説いても、面白く語っても、「妄信者」は決してその「妄信」を捨てようとはしなかった。そうした経験を、嫌というほど積んだからこそ、山本は人類に絶望したのであろうし、本作『プロジェクトぴあの』が「人間的欲望を捨てきれない、愚かな人類への訣別の物語」とも読めてしまう部分もあって、それを残念と捉える向きもあったのであろう。

だが、私にとっては、人類の「悪しき欲望」と戦ったこともない人間の「お気楽な理想主義的イデオロギー」よりは、山本のそれのように「現実を格闘した末の絶望」の方が、まだしも共感できるし、価値もあると思う。

というのも、「現実との格闘を抜きにした、空疎な理想主義」は、どこまでも無責任なものであり、かつ「人類への、本物の愛」を欠いたものであるのに対し、「現実との格闘の末に傷ついた理想主義、としての絶望」は、まだしも、その先に進む可能性としての「人類への愛」を残していると信じるからだ。

悪い意味での「まんが・アニメ的リアリズム」における、うすっぺらな人類愛(や正義)よりも、私は失望や絶望、そして憎悪の感情さえ知っている「大人の愛」こそが、「文学」の描くべき価値のあるものだと考えるので、『プロジェクトぴあの』が理想的な達成ではないとしても、それをいちがいに責めるつもりもないのである。

初出:2020年7月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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