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瀬名秀明 『魔法を召し上がれ』 : 心と現実と生きること

書評:瀬名秀明『魔法を召し上がれ』(講談社)

本書は、今時珍しい「正統な文学作品」である。どのような点で「正統な文学作品」なのかと言えば、それは、この作品で描かれているのが「心とは何か」「現実とは何か」「生きるとは、どういうことなのか」といった、極めて正統的な文学テーマであり、それを愚直に追及した作品だからだ。

だから、この作品がどういう作品なのかを、批評的に紹介するのは、なかなか難しい。
というのも、本作が「エンタメ」なのか「純文学」なのか、あるいは「SF」や「ミステリ」などのジャンル文学なのか、といった「形式」をいくら紹介したところで、この作品の「本質的固有性」を語ったことにはならないからである。

本作は、レビュアー大隅典子氏が『2020年の東京オリンピックからさらに10年余ほど後の世界。人と共存するロボットや仮想現実(VR)、拡張現実(AR)が身近な社会になっているという設定。』と紹介する、そんな世界を舞台としている。
そんな世界を舞台に、心に傷を抱える孤独なマジシャンの青年ヒカルと、彼と同居することになる人型ロボットのミチルが、周囲の人たちと織りなす、本作はそんな、ヒカルとミチルの「成長の物語(ビルドゥングスロマン)」だと言えるだろう。

もちろん、人間であるヒカルの成長とロボットであるミチルの成長とは、表面的には違っている。けれども、「成長」ということが可能なのであれば、そして「成長」ということの意味を人間が規定するのであれば、結局のところ、人間の成長もロボットの成長も同じ方向を向いた、本質的に同じものだと言えよう。
だから、著者が、ロボット工学や人工知能と言った最先端科学に詳しく、その独自性をよく理解している人であったとしても、やはりその根底にあるのは「人間」の世界観であることに変わりはないのである。

主人公ヒカルは高校生時代に、ある事件に遭遇して心に傷を負う。それは大切な人を失うという喪失体験なのだが、その体験に独特の陰影をあたえているのは、その体験に彼が愛するマジックが絡んでいる点である。

一一「ぼくはぼくの魔法(マジック)によって、大切な人を消してしまった。しかし、魔法(マジック)ならば、消したものを呼び戻すことが出来るはずだ。なのにそれが出来ない」というジレンマ。
彼がマジックを続ける理由は、実の親や育ての親がマジック好きであり、彼にその魅力を教えてくれたということももちろん大きいのだが、大切な人をマジックからみで失ったあとも彼がマジックを捨てなかったのは、自分の魔法によって失った人ならば、マジックを極めることで、いつかその人を呼び戻すことができるはずだと思っていたからではないだろうか。
彼のマジック探求の根底には、そうした寂しさと切迫感が存在する。

無論、そんな彼の「呪い」解くのは、最終的には彼自身なのだが、その力を得るための助けとなるのが周囲の人びとであり、そして誰よりもミチルの成長である。

マジックが好きで、物語が好きなミチルは、そうした経験を重ねることによって徐々に成長し、「心」を持ち「私(自分)」というものを持った存在に成長していくかのようである。
ロボットの彼に、本当に「心」が生まれたのかどうかは、外部からは確認のしようがない。そもそも「心」とは何かの定義が定かではないのだから、「心」とは定義しだいで、そこに「ある」とも「ない」とも言えるようなものなのだ。
しかしまた、だからこそヒカルにはミチルが「人間らしさ」としての「心」や「私」を獲得していくように見えること自体が、そうとしか考えられないし、それこそがヒカルの偽らざる「現実」なのである。

そんなミチルの成長を目にしながら、やがてヒカルは過去の不幸な事件と、再び向き合うことになる。
はたして、ヒカルは大切な人を取り戻すためのマジックを手にすることが出来るのだろうか。

無論、出来るのだ。ただ、そこには最後のひと捻りがある。
魔法はかけた人にしか解けないのだが、ヒカルの誤解を解いて、彼への魔法を解くのは、彼に魔法をかけた人以外にはいなかったのである。

繊細な切なさと緊張感によって作られた「銀製の薔薇の造花」のようでありながら、そのなかに小さくも温かな灯りが点っている、そんな作品である。その誠実で奥ゆかしい魅力は、まさに今どき珍しい「上質の文学作品」の特有のものだと言えるであろう。

初出:2019年8月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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