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海老原豊 『ポストヒューマン宣言 SFの中の新しい人間』 : 〈寄せ集めの怪物〉としての ポストヒューマン論

書評:海老原豊『ポストヒューマン宣言 SFの中の新しい人間』(小鳥遊書房)

さる事情で、最近その名を知ったばかり評論家である。その後、会社帰りに立ち寄った書店「ブックファースト」の棚に、その第一著作である本書が並んでいるのをたまたま見つけたので、これも縁かと読んでみることにした。
この「ブックファースト」直近で、これもいつも立ち寄る紀伊國屋書店では見かけなかった本だ。出版社がマイナーなので、大型書店である紀伊國屋にも、ほとんど入らなかったのだろう。一方「ブックファースト」は、中規模店舗ながら、売りやすい「トレンド本」を派手に並べるだけではなく、仕入れに工夫をしているようだ。好ましい努力である。

さて、本書のテーマは「ポストヒューマン概念で、SFを読んでみる」ということになるだろう。
著者によると「ポストヒューマン」という言葉は、最近の「トレンド」だそうだ。だから、この言葉を前面に押し出したのだろうが、内容的には、その読み込みがいささか浅いために、弱いという印象が残った。
(ちなみに、著者の恩師に当たる、アメリカ文学研究家でSF評論家の巽孝之が、本書に『SF批評の俊英が透視する 新人世以後のヴィジョン!』という推薦文を寄せているが、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』が大ベストセラーになっている現在、こちらも露骨にトレンド便乗である)

本書は、著者がこれまで書いてきた、SF作品に関する各種の作品論や作家論を「ポストヒューマン」という言葉で、長編評論にまとめあげたもので、個々の作品についての読解や議論は、さすがに「好きで書いたもの」だというのがよくわかる、なかなか面白いものであった。
だが、タイトルにまでしている「ポストヒューマン」概念の扱いが、どうにも弱い。

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「ポストヒューマン」とは、「後の(次の、新しい)人間」というほどの意味で、はたしてそれが「人間」の範疇に入るものかなのか、はたまた「人間」が時間的に変化した後の「人間の範疇を逸脱した存在」を指すものなのか、そこに明確な概念規定は存在しない。
これは当然で、本書著者も書いていたと思うが、そもそも「人間」という概念自体が、厳密な「線引き」によるものではないのだから、「ポストヒューマン」概念が、厳密な規定になるわけもないのだ。

そこで、本書著者は「ポストヒューマン」という「融通無碍」な概念の「融通無碍さ」を利用し、それを一つの「物の見方=読解格子」にして、自分の好きな「SF作品」を、まとめ上げようとしたのである。

だが、著者による「ポストヒューマン」概念の採用は、もともとそうした「視点=物の見方」にこだわり(=好き)があったからではなく、はっきり言ってしまえば「トレンドの乗った」部分が大きかったのだろう。
「ポストヒューマン」という言葉を連呼し、その「物の見方=読解格子」の重要性を自己喧伝するばかりで、肝心の「ポストヒューマン」概念の方は、力(=魅力)を持って立ち上がってこない。

著者は「まえがき」で、本書の基本的な構えを、次のように語っている。

(1)『今まで別々のテーマで別々に論じられていた作品が、ポストヒューマンという枠組みで包括的にとらえ直すことが可能になった。ポストヒューマン概念は人間をアップデートするだけではなく、SF評論を刷新する。』(P12)

(2)『 (※ 本書で)注力したのは、ポストヒューマンという概念でSF史を俯瞰し、これからの想像力=創造力を考えることだ。ポストヒューマンというのは「人間以後の存在」、私たちの「あと」にくるヒューマンだ。しかし、作品を見れば見るほど、私たちつねにすでにポストヒューマンなのではないかという確信は深まるばかりだ。ヒューマン以後のことであるが、私たちはすでに「その後」に生きている。現在と未来を誤読しながら。』(P12)

(3)『SFはジャンルであるが、思考法であり哲学でもある。SFとは何かを考えることと、あるSF作品を論じることは不可分である。さまざまな作家・作品を論じてきたが、改めて各論を見直してみると、そこには一本の背骨が通っていることに気がつく。それがポストヒューマンだ。ポストヒューマンを軸にSF論を組み立てたら新しいSF評論ができるのではないかというのが本書の根底にある。』(P19)

ここで語られていることの「意図」を簡単に解説すれば、こうなる。

(1)は、「ポストヒューマン」概念によってSFを論じることで、SF論は「刷新」される。言い換えれば、「ポストヒューマン」概念は、SFにとってそれほど、革新的に重要な意味を持つ、はずだ。一一ということ。

(2)は、「ポストヒューマン」概念は、本来は、私たち「人間」の「あと」のものであり、基本的には、人間には「了解不能」であるはずだが、しかし、『見れば見るほど』「考えれば考えるほど」、逆説的にもそれは「今の人間」を論じるもののようにも思えてくる。無論、これは「錯覚」であり『誤読』なのだが、この「錯覚」であり『誤読』は、今の人間に新たな価値を付与するものである。一一ということ。

(3)は、SFとは「ひとつの視角=ひとつのものの見方」である。私(著者)のこれまでのSF作家論、作品論を見直してみると、これまでは気づかなかった「ポストヒューマン」という『背骨』の存在が透視できるようになった。これは、私個人にとどまらず、SFジャンルにおいても「新しい気づき」のはずだから、「ポストヒューマン」という「新しい視角」からSFを論じれば、『新しいSF評論』が書けるのではないか。一一ということだ。

著者の「気持ち」は理解できるが、しかし、ここで語られていることは、一言でいえば「信仰告白」でしかない。
自分の都合のいいように、意図的に、現実を歪めて見ようとしているのである。

無論、著者は馬鹿ではないから、それが『誤読』であることには気づいており、だからこそ、それを「方法的誤読」であると考えている。
そもそも「文芸評論的な読解」というのは、基本的には「深読み」であり「発展的な誤読」ではあるのだが、しかし、ウンベルト・エーコも『読みと深読み』で指摘するとおり、それは「読者個人の都合(恣意)」によって捏造されて良いものではなく、「作品本位(尊重)」の立場から「作品」の中に「幻視」され、発見されたものでなくてはならない。
つまり「トレンドなので読者の注目を引きやすいし、使って使えない概念ではないから、これを使おう」みたいなものであっては、どうしたって、著者自身に対してすら十分な「説得力」をもたらし得ないのだ。
そのため、本書における「ポストヒューマン」概念は、「すごいすごい」と煽られるわりには、読後に読者を駆り立てるような「凄さ」を感じさせず、ぼんやりとした「弱い」印象をだけ残すことになってしまうのである。

本書における「ポストヒューマン」概念が、どうにもボヤけたもので、しっかりとした手応えを持たないのは、結局のところ、著者自身が、自分の中のある本質的な思考傾向としての「ポストヒューマン」概念を見つけたのではなく、「トレンド」から引っ張ってきて、無理やりそれを「信じ込もう」としたからに他ならない。

例えばこれは、「神を見た」と確信している人と、「神が存在して、今の私を助けてくれないことには絶望的だから、神は存在すると考えたい」と思って信仰にしがみついている人との、「神語り」の説得力の違いだ、とでも言えるだろう。
前者にとっては「神は存在するに決まっており、それがわからない人たちは、救われない哀れな存在だ」という自信満々の語りになるが、後者の方は、自身が「信じていない人」に近い存在だからこそ、ことさらに「神の存在意義」を力説してしまう。他人を説得することを通じて、自分自身を必死に説得しているのである。

だが、この両者の「態度」を見て、どちらに説得力を感じるか、どちらの「態度」に「もしかすると、神は存在するのかも」と思わされるかは明白だろう。一一言うまでもなく、本書著者の「ポストヒューマン」信仰は、後者に近いのである。

本書著者は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を、SFの嚆矢だと考えている。なぜなら、著者は、SFの根本的な方法論が「継ぎ接ぎ」にあると考えるからだ。
『フランケンシュタイン』が「近代科学とゴシックの継ぎ接ぎ」であるように、SFというジャンルは「科学と別の何かを継ぎ接ぎする」ところに生まれてくるジャンルだというほどの意味であり、その点では「ポストヒューマン」というのは「人間と何かを継ぎ接ぎする」ところに生まれてくるものとして、SFというジャンルにピタリと適合する概念だと言えるし、その認識自体は間違いではないだろう。

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しかし、問題は「SF」にとって「ポストヒューマン」が適合しているか否かといった「一般論」よりも、より肝心なのは、「著者」にとって「ポストヒューマン」概念が、内的必然性を持ったものであるか否か、ということであろう。
例えば、著者は「ポスト自分」という「逸脱」への内的欲求に駆られるような人間であろうか。それとも、今の自分を追認し、正当化することに汲々としているような「ベタヒューマン」なのであろうか。

著者が「ポストヒューマン」概念を扱う手つきは、あまりにも観念的であり、御都合主義的にレトリカルである。世間並みの「自己都合」をねじ伏せるような、内的衝動に駆られた必然性が、そこには感じられない。だから、弱い。

そして、そんな「ポストヒューマン」という「弱い糸(意図)」で縫い合わされた「怪物」は、「怪物」としての力量を発揮する以前に、糸が切れて崩壊してしまう。「怪物」を完成させることが、ついにできなかったのだ。

その意味では、本書は「〈継ぎ接ぎの怪物〉としてのポストヒューマン論」を目指して、力及ばず「〈寄せ集めの怪物〉としてのポストヒューマン論」に止まった長編評論だと断じても良いだろう。

繰り返しになるが、著者には、「ジャンルとしてのSF」を問うと同時に、それに惹かれる「自分自身」の方も、しっかりと問うべき(見定めるべき)だと言っておきたい。なぜならそれこそが、ジャンルを問わない「批評」の要諦だからである。

初出:2021年9月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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