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木澤佐登志 『闇の精神史』 : 〈最後の選択〉の合理性

書評:木澤佐登志『闇の精神史』(ハヤカワ新書)

「闇の精神史」というのは、文字どおり「精神のあり方としての闇の思想、の歴史」ということだ。

軽く言えば「黒歴史」とも言えようが、「闇の精神史」が軽くはなく、実に「重い」のは、「黒歴史」の方は「みっともない過去を恥じる」という反省的な意識から主体的に語られるものなのに対し、「闇の精神史」で語られるものは、現在進行形の「自覚されない黒歴史」であるためだ。
「闇の精神」というのは、それを相対視する、本書著者など他者による「評価」であって、「闇の精神」に捉われている当人は、それを「闇」だとか「黒」だとは思っておらず、そうしたあり方こそが「光」であり「希望」をもたらすものだと、そう思っている。

では、どうして、「光の精神」や「希望の精神」と信じている、そのじつ客観的には「闇の精神」にしか見えないものを、彼らは本気で信じているのだろうか。
それは無論、この現代社会そのものに、それぞれの立場から「闇」や「黒」を感じているからだ。つまり「このままでいけない」という「危機意識」だの「絶望」を、ある意味では人並み以上に抱えているからこそ、「極端に走る」ことになってしまうし、そうした一種の「決断主義」が、おのずと弊害をもたらすことも怖れない。人類が救われるという「大義」のためならば、ある程度の「犠牲」は止むを得ない、ということになってしまい、その意味で、彼らは「闇堕ち」してしまうのである。

例えば、「闇の精神史」における、ひとつの古典的実例がナチスドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)だ。
なぜ、ナチスが、あのようなとんでもないことを考えだし実行したのかというと、それは彼らが本気で「ユダヤ人は、人類の寄生虫だ(人間と呼ぶに値しない存在だ)」と考えていたからである。ユダヤ人を「絶滅」させることで「人類を救う」ことになると、そう信じた。だから、ホロコーストは、ナチスの中では「最終的解決」と呼ばれていたのだ。

「これまでも、ユダヤ人のもたらす害悪を、なんとかしなければならないと考える人は多く、あれこれの手がうたれてはきた。しかし、それらはすべて、いずれにしろ不徹底なものだった。なぜなら、ユダヤ人たちを、かりそめにも同じ人間だと考えたからである。だから、彼らを殺すことは罪悪だと考えてしまうことを避けられず、その結果として、不徹底に終わったのである。だがそれは、我々に言わせれば、自分たちの覚悟のなさを誤魔化すためのお為ごかしでしかない。我々は、人類の未来のために、あえて手を汚し、汚名を着てでも、ここで最終解決を断行する。つまり、ユダヤ人を文字どおり絶滅させる。彼らは、人間ではないし、これは正義なのだ」と、そう考えたのだ。

つまり、ナチスがホロコーストを徹底して行ったのは、戦争に勝つためでもなければ、国内的な人気取りのためでもなかった。たしかに、ユダヤ人を憎み差別している人たちは多かったから、それで人気取りをするという側面はあったけれども、しかし、それがすなわち戦争の遂行において、プラスに働くというものでなかったのは明白だ。なのに、なぜ彼らはユダヤ人の虐殺にあれだけ固執し、その少なくない労力と資源を、そんな蛮行に費やしたのかと言えば、彼らが半ば以上本気で「ユダヤ人は人類の害悪であり、その絶滅は人類の大義である」と信じていたからである。

そして、こうした「誤った認識」は、ドイツが戦争に敗れることによって、ほとんど一掃された。
まして、ユダヤ人とほとんど接することのなかった私たち日本人には、西欧社会に巣食う「ユダヤ人差別」の根の深さなど想像もできないから、「ナチス」だけを「キチガイ」扱いにすることもできたのである。

だが、日本にだって「不合理な差別」というのは、山ほどある。その代表が「部落差別」問題であり、「職業差別」問題であろう。
なぜ「被差別部落」が生まれたのかについては諸説あるとしても、その大きな要素として「職業差別」が大きく絡んでいるというのは、私たちの直感としても、否定できないところだろう。すなわち、生肉業や皮革加工業あるいは葬儀業といった「死穢・血穢」に関わるものに対する「汚れ(穢れ)」の観念が、人々から忌避された結果、そうした職業に就く人たちもが「汚れている」として忌避されることになり、それが世襲の職業となって、そうして差別されるようになった人たちが、一般の居住区から差別的に排除された結果として住むようになった特定地域として「被差別部落」を生むことになってしまった、というような流れである。
しかし、当たり前に考えれば、生肉業や皮革加工業あるいは葬儀業などに代表される「汚れ仕事」というのは、人間が社会生活を営む上で、是非とも必要なものであり、そうした仕事をしてくれる人がいるから、私たちの生活は問題なく回っているのである。だからむしろ、そうした仕事を引き受けてくれている人には感謝して良いくらいなのだが、現実にはそうはならない。
多くの人は、単純に「汚いものは何であれ嫌いだし、それを扱う人間も汚れて汚いから嫌い」ということになってしまい、そこに「差別」が生じるのである。

つまり、西欧における「ユダヤ人差別」は、決して「特別なこと」ではない(なぜなら、ユダヤ人差別は、金融業を賎業とするキリスト教的価値観・倫理観に由来するものだからだ)。
したがって、同じような構造から生まれてくる「差別」が、ほぼ全世界に存在するのだということを、私たちはしっかりと自覚しておく必要がある。

しかし、だとすれば、「ユダヤ人差別」や「部落差別」といった類型の「差別」がなくなったとしても、それで人間の心から「差別」を生む心がなくなったのかと言えば、無論そんなことは「ありえない」
人間は「差別していないつもりで、差別する動物である」というくらいに考えておいて、間違いではない。「誰も差別していない人など、いない」と言っても良いのである。

したがって、「ナチスのユダヤ人虐殺」を、そのまんまのかたちで再演しようとする人は少なくても、違ったかたちで再演してしまいそうな人たちなら、いまでも決して珍しくはない。
「私たちと彼らは、同じ人間ではない」と考えてしまう人は、日々新たに生まれてくるのであり、それが「正しい区別だ」と考えて支持する人も、少なくはないのである(「在特会」なども、その一例だ)。

本書で紹介される「闇の精神」とは、かつてのそれとは、少しだけ違ったかたちで生まれてきた「差別精神」だと言えるだろう。
「ナチス」がそうであったように、彼らには彼らなりの「大義」があって、その部分だけを見れば、なるほど「正しいことを言っている」ように見えるのだけれど、そこには必ず「犠牲も止むを得ず」という「差別」の精神が含まれている。
そして「犠牲も止むを得ず」と彼らが考える時に、犠牲になるのは、無論、彼ら自身ではなく、「他の誰か」なのである。だからこそ「闇の精神」であり、それは「闇の精神史」に連なる「最新バージョン」だということになり、本書が紹介するのは、その「古くて新しい部分」なのだ。

 ○ ○ ○

本書で紹介されるのは、主に次の三つをめぐるものである。

第1章 ロシア宇宙主義
    一一居住区(コロニー)としての宇宙
第2章 アフロフーチャリズム
    一一故郷(ルーツ)としての宇宙
第3章 サイバースペース
    一一もうひとつのフロンティア

詳しく紹介していてはキリがないので、ごく簡単に済ませるが、「ロシア宇宙主義」とは、「地上」ではなく「宇宙」に人類の可能性を見出そうとする思想である。そして、これには長い歴史があって、その結果として「宇宙開発」があったのであって、その根源的思想は昨日今日のものではない、ということが本章では語られる。
しかし、そうした「宇宙主義」も、いったんは「宇宙開発」時代の熱狂を経ることで冷め、一時は落ち着きを見せていたのだが、近年ではまた、それが息を吹き返し始めている。地球環境の持続可能性が危ぶまれだしたからだ。貪欲な人類にとって、地球は狭くなってきたのである。
そんなわけで、第1章で紹介されるのは、主に伝統のあるロシア宇宙主義ではあるのだが、本書の帯にある、

『イーロン・マスクは、なぜ火星を目指すのか?』

という問いもまた、この「宇宙主義」と無関係でないというのも、明白であろう。当然のことながら、「宇宙主義」は、ロシアだけのものではないのである。
そして、ここで問題となるのは、この「宇宙主義」を信奉する人たちの「差別意識」である。

宇宙主義者たちは、端的に「目先の欲望にだけとらわれ、宇宙を目指す意欲もなく、地上にへばりついている(足手纏いな)人間」を嫌悪しているし、宇宙からの視点において、そうした人たちを「虫ケラ」同然に感じている(まるで、テレビアニメ『機動戦士ガンダム』に描かれた、ジオン公国の思想だ)。無論、そう公言するほど彼らは馬鹿ではないけれど、彼ら「エリート」の行動を見ていれば「大の虫を生かすためには、小の虫を殺すのも止むを得ない」と考えているのは明らかだ。だからこそ「交換可能な人間」は、さっさと「首を切ったり、整理したり」もできるのである。

本書でも、紹介されているように、イーロン・マスクという人は 「長期主義者」に分類されている。「長期主義」とは「長い展望に立って、今を行動する」ということだ。つまり、よく言えば、目先の利害に惑わされない人たちである。
しかし、言い換えるなら、彼らは、人類を絶滅させないためなら、人類の9割を犠牲にしてでも、1割だけでも生かさなければならないと、そう「合理的」に考える人たちだ。
SF作品などでは、うんざりするほどよくあるパターンだが、これは何もフィクションの中だけの話ではなく、当たり前にそう考えている人は少なくない。そうでなければ、そんなフィクションとて説得力を持たないのである。

(どちらか、ではないだろう。誰にとってか、である)

もちろん彼らは、そんな考えを露骨には語らないのだけれど、凡人たちとは違って、広く遠いヴィジョンを持っていると自負する彼らは、当然のことながら、それを持てない「地面にしがみつく虫ケラのような人たち」を、同じ人間だとは思っていない。
たしかに彼らは「人類の希望」を語るのだけれど、その裏には、その差別意識にともなう「当然の犠牲」が前提とされている。
だからそれらは、「ナチスの最終解決」と同様に、「闇の思想史」につながる「思想」のひとつだと言えるのである。

一方、第2章で扱われる「アフロフーチャリズム」は、第1章の「宇宙主義」と真逆に対応するもので、言うなれば「差別された者の未来主義的宇宙主義」である。
要は、アフリカから奴隷として強制的に連れ去られてきて、酷い差別を受けながら生きてきた「黒人」たちが、それゆえに奪われ喪失した「ルーツ」としての「故郷」を、もはやこの「地上」に見出すことができなくなった結果、「宇宙」と「未来」に「架空の故郷」を想定せずにはいられなくなってしまった。それが「黒人未来主義」である。

(本書でも取り上げられる、サン・ラー主演の映画)

「故郷」が奪われ、生の拠り所となる「過去」さえも奪われた結果、「宇宙」と「未来」にこそ「故郷」と「過去」を求めようとする(一種の「倒錯」な)のだが、当然それには無理がともない、当たり前の人間であることとの齟齬が表面化することも少なくないという、黒人たちの悲しい歴史が語られる。
つまり、言うなれば、この第2章は、「差別された者の、悲しい闇の思想史」のようなものとなっているのである。

第3章の「サイバースペース」は、サブタイトルに「もうひとつのフロンティア」とあるように、この地上に「未開拓の地」を失って行き詰まっている現在の状況を打開するものとして、「宇宙」ではなく「サイバースペース」にその可能性を求めようとするものである。
わかりやすい例で言えば、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』押井守監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(原作・士郎正宗)などで描かれたヴィジョンだ。

コンピュータ・ネットワークの中に仮構された「電脳空間」を、人類が生き残るための「フロンティア」だと考えようとする思想なのだが、しかし、当然のことながら、人間が「肉体を持ったまま」電脳空間に入ることはできない。人間存在をデータ化した上でないと、電脳空間の住人にはなれないのだ。
もちろん、現在のように、肉体は現実空間に置いたまま、視覚や触覚などの「情報」に特化したかたちで、「認識」だけが「電脳空間」に入るというだけの話なら簡単なのだが、それでは問題の「最終的解決」にはならない。なぜなら、この場合「現実空間」の環境が維持された上での「電脳空間」であって、それでは「現実空間」の限界の問題解決にはならないからである。

だから、人類が生き延びようとするなら、この肉体を脱ぎ捨てる覚悟が必要となるのだが、そんな覚悟は、決して容易なことではない。
自分の肉体を含めて、人間の肉体を「憎悪」している人ならばともかく、「やはりデータには還元できないものがある」と考えてしまう人たち、例えば、映画『マトリックス』(監督・ウォシャウスキー兄弟)に描かれた、「電脳仮想空間」に反逆を試みようとする人たちは、必ず存在するわけで、そうなると、「宇宙主義」が「地上にしがみつく人たち」を嫌悪して差別したように、「サイバー主義者」たちも「現実空間(肉体的実存)にしがみつく人たち」を嫌悪し差別することになる。
だからこれも、現在の「人間平等主義」の観点からすれば、「闇の思想史」に連なる「闇の思想」のひとつ、ということになってしまうのである。

しかし、「宇宙主義」にしろ「サイバー主義」にしろ、そうした「差別主義」を隠した「最終解決主義」たる思想が出てくるというのは、それだけ今の現実世界が行き詰まっている証拠だとも言えるだろう。要は、やむ得ず生まれてきた「危険思想」だということである。
ならば、それらの思想を「差別的」だということだけで批判しても、彼らを説得することは決してできないだろう。そのように批判されても、彼らは「ならば、人類が一蓮托生で絶滅しないでいいような、代案を出してくれ」と言うに決まっているからであり、その場合、そんなものを簡単に提出できるわけもなく、私たちは反論に窮することになるだろう。

では、本書著者はこうした「反問」に対して、どう答えるのだろうか。
本書での著者の回答は、端的に「解答」を指し示すものではなく、ただ、そうした「差別主義的決断主義」を採るのではなく、「もっと考えよう」というものだと言えるだろう。

だが、そうした意見には、「宇宙主義者」や「サイバー主義者」は、「さまざまな可能性を検討した上で、残された可能性を提示したのが、我々のそれなのだから、すでに考える余地など残ってはいない」という反論をすることになるだろう。
これに対して本書著者が、提示するのは「そんなことはない。今のところ、過去にうち捨てられたままになってはいるものの、再検討されて然るべき叡智はあるはずだ」という考え方である。だから、本書著者は、過去のいろんな思想を掘り返して、その「可能性」を探る営みをやめないのである。

だが、この回答では、「宇宙主義者」や「サイバー主義者」などの「危機論的急進主義者」たちを説得することは、決してできないだろう。だがまた、それは本書著者も承知しているはずだ。
では、なぜ本書著者は、その「闇の思想」を説得しきれない、自身の立場に固執するのか?

それは多分、著者の中に「他を犠牲にしてまで醜く生き残るよりは、人間らしく死んでいく方が美しい」という、根本的な思想があるからであろう。

これはこれで、ある意味では「闇の思想」とも呼べる「死の思想」なのだろうが、どちらの「闇の思想」を採るのかと迫られた時には、私は著者と同じ立場でありたいと思う。だからこそ、八方うまくいく解決策を示せなくても、私は著者の思想に、根本的なところで共感できるのである。

(映画『コルチャック先生』より)


(2023年12月1日)

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