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岡本裕一朗 『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代の哲学入門』 : 〈人間〉は度し難いが、 我々は人間である。

書評:岡本裕一朗『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代の哲学入門』(NHK出版新書)

先日、SF評論家である海老原豊の『ポストヒューマン宣言 SFの中の新しい人間』を読んだのだが、海老原によると「ポストヒューマン」(あるいは、ポスト・ヒューマニズム)という言葉は、最近の「トレンド」なのだそうだ。
もちろん、街のそちこちで耳にするような一般的な流行語ではなく、思想、哲学、文学、批評といった人文学においてのトレンドということである。

しかし、私個人は、この「ポスト・ヒューマニズム」や、それに依拠した「ポストヒューマン」という概念には、ほとんど惹かれなかった。なぜなのかと考えてみると、私の場合、「人間はどんなに変化しようと、基本的には人間だ」という感覚があったからだ。

つまり、海老原も前掲書で書いていたとおり、この先、人間が遺伝子操作やサイボーグ化などで、どんなに非人間的な人間になろうと、それはやはり「人間」だろうと思うからだ。
と言うのも、例えば「脳だけ残して、あとはぜんぶ機械」というサイボーグと「入れ歯をしている老人」との差は、所詮は「程度もの」でしかなく、「入れ歯老人」の先に「サイボーグ009」や「バイオニックジェニー」あるいは「草薙素子」がいると、そう思うからだ。

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そうすると、「ポストヒューマン」という存在は想定できなくなるから、「ポスト・ヒューマニズム」というのも、ピンと来ない。
結局、人間が存在するかぎり、どんなに変形したところで、それは「変形した人間」であり、人間は絶滅するまで人間である。そして「人間が絶滅した後のことを、考えても仕方がない」と思うので、「ポスト・ヒューマニズム」の思想とか哲学というのは、ピンと来なかったのだ。

ところが、これは私の誤解であることを、本書を読んで理解した。
思想や哲学の世界で問題にされる「ヒューマン=人間」とは、「生物学的な人間」ではなく、「神になり代わって、世界を意味づける主体として、近代に成立した〈人間〉という概念」のことだったのである。

つまり、各種テクノロジーの発展によって、「人間」は「主体」ではなく、技術的な「客体」の位置に零落しかけている、ということなのだ。
「人間」が基準ではなく、技術的な価値観が「人間」を「より良く」改変していく。これは、言い換えれば「(従来の)人間は、すでに〈良きもの〉としての基準ではない」ということだ。「人間」は、「AI」や「遺伝子操作」などのテクノロジーが可能にする「人間以上の価値観」によって改良される「不完全な(乗り越えられるべき)客体」にすぎなくなった。
そして、このように、「人間」が「世界の基準」ではなくなった時代が「ポストヒューマンの時代」であり、その意味を考えるのが「ポスト・ヒューマニズム」ということになるのである。

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本書では、現代思想の最先端が、こうした「ポストヒューマンの時代」の到来と対決しており、それが「思弁的実在論、加速主義、新実在論」などである、としている。
言い換えれば、現代思想の最先端がどういうものかを理解するには、「ポスト・ヒューマニズム」という概念を補助線にすれば「見取り図」が描きやすいということで、本書は『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代の哲学入門』ということになったのだ。

ちなみに、「思弁的実在論」を代表する哲学者・思想家は、カンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマン。
「加速主義」は、(始祖としての、カール・マルクス、あるいはドゥルーズ=ガタリは別にして、現代の加速主義は)ニック・ランドを起点とし、資本主義の先に何を展望するかの違いで政治的に左右に分かれるはするものの、ロビン・マッケイ、マーク・フィッシャー、ニック・スルニチェク、アレックス・ウィリアムズ、ラボリア・クーボニクス、などがいる。ちなみに「思弁的実在論」は、ニック・ランドの影響を受けているため、「人間」との関係(相関)で世界を捉える「相関主義」を批判する。

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また、マルクス・ガブリエルの「新実在論」は、従来は「思弁的実在論」の発展形として、その文脈に位置づけられてきたが、本書著者の内容的位置づけでは、ガブリエルの「新実在論」は、従来の「人間主義」をその「相関主義」において批判する思想としての「思弁的実在論」ではないとし、さらに「人間」から出て行こうとする(ポストヒューマンの時代を目指す)「加速主義」にも反対する、新しい「人間主義」だ、と位置づけなおしている。

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まあ、このように要約しても、本書を読んでいない多くの人は、何のことだかわからないと思うが、本書を読めば、スッキリと頭に入ってくるはずだ。その意味で本書は「現代思想の見取り図」として、たいへん良く出来ていて面白い。

しかし、本書を読んでいただくことを前提として、さらに大胆に要約してしまえば、「思弁的実在論」とは「もう、人間中心主義はやめようよ」という「人間相対主義」の考え方であり、「加速主義」は「人間主義を捨てて、新しい世界を切り開くには、資本主義を加速させて、この人間中心社会を破壊するしかない」という「過激派」的な考え方であり、「新実在論」は「いやいや、人間が生きているかぎり、どんな考えも人間のものでしかなく、人間は人間の外には出られないのだから、もう一度、人間と世界がより良き関係(相関)を取り結ぶための倫理を構築しなければならないし、それしかないのだ」という「理想主義的リアリズム」だと言えるだろう。

たぶん「言えるだろう」とは思うけれど、多分に間違っている可能性も高いので、興味のある方は、是非とも本書を読んでいただきたい。

(2021年10月26日)

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