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江永泉、 木澤佐登志、 ひでシス、 役所暁 『闇の自己啓発』 : 我 〈闇の時代の騎士〉たらんとす

書評:江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』(早川書房)

とても面白く読ませてもらった。オススメである。
本書についての総合的な評価は、先行「蛸」氏のレビューが、過不足なく当を得ているので、そちらを是非ともお読みいただきたい。
一一したがって、私のレビューは、個人的な観点から、本書の「存在価値」について考えてみたいと思う。

当読書会の4人のメンバーに共通するのは「生きづらさ」を感じている、ということであろう。「蛸」氏も『4人の参加者の議論の根底には、「このどん詰まりの社会から如何にしてEXITするか」という問題意識があるように思える。』と指摘しているとおりである。
彼ら4人が感じている「生きづらさ」は、単なる「個人的」なものではなく、「社会」的なものであり、「時代」的なものだということだ。

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ところが、この4人のメンバーの「親世代」に当たる私には、そうした「生きづらさ」が無い。「生きづらさ」を感じていないのだ。
もちろん、この同時代に生きており『このどん詰まりの社会』に生きているのだが、だからと言って、個人的には「生きづらい」とは感じていない。むしろ、生きることは基本的に「楽しい」ので、死にたいなどとは思わない。「この社会」が今のままで良いとは思わないけれど、かと言って「EXIT」を求めるというのは、私には「ちょっと違う」と感じられる。

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「EXIT」というのは、「この世界」を、このまま置き去りにして、個々に「脱出する」という感じであり、ありていに言えば「逃避」である。当然のことながら、全員が、あるいは大半の人が「EXIT」できるわけではなく、あくまでも才能ある、選ばれた個々が「EXIT」できるだけだ。だから、私としては、それでは物足りない。残されたものの方が気になるのだ。

無論、だからと言って、4人を責めたいのではない。なぜなら、彼らは、他人のことをかまっている余裕の無いほどに、追い詰められているからだ。
その点、私の場合は「生きづらさ」を感じていないと自己表明できるほどの余裕があるから、他人のことまでかまえるのであろう。要は、彼らと私では「装備」が違うのだから、同じように戦えないのは仕方がないことだし、「装備」に恵まれている私が、彼らを責めるのだとしたら、それは烏滸がましいと非難されても仕方がないのである。

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私は「弱者」の味方でありたいと思っている。「弱者」に寄り添いたいと考える。一一こうした物言いは、当然のことながら「偉そうに」「何様」「上から目線」だと批判されやすいだろう。私は、それを承知の上で、あえてこういう書き方をしている。

私は、これまで「弱者」の立場にありたいと願ってきた。これもあえて言うが、「弱者」でしかあり得なかった、とは言わない。「弱者」であることを自ら選んだのだ。だからこそ、「学歴」も「社会的地位」も「資産」もない「無名者」なのである。
ただし、自分で自分の生活すら支えられずに、他者の助けを必要とするような弱者であっては、「弱者の味方」なのではなく、「弱者」そのものでしかない。「弱者」を助けることなど、できる道理がない。だからこそ、その意味で私は「強者」であろうと努力してきたし、その結果かどうかはわからないが、ひとまず人の助けを必要としないで済み、「生きづらさ」を感じないで済む立場に立ち得ている。

私のような、「学歴」も「社会的地位」も「資産」もない「無名者」が、「強者」だなどと名乗れば、ひと昔前なら「負け犬の遠吠え」だと嘲笑されたことであろう。今だって「社会的な成功者」から見れば、私など「弱者」の一人でしかないはずだが、それでも比較的「意気軒昂」に生きていられる私は、今の多くの若者たちからすれば「恵まれた強者」ということになるはずなのだ。

だから、私は、自身を「弱者」だとは言わない。弱者に対して「私も、あなたと同じ弱者ですよ」などと耳障りの良い言い方で、取り入ろうとは思わないのだ。それで「弱者」から「あいつは所詮、恵まれた人間であり、その余裕から、弱者に上から憐憫を視線を送っているに過ぎない」と言われても「それはそのとおりだ」と認めるだろう。前にも書いたとおり、自分が生きるのに精一杯であれば、他者に手を差し伸べることなどできないし、そんなことができるのは「超人的な人」だけであり、私はそんな「超人」や「聖人」などではないからだ。

したがって、私と本書著者の4人とは、立場は違う。彼らは「弱者」として、この「弱者にとっての闇の時代」の読者に語りかけているのであり、私は「強者」として「闇の時代」に抵抗している。無論、私にできることなど多寡が知れているのだけれども、かと言って、私は「実効性」を高めるために「社会的強者」になりたいとは思わない。「権力を得てから、その権力を善用したい」などという、ナイーブなことは考えない。そういうナイーブさを持たない「したたかさ」があったからこそ、今日まで「権力のある強者」になろうとして「闇落ち」もしなければ、「弱者」の側に立って潰されもしなかったのだ、と思っている。

だから、究極的には、私は「今ここの世界」と心中するつもりである。個人的に「EXIT」が見つかったとしても、そこから個人的に出て行くつもりがないのであれば、勝負は「この世界」でつけるしかないし、それで負ければ、それまでのことと、そう考えるしかないからだ。

つまり、結局のところ私は「自分の美意識」に生きているのだろう。私の「弱者の側に立つ」というのは、「美意識」的な選択であり、私の基本にあるのは「ディレッタンティズム(趣味人趣味)」だと言ってもいいだろう。
そうした意味では、「この世界」の中で「力ある立場に立って、良い目を見よう」としているような、セコい「権力志向的な強者」よりも、よほど「贅沢」に生きている人間だと自負し、自慢しても良いのではないだろうか。

そんなわけで、私と本書著者の4人の立場は違う。私は、彼ら「弱者」を救う立場の人間であり、彼らが「この世界」から脱出せずともよい世界を作るための努力をしなければならない立場の人間である。
しかしながら、それが失敗した時は「個々に、うまく逃げてください」と言うしかないと考えているので、彼らの「EXIT」志向を、いちがいに否定したりはしないのだ。

「この世界」を覆う「生きづらさ」。それが、彼らがしばしば言及する「加速主義」「思弁的実在論」「新反動主義」、あるいは、ニック・ランドマーク・フィッシャーといった人たちと彼らをつなぐ、時代の紐帯なのであろう。
「今ここ=この世界」がたまらなく「生きづらい」ものだからこそ「ここではないどこか」への「EXIT」を求めたり、いっそ「この世界」(例えば、マーク・フィッシャーなら「資本主義リアリズム」の世界)を(極限まで加速するなどして)「ぶっ潰したい」とまで考えるのだろう。
その「絶望的な破壊欲動」もまた、この世界の「闇」をさらに濃くしているのであろう。

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そうした「闇の世界」の中で、それでも「破壊欲動」に身を任さず、ひとまず自分の「生きる道」を模索して実践する彼ら4人の姿は、じつに「けなげ」である。
しばしば、いささか「優等生的に過ぎる前向きさ」は「世間むけの方便」なのではないかと疑われないでもないけれど、ともあれ「闇の中で、闇の技法を援用しながら、闇からの脱出を試みる」彼らの努力には期待したいと思う。

正直なところ「こんなに頭の良い若者たちでも、やっぱりそうなのか」という、凡俗ゆえの思いもないではないが、やはり、頭が良いだけではどうにもならないのが、この世界なのだろう。
つまり「頭が良い」だけでは、この世界の「闇」と戦うことはできない。しかし「光を求める知性」は「生きる力」になる、とは言えるのではないだろうか。

「知は光」なのかもしれない。それは単に「迷妄の闇」を照らして「真相」を明るみに出すだけではなく、「迷妄の闇」を照らして、私たちの「進むべき隘路」の存在を照らしてくれる、そんな光であり力なのではないだろうか。

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初出:2021年2月4日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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