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マルクス・ガブリエル 『新実存主義』 : 〈心〉の無かりせば、 あるいは「気難しい天使のテーゼ」

書評:マルクス・ガブリエル『新実存主義』(岩波新書)

気になっていたマルクス・ガブリエルを、本書で初めて読んだ。
ガブリエルの問題提起的見解に対し、4人の論者がそれぞれの距離感を持って応答し、それにガブリエルが応える、という形式の本である。こういう形式ならば、「現代思想の最先端」とは縁も所縁もない私でも、雰囲気くらいは掴めるのではないかと思って、手に取った。

4人目のアンドレーア・ケルン以外は、基本的にガブリエルの意見を肯定的に捉えており、その上での応答ではあったが、それでもそれぞれのガブリエル理解に立脚した「疑問の提示」や「弱点と思える部分の指摘」などを行っており、難しい話を一方的語られて、ただ黙ってご意見を拝聴するというかたちにならずに済んだのは、とても助かった。

さて、「解説」などによると、本書でガブリエルが語りたかったことの中心は、「心を脳という器官の働きに還元する、還元論的自然主義」批判にあったようだ。
「脳を物理的に探求していけば、いずれは、心と呼ばれる自然現象を解き明かすことが出来るはずだ」という考え方に対して、「心と呼ばれる現象は、原理的に言って、どこまで行ってもそうした自然主義的イデオロギーの範疇においては、解き明かすことのできないものだ」という主張らしい。

たしかに、「心」を含めたすべての物事を、「自然」として認識対象化されているものに還元するのは無理そうだし、まして、認識主体として感じられている「心」が、「心」自身を客観的に認識することは、「自己言及のパラドックス」を思わせて、どうにも不可能なように思える。
だから私も、橘玲が「哲学のような古い道具は、いまやまったく役に立たない。それにかかずらわるのは、限られた人生の貴重な時間を、浪費することでしかない」とか「文系諸学の擁護など、既得権益受益者の自己防衛でしかなく、学ばされる側にはデメリットしかない」といった感じで、大胆に「哲学」などの人文諸学を切り捨てて見せる『「読まなくてもいい本」の読書案内』のレビューを書いた際には、内容的にはとても興味深いものだった評価したものの、レビュータイトルを「大見得を切りたがる合理性」として、橘の粗っぽさや、ある種の「傲慢さ」を批判したりもした。

しかしまた私は、基本的には「唯物論者」であり、ガブリエルが目の敵にしているダニエル・デネットや、リチャード・ドーキンスなどに近い立場の「新無神論者」でもある。
つまり、神仏のように、見える人には見えるし、実感できる人には実感できるとしても、誰にでも客観的に確認できないもの(物証提示されないもの)は、ある種の「フィクション」である蓋然性が大であり、「自然的存在」ではない蓋然性が大であるから、ひとまず信じがたい、と考えるタイプのリアリストだ。
だから、「心」というのも、あるように感じられるけれども、それは、ある種の「錯覚的フィクション」であり「生理学的現象によって生起された、道具的虚像」ではないかと考えている(つまり、自己の主観を懐疑している)。
もちろんこれは、私にとっての「蓋然性の高い仮説」であって、それが「真相」だなどとは、毛ほども思ってはいない。

で、そんな私からすると、ガブリエルの「心(精神)」理解は、なるほど人間の実感に即したものとして、一定の説得力は持つものの、やはりある種のレトリックによって支えられている虚像なのではないか、という疑念を払拭できない。
私は、趣味で「キリスト教」を研究している人間なのだが、キリスト教神学とは、「神」の実在を擁護し保証する「護教論」として、時代の知見に応じて少しずつ姿を変えながらも、似たような議論をくり返してきた、という印象があるので、ガブリエルの議論(心の擁護論)についても、そう簡単には信用できないのだ。

そもそも「心が脳の働きに還元できる」というのは「仮説」であって、結論ではない。「心」なんて捉えどころのないものを、頭の中でいくら捏ねくり回してみても、その実態には少しも近づけそうにはないからこそ、完全な真相究明は不可能だとしても、これまでどおり、科学的な分析によって漸進的に解明を進めていけば、その先に、思いもよらなかった地平が開けるという可能性にだって期待していいんじゃないかというのが、「やれるところまでやってみよう」という「自然主義的還元論」の考えなのではないだろうか。もちろん、そうではなく、「必ずぜんぶ解明できる」と確信しているような「妄信者」だっているとしても、である。

つまり、どっちにしろ「心」だの「精神」だのといったものは、今のところは捉えどころのないものとして、ほとんど何もわかっていないのだから、「心を脳に還元できるなんて、思い上がりもたいがいにしろよ」なんて怒らなくても、彼らには彼らのやり方で、好きに探求を続けていただいたら良いのではないだろうか。

たしかに「妄信者」というのは、しばしば過ちを起こすし、その自信過剰の故に「ウザい」ということはある。けれども、そうした妄信者特有の猪突猛進的な「情熱」があってこそ為し得る、神がかり的仕事の成果というのも確かにあるのだから、あまり細かい精神論(?)にかかずらわる必要は無いのではないだろうか。
そしてその上で、彼らの仕事から、成果として何かしらの新しい知見が出てくれば、それを利用して、哲学的にあれこれ緻密な思考をほどこせばいい。それなら、ある意味で「win-win」の関係ってことにもならないだろうか。

ともあれ、ガブリエルだって「自然科学」を否定しているわけではないのだから、そうしたものに従事する人の中に「自信過剰なウザい奴」がいたとしても、そこは大目に見ても良いんじゃないかと、私はリアリスト的に考えるので、ガブリエルの「反・流行」的な問題提起に存在価値は認めるとしても、それが特別に新しいものだとまでは思えない。

本書の帯(表側)には、

『「心=脳」の思想をゆさぶり 精神の自由をとりもどすために 気鋭の哲学者が提案する 21世紀のための存在テーゼ』

とあり、これが本書を正しく紹介するものかどうかは、あまりよくわからないのだが、仮に本書がそういうものであり、大雑把に言って、ガブリエルの意図がこのあたりにあるのだとすれば、私としては「精神の自由をとりもどすため」というのは、いささか大袈裟で、かなりあやしいスタンスに思える。

と言うのも、かつて(そして今もなお)キリスト教神学は「神がいなければ、人間倫理の根底は無くなってしまう(底が抜けてしまう)」と、ことさらに危機感を煽ってみせたのだが、ガブリエルの主張もこれに似て、彼の「心(精神)が、自然には還元しきれない別立ての存在でなければ、人間の自由に実態はないということを認めなければならなくなる」というような考え方は、「自然主義的還元論」の「誇大広告」を真に受けすぎているだけなのではないか、と思えるのである。

つまり、「心」が完全に「脳」に(理論的に)還元されたとしても、やはり人には自分の「心」が感じられ、やはりそれは、どうしようもなく「自由」な、掴みきれないものとして感じられるのではないかと、私には楽観的に予想される。
だから、ガブリエルとは違って私の場合は、自然主義還元論者たちにも「やれるとこまでやってみせてよ」とエールをおくってもいいとも思える。言い変えれば、いろんな馬を競わせた方が、面白い結果が得られそうだと、そう思うのだ。
一一まあ、これは、哲学ではないんだけれども。

初出:2020年2月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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