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仲正昌樹 『現代哲学の最前線』 : 〈初学者〉にも読みとれること

書評:仲正昌樹『現代哲学の最前線』(NHK出版新書)

本書は、現代哲学を広く見渡した上で、その流れの中心にあって、いまも最前線にあるテーマを紹介したもの、だと言えるだろう。したがって、個々の議論を正確に追っていける人はそう多くはないだろうし、ましてや哲学の〈初学者〉ですらない私には、そんなことは出来るわけもないので、ここでは哲学にも興味を持つ〈門外漢〉が、本書をどのように読んだかを示すことで、多くの一般読者の用に供したい。

本書の具体的な内容については、「yasuji」「mountainside」両氏による先行レビューを参照していただくとして、著者が描き出した現代哲学の中心にあるテーマは、人間の「心」や「思考」といったものは、はたして「科学的」に正確に記述することが可能なのか、という根本問題なのではないか。
哲学的営為においていろんな立場の哲学者が、それぞれの観点から「真理」を追い求めていく中で、避けて通ることのできないのが、この問題なのである。

「人間の心や心理は、科学的に記述可能なのか」とは「哲学は、厳密な学であり得るのか」ということでもあり、言い変えれば「哲学とは、文学的な世界把握を超え出られるのか否か」という問いでもあろう。
哲学の伝統に反して、「科学的」に正確な記述が可能だと考え(それを目指すべきだと考え)て、そちらに突き進もうとする人たちがいる一方、そうしたやり方の無理や弊害に注目して、そこにそうしたやり方の根本的な思い違いを見る人たちもいる。そうした人たちは、そもそも「科学的」であるということ自体が、ある種の限界を孕んでいるのであり、そうした「人間的限界」の真相をも突き詰めていくのが哲学の使命なのだから、哲学が「科学的」に正確であり厳密であるべきという発想自体に、根本的な誤りがあるのではないか、といった具合に疑っていく。

つまり、哲学の難問とは「観察し考察する主体そのものが、観察し考察すべき対象に他ならない」という「自己言及」の困難さにつきまとわれる、ということだ。
人間は「人間とは何か(を考える人間)」「心とは、思考とは何か(を考える心、思考)」といった具合に、観察対象の「外部」に出ることの不可能性につきまとわれるのだが、これは原理的な「客観視」の不可能性を意味しているのではないか。

しかし、それでも人間は、思考を止めることは出来ない。だから、どんな問題に取り組むにしろ、その根本部分にある、この問題と、いつでも何度でも対峙しないではいられないのであろう。

例えば、「哲学を学ぶ人」「哲学に興味がある人」は、「哲学」的な知見を得ることによって、いったい何を求めているのか、という問いは、意外になされていないように、私は思う。
それを「真理探究の欲望」だと言ってしまうことは簡単だが、それはしばしば自己欺瞞の「タテマエ」でしかなく、人は「哲学」というものの持つ「権威」を、「神」の代わりに崇めることで、しばしば安心立命(承認欲求の充足)を求めているのではないだろうか。

「哲学」とは、むろん単純な「人生論」などではないのだけれども、それとしばしば混同され誤解されてきたのは、「哲学」を求める人の少なからぬ部分が、「自分」についてだけは、決してつきつめて考えようとはしなかったからこそ、物事をつきつめることと自分をつきつめて考えることの関連性が無視できなかったのではないか。

どんな物事を対象に「哲学する」にせよ、その主体についての厳密な検証は避けて通れない。はたして人間は、「哲学する私」に対して、冷酷なまでに「科学的」に、厳格であり得るだろうか。

哲学者たちが「科学的に厳密」であることにこだわり、その可能性と不可能性の中で真剣に議論を戦わせつづけるのは、そうした「自己批評」を失った時、哲学は「単なる文学」に堕してしまうと怖れるからではないだろうか。

しかし、哲学に「興味を持つ」私たちは、はたしてそこまで真剣に考えているだろうか。
私たちは、私たち自身の「最前線」が見えているだろうか。
単に「哲学の後方」のそのまた後方で、呑気に、他人事のように、戦況報告を楽しみながら、自身も「戦士」であると思い違いしているだけなのではないだろうか。

本書には〈初学者〉にも学ぶべきものがあると私の感じた所以は、こうした点にあった。

初出:2020年8月8日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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