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簡単に言うと 〈加速主義〉とは、こういうこと。

年間読書人

書評:『現代思想 2019年6月号 特集=加速主義』(青土社)

ちょっと長めの前置きをしてから、「加速主義」について、とてもわかりやすく説明しよう。本格的に哲学をやるつもりのない人には、これくらいの説明でいいのではないか、という程度の説明になると思う。

まず最初に断っておくと、私は哲学・思想系の人間ではなく、文学・社会系の人間である。したがって、現代思想の最新の動向になど、さほど興味はない。ある種の新傾向の本がたくさん出ていたら「なんだこれは?」と手に取ってみる程度だ。
したがって、「加速主義」についても、かなり遠回りをしたのちに、興味を持つことになった。

きっかけは、昨(2020)年の「東京都知事選」だった。
私は、大雑把に言えば「左翼リベラル」に分類される人間なので、小池百合子の胡散くささが大嫌いだった。当然「維新の会」の候補などは更に嫌いだったし、「在特会」の桜井誠「N党」の立花孝志など論外だった。
で、残るは、左派リベラルの宇都宮健児と、山本太郎の二人ということになる。

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この当時、私は、山本太郎についてはよく知らず「言っていること自体は支持できるが、いまいち胡散くさい」という印象を持っていた。つまり、人としても、(弁護士時代の)実績としても、宇都宮さんがいちばん安心して支持できた。「さん」づけしたくなる「真面目なおじいちゃん」だったわけである。

しかし、小池の圧倒的優勢が伝えられる一方、宇都宮さんは野党共闘に推されてはいたものの、私は東京都民の無党派層が、「真面目で誠実な正論家」ではあるものの、まったく「華がない」宇都宮さんを支持するとは思えず、申し訳ないけど「宇都宮さんでは、小池には勝てない」と思った。ひとまず、小池に勝つには、その前の参院選で「れいわ新選組」旋風を起こした「山本太郎しかいない」と考えたのだ。

つまり、この時はまだ「加速主義」という言葉を知らなかったのだが、宇都宮さんでは「間に合わない(遅れをとる)」から、少々不安要素はあっても、ここは山本太郎という「劇薬(強心剤=加速装置)」に賭けるしかないだろうと、そう「加速主義」的な戦略を考えていたのである。

そこで、山本太郎のことをすこし勉強しようと、当時刊行されていた『ele-king臨時増刊号 山本太郎から見える日本』誌(2020年4月刊)を購読したのだが、そこに掲載されていた宮台真司の文章に共感し、そこで初めて「加速主義」という言葉に接したのである(同誌レビュー「希望としての〈山本太郎〉」を、当時書いているので、よければご参照を)。

じつはそれ以前に、木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想たち』(2019年5月刊)を読んでおり、ニック・ランドの「暗黒啓蒙」のことも、雰囲気くらいは知っていた。
しかし、私は「リベラル左翼」であるばかりか、積極的な宗教批判者としての「無神論者」であり、ニック・ランドが「カテドラル」の代表的知識人として目の敵にするリチャード・ドーキンス(『利己的な遺伝子』『神は妄想である 宗教との決別』)のファンだったから、ニック・ランドのオタクで独善的な思想には、まったく感心しなかった。
で、そうした批判的興味から、都知事選の直前に邦訳版の刊行されたニック・ランドの『暗黒の啓蒙書』(2020年5月刊)も読み、しっかり酷評のレビューも書いておいた(「ネトウヨにはちと難しい〈厨二病〉風デマゴギー」)。

結局、都知事選は、宇都宮さんと山本太郎の票を合わせても、小池百合子にはぜんぜん及ばないという残念な結果となってしまったが、まあ、大阪在住の私は、東京のことよりも、そのあとの昨年11月1日に投票日の決まった「大阪都構想に関する、2回目の住民投票」の方に、すぐに目が向いてしまった。

と同時に、「加速主義」やニック・ランドとは無関係に、書店で目立っていた「思弁的実在論」とはなんぞやと興味を持ち、次々と新刊が出ていたマルクス・ガブリエルの『新実存主義』(2020年5月刊)を読んでみたが、いまいちピンと来ず、岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』(2019年10月)を読んで、これも雰囲気だけは掴んだ(レビュー「およそ〈メランコリー〉に無縁な私でも」)。
そして、このあたりで、そろそろ「加速主義」というものを、勉強しといたほうがいいなと思って、『現代思想』誌のバックナンバーとして、本号『特集=加速主義』を入手したものの、他のものにいろいろ寄り道して放ったらかしにしているうちに、先日、前述の木澤佐登志が参加した座談会本『闇の自己啓発』(江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁・2021年1月刊)が刊行されたのを読み、それに触発されて、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』(2018年2月刊)を読んでいたく共感し、積ん読の山に埋もれさせていた本誌を、やっと今回読めたという次第である。

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で、こんな私からすると、「加速主義」というのは、簡単に言えば「危機感」「焦り」「賭け」の産物だ、ということになる。
特に、「現代思想」の場で「加速主義」が問題になるのは、「資本主義」をめぐってであり、要は、いろいろと問題があり、負の側面が大きくなってきた「資本主義」をどうするか、どうにかできるのか、という問題だ。

「資本主義」に問題が多いからといって、ではそれに代わるものが、果たしてあるのか?
「共産主義」は、大失敗して、今さら使えそうにないだし、「社会主義」は「資本主義」を補完して延命させる要素にしかなっておらず、「資本主義」を乗り越える「出口」にはなりそうにもない。
「革命」や「改革」ができないとしたら、では私たちは、選択肢がないので、仕方なくこのまま「資本主義」と心中するしかないのか。

「いやいや、そうでもないよ」というのが「加速主義」だ。
「加速主義」の思想とは、要は「資本主義」を「一部修正」しようとか、いっそ「まったく別のものと取り替えよう」とかしても、それは無理。それほど「資本主義」というのは、排他的に強固強靭なものだから、できるとしたら、逆に「資本主義」を「後押し」して「資本主義」の徹底の果てに、突破的に「新しい世界」を開こう、とまあ、そういう「方法論」なのである。

言い換えれば、「資本主義」という圧倒的な強者と、真正面から対決するのは論外として、横から「助言」することで修正を求めたり、ましてや後ろから引っ張ったりしても無駄なので、それなら「あなたを全面的に支持するよ」と「後ろから、どんどん押して」、資本主義の歩みを「加速」することで、「資本主義」をずっこけさせ、自己崩壊させたら、その先に(具体的な見通しはないが)「新たな道(出口)」が開けるかもしれない、というのがニック・ランドのような二ヒルに楽観的な「右派加速主義」の立場。
一方、「資本主義」を加速させ発展させた果てに「新しい民主社会」の可能性を見ようとするのが「左派加速主義」だと、おおむねこのように言えるだろう。

で、私としては「右派加速主義」は、実際のところ「新たな道(出口)」なんか信じておらず、どちらかと言えば、ニヒルな自殺願望(死ねばもろとも)のような無責任な感じがあって、とうてい支持できないし、一方「左派加速主義」の方は「楽観的にすぎるだろう」と感じる。「そんなものに、多くの人々はついていけないよ」と思い、彼らにもエリート主義的な極端さと無責任さの臭いを嗅いでしまうのである。

もちろん、うつ病を患っていたとは言え、真面目なフィッシャーが絶望して自殺しなければならなかったような、この度し難い「資本主義」社会において、真面目に世の中のことを考える人が「危機感」や「焦り」を人一倍感じ、そのために「賭け」に走ったり「ニヒル」になったりするというのは、人間としてよくわかるところだ。
だが、私としては、いかに困難な状況であろうと、個人的には「山よりデカい鬼は出ん」ということで、「絶望せず」「焦ってせっかちになりすぎず」「ニヒルに身を委ねず」、しぶとく(粘着的に)抵抗できないものかと思うのだ。

無論これが、最も楽観的な態度なのは百も承知しているし、「おまえは頭が悪いから、そんな呑気な考えでいられるのだ」と、賢い人たちから言われるであろうことも重々承知している。
それでも、現実との闘いが、そこまで絶望的な「負け戦」だというのであれば、せめて「敵にせいぜい嫌な思いをさせてから死んでやる」というのが、私の考え方なのだ。
要は、私は「嫌な性格」だということなのだが、泣き言を言いながら自爆するような負け方よりはまだマシだし、気分のいい負け方なのではないかと、そう考えるのである。

だから「加速主義」という方法論についても、問題に応じて是々非々で使おう、というくらいにしか考えてない。
「引いてもダメなら押してみな」「どうせ押すなら、徹底的押しておいて、急に引いてみてもいいんじゃない」といった柔軟な戦術の一要素くらいに考えているのだ。
そんなわけで、突き詰めたところでしか話をしない「現代思想」には、あんまり関係ないのである。

初出:2021年3月5日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月12日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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