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真鍋厚『山本太郎とN国党 ~SNSが変える民主主義~』 : 〈信仰〉批判者は、憎悪の対象とされる。

書評:真鍋厚『山本太郎とN国党 ~SNSが変える民主主義~』(光文社新書)

本書は、本書を手に取る読者の多くに「不愉快」を感じさせるであろう。なぜならば、本書は「山本太郎」や「N国党(NHKから国民を守る党)」に関心の強い「政治的な市民」を、「批評」するものだからだ。

「政治的な市民」というのは、まず間違いなく「正義」を担いで回る人たちであって、「正義」の意味など問うたことはない人たちである。
彼らの知識や思考は、立体性を欠いて「二次元的」である。あくまでも、自身の属する「平面」においてしか世界を見ることができず、自身を俯瞰して見る「思考における高さ」も持たない。その意味で、彼らの担ぐ「正義」は、「信仰」であり「神」と似ている。「わが神」は絶対的に正しいのであって、「わが神」の存在を相対化する「無神論者」は、絶対に許せない。「無神論者」は、「他の神」を奉ずる「異教徒」よりも、はるかに悪質であり、憎むべき敵なのだ。

本書の著者は、「山本太郎」や「N国党」の支持者の多くが、「正義=教義」の中身は違っても、その「神依存の信仰」においては、本質的に似ていると指摘する。だから、憎まれる。

「神」信仰を持つ異教徒どうしが「どちらの神が、真の神か」という議論をする場合、それは「真理=正義」を闡明するための、彼らの「通常業務」であり「使命」の一部ですらあるのだが、「どっちが正しいとか言う以前に、神は存在しませんから、その議論自体に意味はない」という無神論者の「メタ・レベルの批評」は、我慢ならない「上から目線の物言い」と理解され、おのずと憎悪される。
「神はいないと言う、そのお前の神は何なのだ。隠さずにそれを言え。それならば、議論ができる」と言ってみるけれど、無神論者は「そんな議論は自己満足でしかなく、〈神〉は君たちのマスターベーションのネタでしかないんだよ。私には、みんなで輪になってオナニーをするような、子供じみた趣味はない」などと言えば、当然憎まれる。

私自身は、「山本太郎」の支持者だし、「反安倍(反菅)」「反維新の会」であり「嫌ネトウヨ」であるけれど、それだけの「政治的人間」ではない。
私は「趣味人」だし「快楽主義者」だし、その意味で、時に「悪」ですらある、すなわち「人間」である。だからこそ、自分に「正義=神」のレッテルを貼るなどという、みっともなく、いかにも頭の悪いことはしない。

私は、「正義」ではないけれど、「私」に自信を持っているから、私を相対化し批評するものがあれば、それがどんなものでも、興味深く鑑賞させてもらう。
だが、紋切り型で一面的で薄っぺらな、「正義」を担いで回るような人たちとのおつきあいは、御免こうむっている。趣味の「ネトウヨいじめ」だって、それは「正義」ではなくて、「バカは嫌いだ」ということでしかなく、政治党派の問題ではない。「賢くてフェアなネトウヨ」などという矛盾した存在が仮にいたとしたら、喜んでおつきあいさせてもらうだろう。「頭の悪い正義の味方」などより、よほど面白いからである。

本書は、頭の悪い「政治的人間」には難しすぎる。
彼らは「平易な文章で書かれている文章は平易であり、ジャーゴンだらけの文章は難解である」といった程度の人間なので、本書の言わんとするところが理解できない。

「自己相対化」ということの、少しでもできる者は百人に一人もおらず、その意味では、シオドア・スタージョンの言うとおり、「あらゆるものの9割はクズ」なのである。

初出:2020年12月2日「Amazonレビュー」

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