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ジェニファー・ベリー・ホーズ 『それでも あなたを「赦す」と言う』 : 人間と〈人間以上の力〉

書評:ジェニファー・ベリー・ホーズ『それでもあなたを「赦す」と言う』(亜紀書房)

「チャールストン教会銃乱射事件」は、2015年6月17日、アメリカ・サウスカロライナ州チャールストンにあるエマニュエル教会で発生した、9名にもおよぶ殺害被害者が出した、悲惨な事件である。
被害者はすべて、この教会に通うアフリカ系アメリカ人(つまり、黒人)。一方、犯人のデュラン・ルーフは、21歳のひきこもりの白人青年であった。彼は、インターネット上の「黒人差別サイト」に感化され、完全なフェイクニュースを真に受けたあげく、この乱射事件を計画し、実行するに至った。

この「チャールストン教会銃乱射事件」が世界的に有名になったのは、事件そのものの残虐さや動機の理不尽さだけではなく、犯人ルーフの逮捕後すぐに行なわれた保釈審問で、複数の被害者遺族が、ルーフに対し「あなたを赦します」と発言したからである。
つまり、黒人教会に通う敬虔なキリスト教信者だった被害者たちの遺族もまた、その多くは同教会に通う敬虔な信者だったので、彼らは「敵を愛しなさい」そして「赦しなさい」というイエスの教えを、忠実に実践して見せたのである。

世界にキリスト教徒は多い。しかし、文字どおりに、敵を愛したり赦したりしたキリスト教徒は、ごく稀であり、「例外的な存在」だと言っても良いだろう。
キリスト教の歴史をひもとけば、十字軍や異端審問の例を待つまでもなく、「信仰ゆえの正義」に由来する「信仰ゆえの虐殺」や「信仰ゆえの憎悪」に、昔も今も満ちあふれている。

キリスト教徒たちの多くは、敵を愛したり、敵を赦したりしなければならないということを、「原則」としては理解している。けれども、日々の生活におけるその実践は極めて困難であり、実質的にはそれを「理想」でしかないと考えがちで、自身が敵を憎んだり、赦せなかったりする場合には、それを「愛するが故の、憎しみや怒り」であり「愛するが故の、懲罰」だなどと自己正当化した上で、世俗に劣らぬ「攻撃的暴力」や「復讐」を、数多く実践してきたのだ。

また、だからこそ「チャールストン教会銃乱射事件」被害者遺族の模範的な行ないは、キリスト教の教えの純粋な実践として、多くの人に感動を与え、賞賛の声が世界的に巻き起こったのである。

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本書は、こうした点で有名になった「チャールストン教会銃乱射事件」の、発生から裁判終結までを描いた、ノンフィクションである。
被害者たちの生前の姿を描き、犯人ルーフの生育過程と事件を引き起こすに至る経緯を紹介し、事件そのものの様子を再現し、事件後の被害者家族の葛藤や、事件に対処した警察幹部や、市長など政治家たちの対応などを、丁寧な取材によって描ききっている。

そして、そこに描かれているのは、単なる「立派な行動」ではなく、「理想と現実」のはざまで葛藤する、現実の「人間」の姿だと言えるだろう。
そうした意味において、本書は「人間」を描いた厚みのある作品であり、決して単純に「悪に対する、神の愛(正義)の勝利」を描いた「物語」などではない。
だからこそ、本書には、キリスト教信者以外が読んでも、考えさせられる「真理」が語られているのだとも言えよう。

さて、信仰を持たない「無神論者」である私が、本書を読んで考えたのは「信仰は、人間個々の性質を、強化拡張するものである」ということだ。
平たく言えば「信仰は、良い人をより良くし、悪しき人をより悪しく」しがちだということである。

言うまでもないことだが、「信仰」というものは、基本的には「すべての人」を救うのを目的にしており、善人の救済は無論、悪人をも救うところに、宗教の「世俗(の力)を超えた力」があると言っても良いだろう。
だが、現実には、これはきわめて困難事であり、結果としては例外的なものに止まっていると断じても良いだろう。つまり、信仰者もまた「悪人を嫌い、悪人を憎み、悪人を罰する」ことしか出来ない場合の方が多いのである。やはり、「悪人」に対しては、「普通の人々」のそれと大差のない対応しかできないことの方が多いのだ。

しかし、それでは「信仰」や「宗教」は、まったく無力なのかと言えば、そんなことはない。
現実に「チャールストン教会銃乱射事件」の被害者家族の何人かは、キリスト教の教えに従って「敵を赦す」という「超人的な実践」を行なって見せた。彼らは確かに、その「信仰」によって「非凡」な人間となって見せたのだ。

しかしまた、前記のとおり、キリスト教だけではなく、「宗教」の歴史を顧みれば、その「信仰」ゆえの「非人間的行ない」としての「虐殺」などが行なわれたというのも、動かせない事実なのである。

信仰を持ってさえいなければ「十字軍を派遣して、異端者や異教徒の虐殺を指示した教皇」になどならなかったであろう人、信仰を持ってさえいなければ、多くの人を「異端」や「魔女」として焚刑に処して殺したりしなかったであろう人というのが、確実に存在したのである。「信仰さえ持たなければ」ごく普通の人、善も悪も平凡に持ち合わせている「平凡な人間」で終えられた人も、確実にいたのである。つまり、彼らを「非人間的な怪物」にしてしまったのもまた、「信仰」だったのだ。
私の言う「信仰は、良い人をより良くし、悪しき人をより悪しくする」ものだというのは、こうした意味においてなのである。

繰り返すが、前述のとおり「信仰によって、悪人が善人に変わる」というのは、ごく例外的なことにすぎないし、それは「信仰によって、奇跡的に、悪人が善人に変えられた」と言うよりも、もともとその人の中に眠っていた善性が、信仰を「きっかけ」にして開花したのだ、と言い変えることもできよう。
つまり、その「きっかけ」は、何も「キリスト教」との出会いに限られるものでもなければ、「信仰」との出会いに限定されるものでもない。例えば「無信仰の善人」や「書物」や「風景」等に出逢ったことで、その人の善性がめざめて「改心(「回心」ではなく)」するといったことも事実あるのだから、「キリスト教信仰」だからこそ「悪人が善人に変わった」と言いきれるようなものではないのである。

したがって、「信仰」というものは、「悪人を善人に変える」と言うよりは、私の言う「良い人をより良くし、悪しき人をより悪しく」するものだと言った方が、あきらかに、事の現実に近いと言えるのではないだろうか。

またそうした意味において、「チャールストン教会銃乱射事件」の犯人であるルーフ青年を凶行に駆り立てた「黒人差別思想」というものも、一種の「信仰」だと言えるだろう。
言うまでもなく「黒人差別思想」というものは、自分たち「白人」を愛し、特権化して、「他者」である「黒人」を「敵」認定するという、「事実に基づかない、確信」だからである。「ありもしないこと」を信じて(根拠として)、自らを「特権的な正義」だと確信し、その「信仰」的定義から外れるものを「邪悪なもの」だと「敵」視する。
一一こうした点では、「キリスト教(を含む、あらゆる宗教)」と「黒人差別(を含む、あらゆるヘイト思想)」に、本質的な違いなど無いのである。
言い変えれば、ルーフは、その自覚からすれば「自らの信仰に殉じた、殉教者」だとも言えるのだ。

だから、ルーフを赦そうとした被害者遺族の「敬虔なキリスト教徒」と、ルーフという「敬虔な黒人差別思想の信者」は、表面的なところでは対極的な存在に見えても、「人間(の現実)以上の力」としての「信仰的なもの」に依存して生きているという点では、本質的には「似ている」のだとも言えよう。

だからこそ「キリスト教」も含めた、あらゆる宗教における「原理主義」者たちは、その「信仰」を根拠として「敵の命」を奪うことも辞さないのである。

本書の帯に「ヘイトは乗り越えられるか」という言葉が記されているが、人間を超えた「正義」を語る「信仰的なるもの(思想信条信念を含む)」に依存して生きているかぎり、「ヘイト(差別)」は無くならないと、私は考える。
なぜならば、人間とは「多様」な存在であり「差異」が存在するのだが、「信仰的なるもの(思想信条信念を含む)」には、必ず何らかの「価値判断基準」が存在して、「善悪」に限らず、人間を多様な側面から「価値判断」し「ランク付け」をして、差別するものだからである。

だから、私たちが「ヘイトは乗り越え」るためには、「人間」についての「価値判断」を示す、あらゆる「信仰的なるもの(思想信条信念を含む)」を捨てて、ただ「この世界には、もともと善も悪もなく、人間という種が生き延びるための、方便としての倫理、という虚構が存在するだけだ」という「事実」を受け入れ、それを肝に銘ずるしかないのではないだろうか。

しかし、これが容易なことではない。私も含め、人間は日々、その瞬間瞬間に、あらゆる物についての価値判断をしながら生きているし、それは「人間」に対しても同じことで、そうした価値判断なしに生きることなどできないからだ。
言い変えれば、「すべての人」を、分け隔てなく「信じたり」「信じなかったり」することはできない。必ずその時々、目の前の相手を「この人は信じよう」「この人は信じないでおこう」という具合に判断しながら生きるしかないので、そうした「当たり前の価値判断」を「人間という種が生き延びるための、方便としての倫理、という(やむを得ない)虚構」だとは、およそ考えにくいのである。

では、どうするか。
「本当は、この世界には、善も悪も無い。あるのは、方便としての倫理だけだ」という事実を、どうしても信じられない人たちに向けて諭すべき最良の言葉とは、やはり、「敵を愛せ」という「一定の価値判断を含んだ言葉」しかないのかもしれない。

初出:2020年10月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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