panpanya 『グヤバノ・ホリデー』 : 〈探求〉の果ての幻想
書評:panpanya『グヤバノ・ホリデー』(白泉社)
結果として、panpanyaの本は手に入った順に読んでレビューを書いており、必ずしも刊行順というわけではない。そんなわけで、前回書いたのは、第4著作の『動物たち』のレビューだったのだが、私はそれを、次のように締めくくっておいた。
で、予定どおりに、今回読んだのは本書『グヤバノ・ホリデー』である。
「グヤバノって何だよ?」というのは、誰もが持つ疑問のようで、本書のカバー背面には、「本書について」という紹介文が刷られており、そこで「グヤバノ」についての、けっこう詳細な紹介がなされている。
それをそのまま引用してもいいのだが、要は、東南アジア系の「実在の果物」で、日本でもよく知られる「グァバ」とは別物。「グヤバノ」は現地語名称で、英語だと「サワーソップ」、日本名だと「トゲバンレイシ」というそうだ。ネット検索すれば、すぐにわかるので、興味のある方は、そちらでよろしくお願いします。
で、本書は、作者(を投影した主人公の女の子)が、たまたまアメ横で見つけて飲み、気に入ってしまった「グヤバノジュース」(缶ジュース)から、グヤバノを求めてはるばるフィリピンまで旅をした『グヤバノを求めて三千里』的な報告記連作「グヤバノ・ホリデー」と、それ以外の独立短編を収めた作品集である。
Panpanyaファンなら、すでにお気付きのとおり、この「グヤバノ・ホリデー」連作(グヤバノ探訪記)は、第8著作『魚社会』の「カステラ風蒸しケーキ物語」に通づる、panpanyaの「B級食料品」に対する偏愛を描いた作品だが、「カステラ風蒸しケーキ物語」が国内の比較的近隣に終始するお話なのに対して、「グヤバノ探訪記=グヤバノ・ホリデー」の方は、編集者の力添えもあっての海外旅行と、話が「取材旅行」的に大きくなっており、その分、個人的には「カステラ風蒸しケーキ物語」の方が好きである。
ただ、それにしても、panpanyaの「探究心」には、ほとほと感心させられるというか、呆れるというか、とにかく尋常なものではない。
ファンならよく知っていることだが、とにかくこの人は、細かいことに目を向けて、それをあれこれ調べたり、あれこれ妄想したりして、徹底的に味わいつくすといった、ちょっと普通じゃない執着的探究心があって、それがあるからこそ、「幻想」の世界まで踏み込んでいけるのだというのが、よくわかった。
言い換えれば、普通の人間は、そこまでこだわらないから、良くも悪くも「常識の範囲」に止まってしまうのであろう。
とはいえ、panpanyaに関するこれまでのレビューで何度も書いているとおり、私自身は、「日常探求派」ではなく、「異世界探訪派」であり、いくら「尋常ではない」とはいっても、やはり「現実世界」の話に終始されるのでは物足りない。だから、この作品集でも、面白かったのは、メインの「グヤバノ・ホリデー」ではなく、別の諸編の方であった。
本書に収められた作品は、次のとおり。
この中で、私の「ベスト3」は、
(4)いんちき日記術
(13)芋蔓ワンダーランド
(7)偶然の気配
ということになるが、すでにご紹介した(6)の「グヤバノ・ホリデー」以外について、収録順に論評することにしよう。
(1)の「家を建てる」は、私も模型(ミニチュア)好きなので、主人公の気持ちがとてもよくわかる。若い頃は「DeAGOSTINI」の「つくる」シリーズが欲しいと思ったものだが、実際のところ、あんなに何十回にも分けて出されたのでは根気が続かないし、値段的にも割高だと気づいて、興味を失った。
また、読書中心の生活に入ってからは、模型づくりなどやってる暇はないので、もう、どうしても欲しければ完成品を買ってもいいやと、開きなおるようになった。
実際、「ヤフオク」などでは、「模型雑誌の作例」レベルの完成品が、1万円から高くて数万円くらいで買えるので、「DeAGOSTINI」で買い揃えて作るより、だいぶ安い。それに「ヤフオク」などには、たまに「DeAGOSTINI」の「未完成冊子一括」が出品されていたりしていて、当然、定価よりもずっと安いし、完成品の出品であっても、やはり定価より安いのだ。きっと、手間をかけて作った完成品も、最後は置き場所に困るのだろう。
そんなわけで、「DeAGOSTINI」の「つくる」シリーズなんかは、買っても結局は作らなかった人とか、つくる以前に途中で放り出す人がかなりいるだろうというのは、想像に難くない。つまり、最初の(「特別価格」で安い)1冊目を買った人で、最後まで購入し、しかも完成させる人なんて、100人に1人くらいなんじゃないか、あの商売はそこまで見込んでのものなんじゃないかと、そんな夢のないことを考えている。
しかしだからこそ、「(実物大の)家をつくる」シリーズの夢を描いた本作には、とても共感できる。
完成品を目にすることができれば、それだけでも嬉しいし、ましてそれが「実物大」の家であり、電車の車窓からそれが見つけられるなんて、こんなに楽しいことはないだろうと思うからだ。
(2)の「宿題のメカニズム」は、panpanyaらしい、極端に走って妄想爆発の物語であり、オチも得意の動物ネタだが、やや「まとまり過ぎ」の感じがしないでもない。よくできているのだが「お得意のパターンだよな」という印象が残ってしまって、新鮮味に欠けた。
(3)学校の学習机が「学習こたつ」に入れ替えられていた。その方が学習効率が上がるという海外の研究発表があったので、文部科学省が試験的に導入したのだ。
で、主人公は、それがありがたいと思いながらも「こたつだと眠くなって、かえって勉強が捗らず、その結果、こたつは取り上げられてしまうのでは」と心配し、猛勉強をして百点をとるのだが、しかし、こたつでウトウトしていたクラスメートたちも好成績を挙げて、こたつは正式採用されるようになった。
つまり、結果オーライなのだが、しかし主人公は納得がいかない。自分が百点を取ったのは、自分の努力がすべてではなく、こたつのおかげもあったのかと疑われたからだ。それで家では、こたつを使わずに勉強しようとしたのだが、結局は、寒くてこたつに入ってしまう。だが、しばらくして、落ち着かない様子で一言「・・・しゃくなんだけどなー」。一一この気持ちは、よくわかる(笑)。
(4)の「缶詰の作り方」は、「細部へのこだわり」ものだが、私にはまったくピンとこなかった。多分、こうした「工作技術」的なものには、あまり興味がないからであろう。缶詰にも興味はないし、ほぼ食べないし。
(5)の「いんちき日記術」は、前記のとおり、本書の中では私のベスト1作品。
「夏休みの日記」のお話だが、毎日日記に書くようなエピソードなんてないので、「日記を書いた。楽しかった。」ということを書けば、特に書くことがなくても毎日書けるのでは、という裏技を考えた。だが、これを毎回使うわけにはいかない。
それで、自分は同行しなかった、飼い犬(同居人?)レオナルドの散歩に、自分も同行したことにして、それを日記に書くというアイデアを思いついた。つまり、フィクションの妄想日記であり、本作中にはその妄想散歩の様子が描かれるのだが、その妄想散歩の途中で、レオナルドが「しかし、現実の日記だって、主観と記憶によって変形させられたこと書くのだから、半分はフィクションみたいなものなので、嘘日記との本質的な違いなんてないのでは?」という趣旨の「認識論哲学」みたいな意見を持ち出し、主人公の女の子も「なるほどな」と思い、それでは妄想散歩でしか楽しめない、歩いたことのない場所を歩いてみようということになる。そんなわけで、そこからは純粋な妄想の散歩だから、だんだん楽しくもおかしな話になっていった。
その妄想散歩を(頭が)疲れるほど楽しんだ後、それを日記に書いたところ、レオナルドが「それはちょっと面白すぎて、提出するのは、まずいのでは」みたいな助言をするので、女の子は「(その日の日記の)最初の方は、まともだったんだがなあ」と、前のページを繰ってみると、前に書いた「日記を書いた。楽しかった。」と書いていたのが目に入って、それが「嘘」でも「インチキ」でもなくなっていることに気づき、見事に「オチ」がついた、とそういうお話である。
一一私はこの、裏と表がつながってひと巡りするといった、「メビウスの輪」的な位相幾何学的世界が、とても面白いと思ったのだ。
(6)の「グヤバノ・ホリデー」は飛ばして、
(7)の「比較鳩学入門」は「探求もの」。「大きく見える鳩」は本当に大きいのかを、友だちと二人で探求していく物語で、オチは、ちょっとSF的な「疑似科学理論」である。悪くはないのだが、ちょっと、話が「小さすぎる」かなという感じがした。
(8)の「偶然の気配」は、私の「ベスト3」作品。たった2ページの作品で、最初、何がなされているのか、気づかなかったが、もう一度読んで、これが一種の「メタフィクション的な実験マンガ」であることに気づいた。
マンガとして面白いかと言えば、そうでもないのだが、このアイデアは斬新だし、ちょっと「意志を持つ世界」的なところが、レムの『ソラリス』を連想させる、独特の気味悪さがあって、そこが良かった。
(9)の「知らない夏」は、あえてオチをつけない作品だったのだろうが、それはそれとして、オチ切らない半端さが感じられた。
(10)の「許可2」は、1枚ものの日常エッセイ的なマンガ。panpanyaらしいエピソードを描いているが、特にどうということはない。
(11)の「水族館にて」は、雑誌『ユリイカ』の「図鑑の世界」特集用の、2枚ものの依頼原稿だが、「panpanyaらしい」というだけのワンアイデア作品。
(12)の「符号」は、「マンガ的符号」が現実に起こったかのようなエピソードを描いた作品。「マンガ的符号」とは、例えば、気を失った人の頭の上で「小鳥が三羽ほど、小さな円を描いて飛ぶ」とか、何かひらめいたときに「頭の上に電球が浮かぶ」とかいった、アレである。
似たようなアイデアを、つくみずが『シメジ シミュレーション』の第3巻で、「異空間の表象」としてストレートに描いていたが、本作では、最後に「オチ」がつけられていて、完成度は極めて高いものの、やや「理に落ちた」まとまり方、という印象は否めなかった。
(13)の「いつもの所で待ち合わせ」は、友だちとひさしぶりに「いつもの所で待ち合わせ」をしたのだが、いつのまにか街の風景も少し変わっていたという、ちょっとしんみりさせられるエッセイ風の2枚もの。余韻があって、良い作品だと思う。
(14)の「芋蔓ワンダーランド」。芋掘りをしていたら、その蔓がどこまでも途切れずに繋がっていたので、途中で諦めることなく、蔓の導きによって、どんどんと地下世界へと掘り進んでいく、という一種の「妄想地下探訪記」。幼い子供が妄想するような世界をそのまま描いていて、変に理に落ちないところに好感の持てる、長めの短編作品であった。
以上、趣味に偏した感想を書いてきたが、本作品集を読んで感じたのは、panpanyaというのは、とても頭が良くて明晰だということである。ただ、それが時に「理に落ち」「まとまりすぎる」こともある。
私としては、もちろん「理」は重要な要素だが、「理」に落ちるのではなく、「理」を尽くして「不条理」に至るような「過剰さ」や「逸脱」を持ち続けて欲しいと思う。「妄想」から「情念」的なものが脱色されて、後に「理」的にさっぱりしたものだけが残るというのでは、やっぱり物足りないのだ。
ともあれ、次はいよいよ、第1著作『足摺り水族館』である。
(2023年1月24日)
○ ○ ○
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
・