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山口泉『世界のみなもとの滝』 : 8人目は〈市民運動家〉

書評:山口泉『世界のみなもとの滝』(新潮社)

本書は、1989年に開催された「第1回日本ファンタジー大賞」の「優秀賞」受賞作品である。
この時の「大賞」受賞作は、酒見賢一の『後宮小説』で、本作は言わば次点作品であった。

今から約30年前、私は開催当時の「第1回日本ファンタジー大賞」に注目していたので、受賞作が刊行されると、さっそくこの2作を購入した。大賞受賞作『後宮小説』の方は、すぐに読んでたいへん感銘を受けたものの、本作『世界のみなもとの滝』の方は、積読の山に埋もれさせてしまい、気にはなりつつも今日まで読むことがかなわなかった。
今回、本作を読むきっかけとなったのは、本作著者のtwitterでの発言に触発された私の友人が、先日、本作を読んで褒めていたからである。ちなみに、友人の高評価のポイントは「著者は本気で世界を変えようと考えている」という点であり、そうした強い想いが、本作にも反映していた、ということのようであった。

 ○ ○ ○

さて、私の評価なのだが、残念ながら、あまり高くは評価できなかった。
小説としては、一定の魅力もあるものの、やはり友人が指摘した著者本人の「姿勢」に発するものを、私はむしろ、否定的にしか評価できなかったのである。

著者の山口泉は、作家であり、いわゆる「市民運動家」と呼んでいい人である。
その20冊に及ぶ著作を見ると、

『吹雪の星の子どもたち』 1984 
『世の終わりのための五重奏』 1987 
『宇宙のみなもとの滝』新潮社、1989  
『悲惨観賞団』1994 
『「新しい中世」がやってきた! 停滞の時代の生き方』1994 
『テレビと戦う』 1995 
『ホテル・アウシュヴィッツ 世界と人間の現在についての七つの物語』 1998
『宮澤賢治伝説 ガス室のなかの「希望」へ』 2004
『原子野のバッハ 被曝地・東京の三三〇日』 2012
『避難ママ-沖縄に放射能を逃れて』 2013
『辺野古の弁証法——ポスト・フクシマと「沖縄革命」』 2016
『重力の帝国——世界と人間の現在についての十三の物語』 2018

という具合に、その半数以上が、この世界を「暗い」ものとして「批判的に見ている」のが窺える。
平たく言えば、「反体制左翼」的なスタンスであることが、容易に窺えるのである。

もちろん、私の立場も、大雑把に言えば「左翼リベラル」ということになるし「反権力」でもあるから、「弱者」に寄り添おうとしている、本書著者・山口泉のスタンスについては、基本的に肯定的であり好意的であると言えよう。
ただし、私と山口の大きな違いは、「運動」というものに対する距離感なのではないかと思う。

山口は、この「世界の不条理」と戦うためには「連帯」が必要だと考え、そうした「運動」の中に入っていく人なのであろうと思うのだが、私の場合は、そもそも「集団」や「組織」といったものが大嫌いなので、否応なく「個人」としてのスタンスを選んでいる。良き目的のためには「連帯の力」も必要だろうが、私は「成果主義」者ではないのだ。

大西巨人が、

『果たして「勝てば官軍」か。果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪」にかかわるのか、それとも「もと強弱」にかかわるのか。私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』(「運命の賭け」)

と言っているとおりであり、あるいは、

『 伊藤辨護士も、「〈連帯〉の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、〈連帯〉とは、断じて、〈恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)〉ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の〈連帯〉ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の〈連帯〉とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「連帯とは、ただちに〈恃衆〉または〈恃勢〉を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。』(『深淵』上巻 P283〜284)

とも言っているとおりで、実際には多くの場合でこのような「連帯」でしかあり得ない「運動体の悪癖」には心底ウンザリなので、「個人」としてやれることだけやらせてもらう、というスタンスに、私は徹しているのである。

たぶん、私のこのような「個人主義」的スタンスは、山口のような「実践家」としての「運動家」には、物足りなかったり、欺瞞的に映るのだろうが、私から見た場合、「運動体の現実」というのは、しばしば、ほぼ確実にウンザリさせられる側面が少なくないので、敵視まではしないものの、敬して遠ざけさせていただいているのである。
(運動体を、著名人が上から見下ろす場合、そのあたりが隠されやすく、見えにくいのかもしれないが、地べたに近い内部から見た場合には、組織の悪癖はたいへん見えやすいものなのだ。そして私は、内部批判を遠慮できない人間なのである)

そして、私がウンザリさせられる「運動体の悪癖」的な側面が、本作『宇宙のみなもとの滝』にも窺え、著者である山口泉にもプンプン臭う。だから、どちらも高くは評価することができないのである。

 ○ ○ ○

私が、本作を、そして「小説家としての山口泉」を、高く評価できない理由は、ハッキリしている。
それは、その「思想」や「物の見方」が、「左翼紋切り型」の域を出ていないからである。

百歩譲って、単なる「運動家」であれば、そういうものも、その「効率性」や「成果主義」によって、ある程度は容認できるし、評価もできよう。つまり「運動家は、あれこれ考えたあげく動けなくなっては元も子もない。だから、多少は思い込みが激しいくらいの人の方が、運動家としては有能であろう」というような評価である。
しかし、「小説家」の場合は、こういった評価はできないのだ。

本書の登場人物を大雑把に分類すると、

(1) 不当に虐げられ差別される主人公と彼に同情的な仲間
(2) 独善的な正義を振り回す、世の「善人」たち
(3) 宇宙の延命の賭けた旅に、主人公たちを誘う、世界の精霊的存在

とまあ、こんな感じになるだろう。
本作では、SF的な「作中の現実世界」と、その世界の中で演じられる「作中作としてのファンタジー劇」という二重構造になっているが、どちらの登場人物であるにしろ、本作の本質は(1)と(2)の対立であり、この世界を(無自覚ではあれ)破滅に追いやろうとしているのは(2)であり、それを救えるのは(1)だけだ、という作者の「世界観」である。

私がまず引っかかったのは、作者自身が、(1)の「不当に虐げられ差別される主人公」に感情移入して、ほとんど「同一化している」点である。

こうした主人公は、当然のことながら、読者の「同情を引く」存在であろう。しかし、だからこそ、作者は「可哀相な主人公」べったりとなって、作者自身が「被害者意識」に酔い「可哀相な私(同情されて然るべき私)という自己像」に酔ってはいけないはずだ。
主人公が読者の同情や共感を得るのは「主人公自身がそのように自己規定しているから、そうなるべき」なのではなく、同情共感されて然るべき「客観的事実」があるから、同情共感されてしかるべきなのである。
だからこそ作者は、主人公を「客観的」に見ていなければならないのだが、本作においては、それが充分にできていないのである。

もちろん、作者が主人公と同一化することによって、その感情に強いリアリティが宿るといった「小説的なメリット」もあるだろうし、現に本作の主人公の独白的な語りには、文学的な叙情性があると評価しても良いだろう。しかし、それは多分に「気分的なもの」であって、強靭な世界認識の裏づけがあってのものではない。だから、文学として「弱い」のだ。

次に、よりハッキリとした「問題点」は、敵役と言っても良いであろう、主人公をいじめ苛む(2)の存在の「描き方」である。
本作において彼らは「みんなのキンポウゲ市を美しくし、キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバーである、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」の7人として登場する。
この7人が、主人公を「差別し、いじめる」とても「鼻持ちならない嫌なやつら」として描かれているのだが、作者の山口泉が「市民運動家」であることを勘案すれば、この7人の描かれ方がどのようなものになっているかは、容易に想像がつくのではないだろうか。

たしかに、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」といった人たちは、しばしば「独善家」「鼻持ちならない選良」「世間を知らない頭でっかち」「権力の走狗」であったりすることが少なくないだろう。
かの「福島第一原発の事故」の事例を持ち出すまでもなく、政治家や有識者といった人たちは「信用ならない」ことが少なくないし、そもそもこれらの人たちは「自分たちの狭い了見の中だけで、世界を見ている」場合が、意外に少なくない。
そのため、「差別されている人たち」「虐げられている人たち」「最下層の人たち」、つまり「少数者」や「弱者」である人たちの存在が、彼らの視野には充分に入っていない場合が少なくなく、逆に「少数者」や「弱者」にこそ強く配慮する「市民運動家」のような人たちには、この7人のような人たちが「無自覚で鼻持ちならない差別者・抑圧者」だと映ってしまいがちなのだ。
だが、それはあまりにも一面的かつ「党派的」な見方であり、偏頗な評価なのではないだろうか。

言うまでもないことだが、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」といった人たちの中にも「立派な人」は大勢いるし、「弱者のために闘っている人」だっている。
それを専門としている「市民運動家」ほどの比率ではないにしろ、そういう「善意の人」たちが含まれているにもかかわらず、その「左翼紋切り型」的な「偏見」によって、彼らを、このように嫌らしい「紋切り型」で描くこと自体が、そもそも「差別」ではないのか。

じっさい、作者が「市民運動家」でなかったならば、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」の8番目のメンバーとして「市民運動家」を登場させ、他の7人に負けず劣らず「鼻持ちならない独善家」として描いて見せたとしても、読者の多くには、何の無理も不自然さも感じさせないのではないだろうか。

本作の問題点は、主人公の側には「個人名」があるのに、この7人には「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」という「肩書き」しかなく、「個人」としての「人格」を剥奪され、無視されている点である。
「この手のやつらは、総じて、こういうもんだ」という、作者の「独善的な決めつけ」、つまり「偏見」によって、ご都合主義的に「憎まれ役」としてのみ造形されている点が、私にはとうてい無視し得ないのである。

作者自身は、自身を「差別された者・虐げられた者」つまり「被害者」の側に立つ者として自己規定しているから、自分の「偏見差別」については、完全に無自覚なのであろう。
言い変えれば、本作作者には「他者に対する想像力」が欠如している。そこが、決定的に問題であり、弱点なのだ。

本作のクライマックスは、作中劇の「世界のみなもとの滝」の山場、人間の独善的な業のはたらきによって、もはや崩壊の瀬戸際にある世界を救うために、世界のみなもとの滝の前で、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」メンバーと主人公たちの10人が、つぎつぎと世界を延命させるに足る理由を、滝に向って訴える劇中シーンであろう。

ここで注目すべきは、最後に決定的な「世界を延命させるに足る理由」を示す主人公の、いわば「前座」として、それに挑み、失敗する「キンポウゲ市民の幸福を考える会」メンバーらの語る、個々の「世界を延命させるに足る理由」が、決してつまらないものでも、どうでもいいものでもない(大切なものである)、という事実だ。
つまり、彼らの「正義」にも「一理ある」のだが、しかしそれは、人間によって破壊された「世界を延命させるに足る理由」にはなっておらず、十分な理由とは「認められない」のである。

では、最後に主人公の示した「世界を延命させるに足る(十分な)理由」とは、どのようなものだったのであろうか。
世界の〈声〉は、主人公が「体現」したそれを、次のように評価する。

『 この世界をほんとうに救うことができるのは、ただ、この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られ……この世界を追放されようとしている者だけなのだ。そして一一
 そして、その彼らが、この力を発揮して世界を救うかどうかは、ただ彼らの判断に任されている。それは、彼らの《自由》だ。』(P262)

「最も差別された者こそが世界を救う(資格を有する)」というのは、もっともらしい理屈だ。
それは、ロールズの「無知のベール」にも似ていて、容易には反対しづらい。

(※「無知のベール」とは、大雑把に言えば「人は、自分がどのような境遇に生まれてくるのかわからない場合には、最低の立場におかれる場合を想定して、そういう立場の人でも人間らしく生きられる、最低限の生活の保証された社会の構築を目指すだろう」という「思考実験」的な仮説のこと)

しかし、それでもロールズの「無知のベール」が批判されたように、例えば、「脳死者」を最も悲惨な境遇にある人だとした場合、多くの人々は、はたして、そこに基準をおいた社会を望むだろうか。人々は、そこまで基準を下げられず、そうした「重荷」の切り捨てを考えはしないだろうか。

つまり、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」とは「はたして(具体的には)誰なのか?」ということなのだが、少なくともそれは「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」の、自称「代理人」や自称「代弁者」などでないことは、確かなのではないだろうか。
なぜなら、そういう人ならば、掃いて捨てるほどに多いからである。

言い変えれば、自身を「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」と「同一化」させ、その同じ(特権的な)場所に位置づけて、「他者」を見下して断罪する態度に、はたして「欺瞞」はないのか、ということなのである。

そもそも、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」とは、固定されたものなのだろうか。
逆に言えば、「すべての人」が例害なく、何らかのかたちで、彼らを「辱め、虐げ、忘れ去る者」なのではないか。

だとすれば、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」という特権的な立場に立って、一方的に「他者」を断罪できる人など、いないのではないか。
一片の迷いもなく、それが出来ると考えられる人というのは、相手が一方的に「純粋無垢な加害者」であり、自己が同情されるべき一方的に「純粋無垢な被害者」である、という誤った自己意識を囚われているのではないか。

つまり、本書著者による「断罪」は、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバー7人の描き方にもよく表れているとおり、あまりにも一方的であり、「善悪二元論」的に過ぎはしないだろうか。
あまりにも、自身の「正義」を、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」つまり「被害者」の名において、絶対化しすぎてはいないだろうか。

また、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」を救うことさえできれば、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバー7人や主人公の友人の2人の語った、「次善の正義」は、どうでもいいのか。

いや、そもそも、達成されるべき理想を「たった一つに限定する」ことに、本質的な無理と、欺瞞があるのではないだろうか。

「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」が救われることは、無論大切だし優先事項ではあろう。だが、それだけではないはずだ。
つまり、理想にも優先順位はあるにしろ、やはりあれもこれも必要であり、それらに「不合格」の烙印を押して、「こちらこそが最優先事項だから、君たちは遠慮しろ」で済ませるわけにはいかないのではないだろうか。

ほかに私が気になったのは、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」としての主人公の、自信なげにおどおどしているかと思えば、逆に、いきなり切れて猛然と反発するという、その極端な不安定ぶりである。
無論それは「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」としては、やむを得ないことなのではあろうが、しかし、それでも、そこに「相手(他者)と話し合おうという構え」を見いだすことが出来ない、というのは、「弱者のための運動」が「独善的なテロ」といったものに反転してしまう原因ともなり得る、きわめて危険な様相なのではないだろうか。

本作『世界のみなもとの滝』に感じる不満とは、怜悧な「自己批評の目」の不在である。

「自己懐疑の回路を断った、その独善的正義」とまでは言わないまでも、「敵」に対する「憎悪に目の眩んだ、一方的な批判」が、本作では露骨かつ居丈高なまでに表現されており、そのような「無自覚な偽善」を高く評価することなど、私にはとうてい出来なかったのである。

(※ 本稿初出は、ネット掲示板「アレクセイの花園」2020年8月2日付けの記事「真夏に読んだ『宇宙のみなもとの滝』」です。)

再録:2020年8月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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