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『小林秀雄 江藤淳 全対話』 : Don't think! Feel

書評:小林秀雄・江藤淳『小林秀雄 江藤淳 全対話』(中公文庫)

ここで小林秀雄が語っていることは、そんなに難しい話ではない。

だから、ことさらに「深〜い」とか「有難〜い」などと、信者自慢などしなくてもいい。小林だって、そんなことを望むほど野暮ではないだろう。

では、小林秀雄は、一体なにを語っているのか。
ひとことで言えば「理屈で対象を歪めるのではなく、対象を直視せよ」ということである。

このこと自体は、決して難しい話ではないし、小林秀雄だけが言ってるような、事新しい話でもない。
本レビューのタイトルとした、ある有名映画の名ゼリフも、本質的には同じことを語っている。

では、小林秀雄はなぜ、こんな、ある意味で「わかりきった話」を繰り返し訴えたのか。
それは、このことが「言うは易く、為すは難し」に他ならないからだ。つまり「わかっちゃいるけど、やめられない」人が多いのである。

小林秀雄が「左翼」を嫌ったのは、当時の「左翼」の多くが、「左翼小児病」的であり「左翼紋切り型」の、頭の悪い「教条主義」者であったからに他ならない。
当時、絶対的な政治的影響力を誇った「マルクス主義」の権威に依存して、その理論を金科玉条のごとく奉り、それでいてマルクスを己の目で読み込み、マルクスと対決することをしなかった「政治思想としてのマルクス教の信者」たちが、居丈高かつ傍若無人にもその粗雑な物差しで、なんでもかんでも撫で斬りにしたつもりになっていたから、かなり気の短い小林は、当然のごとく「こいつら馬鹿か」と反発し、苛立ちを隠せなかったのである。

つまり「自分の目」で対象を見ようとしない「二流、三流の人」というのは、言うまでもなく、思想の左右とは、何の関係もない。
そもそも、イデオロギーというものに縛られて柔軟性を失い、自己相対化の批評的冷徹さを失った「ゴリゴリの人たち」というのは、全員「観念で物事を歪めて見ている人」なのである。

ただし、これは左右の「政治的人間」だけの話ではない。
シオドア・スタージョンは「SFの90パーセントはクズである。ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである」と言ったが、私たち全員が、多かれ少なかれ、こうした「クズ」なのだ。
と言うのも、ある事柄については、かろうじて10パーセントの側であれたとしても、違った事柄については、つい90パーセントの「世間の常識」の側に与してしまうものだからである。

これは、小林秀雄だって、江藤淳だって、まったく同じことであり、彼らも人の子であって、神様ではない。「教祖」風の振る舞いや断定的物言いがあるために、信者になりたがる「観念的権威主義者」が大勢いるのかも知れないが、信者の目に映った小林秀雄や江藤淳の姿もまた「観念によって歪められた映像」に過ぎないのである。

そもそも、人間の脳というのは、事物を歪めて見るように作られている、というのは脳科学によって確認された事実である。
例えば、人間の目(網膜)には構造的に光を捉えられない「盲点」が存在している。しかし、人間の脳は、その視覚的欠落部分を周辺情報によって「補足補正」するので、人間は通常、盲点の存在が意識できず、またそれ故に、世界をありのままに見ているつもりにもなって、安心してもいられるのだが、所詮、私たちの見ている世界は、脳によって「補正」された虚像に過ぎない。ちょうど画像処理ソフトPhotoshopで加工した美女画像を、私たちは「現実そのまま」だと思い込んで見ているようなものなのである。

だから、私たちが、世界を「観念のフィルター」を通して見てしまうというのも、じつはごく自然なことなのである。
と言うか、それこそが人間の自然な振る舞いであり、小林秀雄が期待するような「フィルター外し」の方こそよほど不自然であり、だからこそ簡単なことではなく、ある種の訓練を要するのだ。

例えば、文学作品や古美術品を鑑賞するといった行為においてなされるべき訓練とは、私たちの脳に貼り付いた「習慣としての観念」というフィルターを削ぎ落としていくことなのだと考えればいい。

生活上の「効率性」の故に、私たちはこの種のフィルターをごく当たり前に、無意識のうちに多用しているのだけれど、そういう「ショートカット」認識では見落とされてしまうことが、あまりにも多い。だから、私たちが通常は忘れてしまっている、一歩一歩踏み固めて進むルートを探っていき、それによって、より正確に物事の実像に迫ろうというのが、小林秀雄の求める「当たり前に見ること」なのである。

で、本書の読みどころでもある、小林秀雄と江藤淳の、三島由紀夫理解の差というのも、こうした物の見方の違いに由来すると理解できれば、さほど難しい話ではない。
要は、小林秀雄は、三島由紀夫という「一人の繊細な人間の、生の葛藤」を見て取り、彼の演技的な自死も「やむ得なかった」と評価し、一方の江藤淳は、ずっと「世間の常識」に近いところで、三島の「虚飾としての観念」を素直に「観念的」に評価してしまったのである。

江藤淳の人生を見れば、江藤もまた、かなり「観念の人」であったというのは明らかだ。彼もまた、充分にイデオロギッシュであったというのは、まったく素直な江藤淳評価としか言いようがない。
ただ、江藤がそういう人であった事実は、彼の「依存的な弱さ」に由来するものとして、小林秀雄的に言えば「やむを得なかった」とも言えよう。

本書でも、ペットとしての飼犬への愛と、それへの世間の無理解について、江藤はかなりムキになって反論力説しているが、彼の議論は所詮、飼主としての人間の、一方的な理屈でしかない。
犬は人間によって、人間に飼われることでしか生き残れない存在にされてしまい、その上で人間との上手な関係を築いた動物なのであって、そもそも、自分から進んでペットになったわけではないのである。
したがって、江藤は愛犬への愛を語り、お互いの愛を確信しているようだが、それは一方的な結果論でしかないのだ。だからこそ、そんな結果論になど興味のない人に対しては、江藤の十分エモーショナルな理屈は通用しない。せいぜいが、人間社会内での理屈として「人それぞれ」ということでしかなくなるのである。

ともあれ、江藤淳という人は、こういう「一方的な愛の人」である。
それが、結果として「相思相愛」になることもあるだろうが、江藤自身の愛は、基本的に一方的であり、言い換えれば「依存としての愛」だと言ってもいいだろう。

だから、彼が愛した「愛犬」や「日本国」や「妻」に対する愛は、いずれも依存的であり、だからこそ、それにケチをつけるような冷たい(冷徹な)評価に対して、彼は「被害者意識」から、いきり立ってしまうのである。

しかし、言うまでもなく、「依存的な愛」とは、一種のフィルターである。
頭の良い江藤淳は、その「感情(感傷)のフィルター」を「観念のフィルター」に作り変えることも出来たのだが、観念は所詮「観念」であって、それがなくなれば、彼は自分の脚で立ってはいられなくなってしまう。

で、そんな彼だからこと、三島由紀夫の自死についても、世間並みの「観念」で評価するしかなかった。そして、その弱さが、のちに自身をおそうことにもなる。「人を呪わば穴二つ」ということになったのだ。

その点、小林秀雄の「観念」嫌いは徹底していたと言えよう。その頑固さは、じつに見事だとも言えようが、しかし、人間には「観念」が必要だし、それを完全に避けることなど出来はしない。
そしてそれは、小林秀雄自身も同じなのである。
ならば、彼も最後は、ある種の断念に至らざるを得なかったのではないか。

小林秀雄がいかに優れた「眼」の持ち主であろうと、彼の眼もまた「人間の眼」なのだ。
人間とは、どこかで自分を欺きながら生きざるを得ない生き物であり、要は、その欺き方の中身の問題なのである。

初出:2019年8月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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