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三流保守評論家のプロパガンダ : 先崎彰容『バッシング論』

書評:先崎彰容『バッシング論』(新潮新書)

著者は、日本大学・危機管理学部の教授。専門は日本思想史だ。

日本大学と言えば、アメフト部による反則タックル事件の、あの日大であり、危機管理学部と言えば、山口組との関係も取りざたされた、学生時代は全共闘潰しの保守武闘派闘士として鳴らした、コワモテの、あの田中英寿理事長の肝いりで設立され、警察官僚の天下り先にもなった、如何にもうさん臭い学部である。

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(※  左が田中英寿、右が山口組組長・司忍)

そんな日大危機管理学部の教授による本書『バッシング論』は、無論、バッシングを肯定するものではなく「バッシング批判」論だ。

ならば、読者の多くは、当然、著者が本書で「日大アメフト部元監督・内田正人バッシング」だとか「日大理事長・田中英寿バッシング」といったことに触れていると思うだろうが、驚いたことに、そんなごく身近な実例(身内の話)には一言も触れず、女性新聞記者へのセクハラ事件を起こした、あの「福田淳一財務事務次官」に対するメディアによるバッシングを、忌むべき実例として言挙げしている。

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すでにこれだけでも、十分に恣意的であり、いかにもうさん臭い。

端的に言えば、本書は、著者が自身を「良識的第三者」に擬して、その欺瞞を鵜呑みにして信じてしまう「大衆」を「政治的傍観者」へと導いて、政権批判を封じようとする、悪質な「プロパガンダ(政治的宣伝)」の書なのである。

「権力者を批判してはいけません」と書いても、それは著者の「御用評論家」ぶりを丸出しにするだけだから、さすがに多くの人はそれを鵜呑みにはしない。だが、「確かに権力者も権力者なのだが、それを頭ごなしに批判して脚を引っぱることしか考えていない人たちは、もっと問題の多い存在である。だから、私たち冷静な第三者は、そうした政治的熱狂にとらわれることなく、政治というものをリアルにとらえていかなければならない」なんてふうに、ちょっと捻って書かれると、「私は無名のいち市民に過ぎないが、物事を冷静に判断して評価する目を持っている」という「過大な自負と承認欲求」にとらわれている凡庸な人々は、自身の立場を肯定してくれているような、この種の「傍観者肯定論」に共感してしまい、易々と「政治的無能力者」に仕立てられてしまいがちなのである。

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著者の、批評家としての「レベルの低さ」を示す証拠は、本書の中だけでも、数え上げたら切りがないので、ここではわかりやすい例をひとつだけ挙げておく。
それは、著者が意味ありげに繰り返す「辞書的基底の喪失」という言葉だが、これが意味するのは「物事の確定的(辞書的)意味が保証されない時代」だというだけの話である。
つまり平たく言えば、物事全般に「なにが正解なのか、わからなくなってしまったのが現代である」という、陳腐極まりない時代認識なのだが、こんなことは、何も今に始まったことではない。いつの時代にも、問題意識を持って考えれば、物事の確定的意味なんてものは、容易には決められないものなのだ。だからこそ人は「学び、考える」のである。

ところが、著者は、その当たり前の話を「辞書的基底の喪失」という思わせぶりな「造語」で強調し「そんな時代の人々は、だからこそ新しいものに跳びついて、伝統的な価値を蔑ろにし、自身や社会を不安定化させてしまう」と、「保守的伝統主義」に誘導するのである。

事ほど左様に、著者の書き方は、極めて「欺瞞的」である。
第1章「バッシング論」では、ある学者の発したひとつの不適切発言を採り上げて「今の日本は、テロリズムの吹き荒れた大正の時代にも似た時代であり、そのような時代にあって、権威ある知識人のこうした発言は、テロリズムを再来させる怖れすらある危険なものと問題視すべきである」というふうに「大仰に」語って、フレームアップして見せる。

しかし、一人の知識人がデモの熱狂に?まれて、思わず「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる」と、いささか芝居がかった台詞を発したからと言って、その当人を「軽卒でハッタリがましい」と批判するのならまだしも、それをもって「テロリズムの再来が危惧される」などと言うのは、それが「被害妄想」の類いでないのならば、危機を煽って人々を煽動しようとする「プロパガンダ(政治的宣伝)」の凡庸な一例に過ぎない、としか言えないだろう。
そして、そんな拙劣さに、すこしは自覚もあったのか、

『これは何も、筆者だけが思い詰めて思考実験をしているわけではありません。』(P25)

と、自分自身で予防線的にフォローしなければならないほどだった。

著者のこうした「欺瞞的態度」は、「中立的第三者」をこれ見よがしに「装う」態度にも明らかだ。例えば、

(1)『(※ 政治思想的には)自由主義と民主主義はこの両極に分かれます(筆者の立場が後者に近いものであることは、いうまでもありません)。』(P34)

(2)『あらかじめ私の立場をいっておけば、筆者もまた人文系の学問の重要性を痛感し、読書時間の減少や暗記科目化している歴史教育に危機を感じています。』(P43~44)

といった、不自然な「自己註釈」が、その良い例だ。

(1)は、個人の能力発揮を重視する実力主義の自由主義と、全体のボトムアップを重視する民主主義では、著者は民主主義の側に「近い」とアピールしているわけだが、無論、著者の立場が権力迎合的であり、権力批判を難ずる著者ならば「働き方改革における高度プロフェッショナル制度」などにも迎合的であろうと見られやすいので、予防線として「私は皆さんの側ですよ」とアピールしているに過ぎない。
また、(2)についても、人文系の学問を軽視して、経済至上主義的な実用性ばかりを重視する現政権の「大学改革」に、著者もきっと迎合的であろうと見られやすいため、著者は予防線として「いやいや私も、人文系学問の軽視は問題だと思いますよ。ただ、現政権の方針は、そんな単純なことなのでしょうか?」と、子供だましの「大学改革」正当化論を語ったりするのである。

ことほど左様に、著者の言い分というのは、極めて一方的な「印象操作」でしかない。

『現代社会にはまずもって「マジメ」で「美しい」社会をつくりたい人が溢れかえっている』(P39)

といった言い方も、「マジメ」に少しでも「美しい」社会をつくりたいと考えて、現安倍政権の「加計学園問題」や「公文書隠蔽問題」や「官僚の忖度虚偽答弁問題」やといった数々の問題を批判する人たちを、「単細胞」扱いにするものでしかない。

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それこそ、著者は「マジメ」とか「美しい」といった言葉の「辞書的基底の喪失」を促しこそすれ、適切かつ理想的な「辞書的基底」の構築に努力する気など、毛ほどもない人なのだ。

結局、著者のホンネは、

『安倍氏への、人格批判をふくめた個人攻撃には、ほとんど意味がありません。』(P85)

『あらゆる権力や秩序のウソを暴き立てることだけが、人間の営みではないのです。そうした暴力的な正義観が、善意から悪を生み出してしまう可能性を、本当の「人間」通なら自覚している。人は「政治」に一喜一憂するくだらない生き物だし、たとえ世界平和や核兵器の廃絶、原発廃止を求めていたとしても、しばしば民族感情で人を煽り、あるいは自分が煽られて踊ってしまうものです。この弱さを自覚してこそ、「人間」通になれる。安吾はこのようにいっているのではないか。』(P172~173)

といった言葉に露呈している。

たしかに「人格攻撃」が好ましいものでないのは、小学校で教わる程度の「常識」の類いだが、しかし、安倍晋三は一般人ではなく、日本の政治的トップである内閣総理大臣という「権力者」なのだから、その「人格」が問われ、批判されるのは、当然のこと。
彼が「加計学園問題」などように「お友達」に利益誘導をし、莫大な税金を好きに運用したのであれば、その行為と、その行為を支えた「人格」が批判されるのは、理の当然なのだ。

また、多くの人は「人間通」とやらになるために生きているような暇人ではなく、止むに止まれる現実と格闘しながら生きているのであって、坂口安吾が『堕落論』などで語った人間論とは、「人間通」などという薄っぺらなものとは、縁も所縁もない壮絶なものなのである。

この他、著者による、「天皇のお言葉」論や「杉田水脈」擁護論など、いずれも読むに堪えない、お粗末で恣意的「曲解」に満ちたものでしかないが、それは、まともに本を読んでいる人や、杉田水脈の常日頃の発言をチェックしている人には、もはや説明するまでもないことなので、ここでは割愛することにしよう。

それにしても、この程度のことしか書けない人でも、思想的に好都合であれば、教授職の務まるのが「日大の日大たる所以」なのだろうが、著者自身が、自分のことを「人間通」だなどと異様に高く買いかぶっているのは、滑稽の域さえ超えて、もはや笑えもしない「臆面もない自己喧伝」にすぎない。

(3)『言葉を本業とする者が「文体」を乱すということは、心が平衡を失っているということを端的に示します。そして哲学とは「人間」にたいし、あるいは自身にすら懐疑の目をむける、恐ろしく緊張した営みのはずです。にもかかわらず、感情という不安定なものの虜にされてしまっている。』(P163)

(4)『安吾は「政治」を嫌い、「文学」を擁護しました。だとすれば、「フクシマ」と「オキナワ」について語る際、筆者がとるスタンスは(※ 感情の虜になる哲学者のそれではなく)文学者のそれ以外にはあり得ません。』(P173)

これらは、哲学研究者である高橋哲哉を批判した言葉なのだが、この幼稚な論旨には呆れて果てる。
要は、高橋が現実の困難さについて、時に慨嘆したことをもって『「文体」を乱す』と言い、それを『心が平衡を失っているということ』を意味すると、短絡させて批判しているのである。
しかし、言うまでもないことだが、哲学者であっても人間なのだから、嘆くことも悲しむこともあるし、それをそのまま文章に表すことも、決して誤りでもなければ過ちでもない。そうではなく、むしろ「文学」の要諦とは、自他の心を直視して、それを偽らずに表現するところにこそあるのである。

そして、その意味からすれば、本書の著者である先崎彰容の「文学」論が、まったくの見当違いなのは明白だ。
それに、見かけ上の「文体を乱さない」態度というのは、詐欺師の「ポーカーフェィス」でしかなく、先崎ご自慢の「文体を乱さない」も、そうしたものでしかないのは、もはや明らかであろう。
そして、そんな先崎が、自ら「文学者」ぶって見せるというのは、「身の程知らずも甚だしい」と言うよりは、いっそ「盗人猛々しい」の類いでしかないのである。

ともあれ、私の、本書の著者に対する批判が「人格批判」の様相を呈してしまうのも、著者のこのような姑息な「欺瞞」が明らかである以上、避けることの出来ないものなのだ。

こんな著者の「欺瞞」すら見抜けないような凡庸な読者なら、煽られて「傍観的批評家」を気取るというのもやむを得ないことなのだろうが、その「欺瞞」に気づいた者なら、これを批判するのは当然のことで、ことさら「マジメ」でも「美しい」社会信仰者ではなくても、感情的にでも、批判せずには済まされない類いのことなのである。

繰り返すが、本書の著者は、アメフト部による反則タックル事件の、あの日大の、危機管理学部の、教授である。
そして、見てのとおり、著者は、本書で「権力批判は、人間通のすることではない」という御用評論家らしい屁理屈を展開し、それで「文学者」気どりをして見せる、ペテン的レトリック自慢の評論家なのだ。

しかし、そんな彼が「日大アメフト部元監督・内田正人バッシング」や「日大理事長・田中英寿バッシング」に触れなかったのは、さすがの彼でも、この「同僚・上司の問題として、自身も関係する身近な事件」に言及することは「やぶ蛇にしかならない」という、凡庸な保身が働いたからであろう。

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ことほど左様に、著者の書いていることは、敵にはレッテルを貼って貶め、大仰に誹謗する一方、自分たちに不都合な事実は、アリバイ作りとしてサラッと言及するに止めて「客観的第三者」を装い、それによって読者を「賢い傍観者になりなさい」と促すものでしかない。

もしも、読者が文章をまともに読む能力があるのなら、本書の著者の言葉の端々に、きっと「わざとらしさ」を感じることだろう。その「違和感」をしっかり握りしめて本書を通読するならば、私が気づいた本書の「欺瞞」など、誰にも明らかなものでしかないのである。

 ○ ○ ○

ちなみに、本書が「杉田水脈のLGBT差別問題」で廃刊になった『新潮45』誌の版元である新潮社からの刊行であるという事実は、決して偶然ではない。

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本書のように「中立を装って、読者を政治的傍観者へと誘導する」手法が、露骨なネトウヨ論壇誌と化していた『新潮45』亡き後の、「新潮新書」の意識的戦略のひとつあろうというのは、本書の前月に刊行された、物江潤『ネトウヨとパヨク』を見ても、十分にあり得る話である。

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自身『新潮45』でメジャーデビューした、保守派評論家の適菜収は、『新潮45』問題に触れて、次のように書いていた。

『最近の傾向だが、極端に頭の悪い人たち、ネトウヨのブロガー、デマゴーグの類いが、言論界に入ってきてしまった。出版不況が続く中、ビジネスと割り切り、モラルを完全に投げ捨てた編集者も増えた。』
(『もう、きみには頼まない (安倍晋三への退場勧告)』P29~30)

これは、正統派「保守」を自認する適菜が、安倍政権に迎合的な、『新潮45』デビューの最近の「えせ保守」評論家たちを評した言葉だが、デビュー時期はズレるにしろ、本書の著者である先崎や、『ネトウヨとパヨク』の著者である物江(元東京電力社員で、松下政経塾出身者)にも、十分に当てはまる話であろう。

私は、物江の『ネトウヨとパヨク』のレビューも書き、それをAmazonにアップしたものの、一ヶ月を待たず「削除」されてしまったが、おそらくこれは組織的な「違反通告」による削除要請があって、自動的に「削除および再アップ不能」措置が採られたものと推測される。
というのも、私の『ネトウヨとパヨク』レビュー、がAmazonのガイドラインに抵触しないものであるというは、他ならぬ『ネトウヨとパヨク』の著者も、公に認めたところであったからだ。
(※ 削除について、ツイッターで著者の物江に報告したところ、それが本音かどうかは別にして「著者も削除は希望しておりません。むしろ著者がやらせたと誤解をうけるだけ迷惑です」という趣旨のツイートをし、さらに別に掲載した当該レビューを読んだ物江は『レビューについて納得のいく部分が多かったので、反論ではなくて感想になります。』と、私の掲示板に、反省的な感想まで寄せているのだ)

したがって、「新潮新書」の最近の戦略を考える上での「参考資料」として、Amazonで削除になった、『ネトウヨとパヨク』のレビューを、本稿末尾に収録しておきたいと思う。是非ご参照願いたい。

(なお、当レビューがAmazon上から削除されるのは、時間の問題だと推測されるので、気になる方は時々チェックしていただければ幸いである。)

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 〈傍観〉批評家こそが最強(増補第3版)

  一一amazonレビュー:物江潤『ネトウヨとパヨク』

「自身の思い込みを一方的にわめき立てるのではなく、冷静な議論(対話)が出来なければならない」、ネトウヨやパヨクのような『まったく議論の出来ない人たち』になってはいけない。一一という「小学校の学級会」みたいなことしか書かれていないのが、本書である。
にもかかわらず、本書が過大に評価されることがあるとするなら、その「魅力」は奈辺にあるのだろうか。

それは、読者が著者とともに「私たちは、あいつらとは違うよね」という特権的な立場を共有し「あんなやつらとは、議論できないのも当然だよね」といった、「議論しないのは当然」という自己正当化の印籠となる点にあろう。

つまり、本書は「終章」で『それでも、対話をする心構えを持たなければならない』としているけれども、じっさいには終始一貫して『まったく議論の出来ない人たち(=ネトウヨとパヨク)』という規定を採用しているのだから、自分の主観で「こいつは議論できない相手(ネトウヨまたはパヨク)だ」と決めつけてしまえば、課題「当事者」としての議論に関わる義務を免除される、という構造になっている。

要は、「傍観者」であることを正当化してもらえ、「傍観者」として、その内心において「無責任」に「こいつら、どっともどっちだなあ。ネトウヨとパヨクの絡み合いだよ。こんなところに関わっても無駄なだけ」と、評論家気どりで、他人を見下していれば済むという、きわめて楽ちんな立場を保証してくれるのである。
これは、能力も気力も責任感もない、ごく一般的な人々には、とてもありがたい「自己免責・正当化」のための理論書ではないだろうか。

本書に書かれているのは、

(1)自身の思い込みを一方的にわめき立てるだけではなく、冷静な議論(対話)が出来なければならない。
(2)しかし(1)の出来ない人は、現にいる。それが「ネトウヨとパヨク」だ。
(3)しかし、ネットでは「ネトウヨとパヨク」が力を持ち、子供たちに悪影響を与えかねないので、対策が必要だ。

といったことなのだが、では(3)についての著者の具体案が何なのかというと「子供たちに悪影響が出る前に、最低限の知識を与えられるよう、教育制度を改革しなければならない」というものなのだが、著者自身「しかし、それは実現が極めて困難だ」と、すぐに取り下げてしまう。

では、どうするのかというと、要は「対話が出来るよう、訴えていくしかない」という、間違いないけれど今さら言うまでもない、無内容な結論に達してしまう。

しかも、これを訴える相手とは、もちろん「ネトウヨやパヨク」ではない。当然、そこは話にならないのだから、それ以外の「比較的まともな人たち」に対し「自身の思い込みを一方的に喚き立てるだけではなく、冷静な議論(対話)が出来なければならない」という「小学校の学級会」みたいなこと訴えていくしかない、という何とも「竜頭蛇尾」な結論に至るのである。

しかも、その際に心がけることは『魅力的なユーモアやレトリックを駆使した言葉を発する』(P217)ことだと言うのだから、もはや「何をか言わんや」である。

なぜ、こんな無内容な本を高く評価してしまう人がいるのか。
それは最初にも書いたとおり、〈傍観〉批評家的立場を、本書が実質的に保証してくれるからである。

「子供たちのために何かしなければ」と言いながら、実質的には何も提言できず、最後は「ユーモアやレトリック」でなどと、本気を疑わせるような提言で満足できるのは、ひとえに本書の主旋律が「バカは相手に出来ないよ。だから、賢い貴方はそんなことする必要がない」と保証する点にあり、さらには「あなたは、そういう(当事者責任を免除された)立場から、左右の知識人や言論人たちを、あいつらも所詮はネトウヨやパヨクに過ぎないと評価して満足していれば、それで良いのです」とまで言ってくれるからである。

その実例として、著者は、岸政彦が小川榮太郎の志操低劣な文章を評して書いた『恥知らずなほどあからさまで露骨な、文章とも言えないようなドロドロしたどす黒い何か』という表現が、感情的であり、相手を怒らせるだけで、対話を阻害するものでしかない、と否定して見せる。
もちろん、著者は、このように書いた岸の「気持ち」には一定の理解を示すものの、要はそれが「対話のためにならない」からダメだ、もっと相手の感情を気遣って、対話の継続が可能な表現(レトリック)にすべきである、ということなのである。

しかし、そこまで「ホンネ」を隠した「対話」を続けて、いったい何が得られると言うのであろう?

じっさい、岸の表現は、感情的かも知れないし、対話を阻害する部分もあるかも知れないが、それにしても、著者による『まったく議論の出来ない人たち(=ネトウヨとパヨク)』という「切り捨て」表現よりは、よっぽど「対話」の余地を残したものであることは言うまでもない。
著者自身は、あらかじめ『まったく議論の出来ない人たち(=ネトウヨとパヨク)』という「両極端」を切り捨てた上で、残り部分の「対話の可能性」を語っているだけであり、そんなご都合主義的な大義名分を振りかざし、他者への「表現狩り」を行うことで「我賢し」の立場を誇示しているだけなのだ。

現に、岸の小川に対する表現は「こいつ(小川)は話にならないやつだ」という感情を強く滲ませながらも、しかし「そのドロドロとしたどす黒い感情に気づけば、彼も変われるかも知れない」という「一抹の希望」を滲ませてもいる。だからこそ、岸の物言いは、このように強い表現になっているのだ。
だが、そんな岸とは違い、著者の場合は、初めから『まったく議論の出来ない人たち(=ネトウヨとパヨク)』という具合に、自身の意に添わない人間は「レッテルを貼って排除すれば良い」と思っているので、そうした恣意的排除に至るまでは「レトリックによって、相手をコントロールしよう」とするだけのものなのである。だから冷めているのだ。

では、著者が結論的に提案する「ユーモアやレトリック」とは、どのようなものなのか?

まず「ユーモア」であるが、私は本書に「ユーモア」と呼べるものを見いだすことが出来ない。
しかし、これは当然なのだ。意見の対立する相手に対し、下手に「ユーモア」を使えば、それはこちらでは「ユーモア」のつもりでも、相手には「アイロニー(皮肉)」に映ってしまう蓋然性が高いからだ。
つまり「ユーモア」というのは、ある程度の信頼関係があってこそ成立するものであって、本書が設定しているような「困難な対話の場」では、ほとんど役に立たないのである。
一一ということは、著者がここで「ユーモア」を持ち出すのは「もっともらしさの演出」でしかなく、つまり「読者に対するレトリック」でしかないのである(お気楽な読者は、単純に「ユーモアって大切だよね」と思ってくれる)。

著者の「読者に対するレトリック」は一目瞭然だろう。だが、「読めない読者」は、それにすら気づかずに、著者に煽て上げられ「いい気分」にさせられるだけなのであろう。

著者の、とてもわかりやすい「読者に対するレトリック」とは、まず「ですます調」の文体だ。
要は、「である調」「だ調」で書くと、同じ内容でも、著者が上から読者に教えを垂れているという印象を与えがちなのだが、「ですます調」だと、著者が下から読者に提案している「かのような印象」を与えるのである。

「レトリック」の重要性を強調する著者が、本書で「ですます調」を採用したのは、無論、意識的なことであり、読者をコントロールしようとしてのことである。
言い変えれば、本書は、「である調」「だ調」では素直には受け取られにくい「ご都合主義的な態度」を、「ですます調」を採用し、それに「私も人のことが言えた義理ではないですが」とか「私自身、つねに反省し自戒してます」といった趣旨の、これ見よがしな「謙虚ぶり」の装飾(レトリック)をふり撒くことで、読者をコントロールしているだけなのである。

で、これは著者が、前職で「クレーム対応係」として身につけた、演技的態度なのであろう。
腹の中では「このクソボケが」と思いながらでも、「神妙な顔」「真摯そうな態度」で相手の「ご意見」を傾聴し拝聴して「おっしゃるとおりです」「お怒りはごもっともです」「お客様のような方こそが、幣社の真の味方であると思っております」「貴重なご意見をありがとうございました」などと言って、(真の「対話」ではなく)ひたすら相手を「コントロール」することが「クレーム対応係」の仕事なのだから、「ですます調」を採用し、それに「私も人のことが言えた義理ではないですが」とか「私自身、つねに反省し自戒してます」といった趣旨の、これ見よがしな「謙虚ぶり」の装飾(レトリック)をふり撒くことなど、著者には「他者コントロール」の基本中の基本でしかない。

むしろ、著者のこのような「見せかけの態度」を鵜呑みに出来る人こそ、著者に内心で見下されるであろう、きわめて「ナイーブな読者」なのだと言えるだろう。

結局のところ、本書で、何が為されているのかと言えば、それは「対話の必要性の強調」ではない。
それは「タテマエ」に過ぎず、本当の目的は、自身を「傍観的批評家」という「特権的立場」に据えて、「我賢し」というその鼻持ちならない態度を、傍目に気づかせないようにすることでしかない。

本書で為されているのは、「対話が大切ですよ」という「第三者的」正論でしかなく、「当事者」としての対話・言論そのもの、ではない。
自身は「対話当事者」にはならず、「対話当事者」を批評する「第三者」というお気楽な立場に立って、第三者ゆえのご高説をたれるに過ぎないのである。

例えば、本書で紹介される印象的なエピソードとして「東日本大震災の支援に入った、国民的有名歌手」の話。
それは「ある国民的有名歌手が、被災者支援のために被災地での活動に入った。だが、当時すでに、被災者の中でも、そして被災者と被災者以外の住民との間でも、格差と軋轢が生じていたので、著者は、そのあたりを調整する係員として、その歌手に、歌手が支援の対象と目していた一部被災者だけではなく、そのほかにも目を向けて、バランスの良い支援を行ってほしいと依頼したのだが、歌手はその提案を聞き入れず、自分の目的はそこにはないと激高した」というものである。

ここでの著者の書き方は「この国民的有名歌手もまた、自分の正義に凝り固まった、対話の出来ない、ネトウヨやパヨクの類いである」というものだ。

しかし、これは著者の勝手な決めつけであり「印象操作」であって、公平な評価とは言えない。
というのも、この歌手が誰に救いの手を差し延べようと、それは彼の勝手であって、基本的には、他人が利口ぶって、とやかく「指図」することではないからである。

もちろん、提案するのはかまわないが、著者自身が「金を出す」わけでも「直接手を差し伸べる」わけでもなく、あくまでも行為主体(当事者)は歌手その人なのだから、彼の意向を尊重して、彼に出来ることをさせてあげれば良いのである。
それを、著者の(第三者=直接当事者ではない立場からの)提案に聞き従わない、つまり「コントロール」に従わないからといって、「独善家」呼ばわりするのは、それこそ「独善家」の態度でしかない。

著者は、いつでも「下手から他人をコントロールしようとする」人なのだろう。
だからこそ、それに従わない人間は「独善的なバカ」と映るのだろうが、しかし、著者のそうした「心根や下心」が透けて見えたからこそ、その歌手は「俺は俺のやれることをやる。おまえがそう思うのなら、そっちはお前に任せるから、お前がやればいいだろう」となっても、何の不思議もないし、これは「正論」ですらある。
誰も彼もが、全体に公平に手を貸さなくてもいい。出来ることを出来る部分で担当すればいいのである。

自分では金は出さず手も汚さず、口八丁で他人をコントロールして、それを自分の成果にしようとするような人間には、そうした歌手のような存在は「使えない道具」であり「役立たず」なのだろう。
だが、多くの人が、実際には何もしない中で、正義感にかられて支援に乗り出したその歌手は、それだけで立派な人でなのあり、それを「物わかりが悪いバカ」扱いにする者の方が、よほど「傲慢」なのである。

誠に、そこまで言うのなら「全体観のあるバランスの良い行動が大切ですよ」とか「冷静な対話が大切ですよ」といった「メタレベルの提言」に終始するのではなく、「支援当事者として直接被災者を救う」とか「対話当事者として、具体的な意見を出して議論する」とかして見せろ、ということにならざるを得ない。
しかし、それを実行したならば、著者がやれるのは「相手が議論にならない人だから、しかたなく撤退しました」という自己正当化に終るのが関の山だろう。
しかし、こんな「傍観批評家」的な人ばかりでは、残念ながら、世の中は回らないのである。

さて、このように見ていけば、著者の本質が見えてこよう。

著者が「ですます調」を採用し、それに「私も人のことが言えた義理ではないですが」とか「私自身、つねに反省し自戒してます」といった趣旨の、これ見よがしな「謙虚ぶり」を自己喧伝したところで、それは、著者自身認めている「レトリック」でしかないのだ。

人の「主張とホンネ」がいつも一緒なら、読者に読解力は要らないし、詐欺被害に遭う人もいないだろう。だが、現実はそんなものではない。
「文章」を読むとは、「著者の主張を理解する」に止まらず「著者のホンネと人柄を読み解く」ものでなければならない。そうでなければ、そんなものは「読書」の名に値しないのである。

(以上「である調」表記で)

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 【補記】どちらが正しいか? (2019.06.05)

当レビューは、一昨々日・令和元年(2019年)6月2日に投稿し、昨日・同年6月4日の午前11時04分に、amazon上に反映されたもの(amazonからの通知メールで確認)であるが、同日午後5時ごろ、削除されているのを確認したため、本日・同年6月5日に再アップしたものである。
その際に、この「補記」を加え、タイトルに「増補版」と付け加えた。

このような削除は、閲覧ユーザーが管理者宛に違反通知をすると自動的になされるもののようだが、削除されたレビュアーが納得しなければ、再アップできるシステムとなっているようだ。
掲載の可否や妥当性は、最終的には管理者が判断するしかない、ということだろう。

それにしても、当レビューで扱った、物江潤の『ネトウヨとパヨク』(新潮新書)は、議論のできない「ネトウヨやパヨク」のような存在になってはならないと「対話の重要性」を訴えた本である。
そして、その本の「欺瞞性」を、根拠を示して批判したのが私のレビューなのだが、この批判に対して、「反論・批判」ではなく、問答無用の「削除」に訴えるとは、何とも皮肉な行動ではないだろうか。

私の批判が、いかに辛辣かつ正鵠を射たものであろうとも、さすがに著者自身が、自身の主張とは真逆な、「削除」という言論封圧の挙に出たとは思いたくない。
そう考えるくらいなら、拙レビューの中で批判されたにも等しい、絶賛レビュアーたちのうちの誰かが、腹立ちまぎれに、私のレビューを(匿名で)誣告した可能性を考えた方が、まだ救いもあろうというものだ。

しかし、いずれにしろ、本書『ネトウヨとパヨク』に対する、私の酷評が正しいのか、それとも他のレビュアーの絶賛評が正しいのか、両方を読み比べて判断する権利が、amazonレビューの利用者にはあるはずだ。

否定評価を抹殺することで、誰もが本書を誉めているように「見せかける」などというペテンは断じて許されないし、amazonユーザーも、amazon自体も、そんなことは望んではいないはずだ。

よって、ここに拙レビューを再アップして、amazonレビューユーザー個々の判断に供するものである。

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 【補記2】2度目の削除 (2019.06.06)

上の【補記】で報告のとおり、一昨日削除された投稿を、昨日再アップし、今朝までに4件の「参考になった」をいただいたが、また先ほど、2度目の削除が為されたので、この【補記2】を加えて、3度目の投稿をする(「参考になった」数は、再アップすれば持ち越されるので、ご安心を)。

なお、私は、以前にもこのような目にあっているおり、何度削除されようと、何度でも再アップを繰り返すので、「匿名の誣告者さん」は、そのつもりで、いていただきたい。
このような「陰湿な行為」が繰り返されれば、まさにそのことによって、このレビューが注目され、本書『ネトウヨとパヨク』の悪評判が高まり、さらに著者の悪評判が高まるということを、すこしは想定していただきたいものだ。

さらに『著者へのお願い』だが、著者もまだ2冊目の著作なら、本書の評判が気にもなるだろうし、このAmazonレビューも、きっとチェックされていることだろう。
それならば、このような「言論封圧」としての「削除」が為されないように、作家のファンや関係者に「そのような卑怯な振舞いは現に慎んでほしい。著者はそのような行為を望んではいない」旨のコメントをしていただきたい。
著者自身も書いているように、イマドキの子供は、ネットの影響で、よくも考えずに、こういう陰険なことをやらないとも限らないし、それは著者の塾生の諸君も同じなのだから、教育的配慮としてでも、それをしていただければと思う。

さて、拙レビューに「参考になった」を押して下さった奇特な方は、今後もこのレビューをめぐる動向にご注目下さい。
本書『ネトウヨとパヨク』支持者(擁護者)の「ある一面」が窺える行動を、目の当たりにできる、これは絶好の機会だからです。

〈参考〉
稲垣良典『神とは何か』のAmazonレビュー
「神の不在ゆえの護教的欺瞞と高慢
(改訂5版)」
2019年2月5日・3月23日・3月24日・4月5日・4月30日・5月4日

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 【補記3】3度目の削除 (2019.06.06)

上に続いて、本日二度目の削除である。まさに「削除ストーカー」被害とでも呼ぶべきだろう。

こちらを削除するだけでは飽き足らず、上にご紹介した、稲垣良典『神とは何か』のAmazonレビューも削除してくれた。まったく「言論」も「対話」もあったものじゃない「犯罪性格者」の仕業である。

この件についてはtwitterで、『ネトウヨとパヨク』の著者である、物江潤氏にも直接、下のようにリプライを送って報告しておいた。気づかないといけないので、何度か送っておこう。

> @monoejun #物江潤『ネトウヨとパヨク』(#新潮新書)について、#Amazon に批判的なレビューを書いたところ、何度も削除され、何度も再アップしています。「対話が大切」と訴える本ですが、著者のファンはそうではないみたい。物江さん、是非チェックを。#ネトウヨ #パヨク #原発 #東日本大震災

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※ 【補記3】を増補した、上の「〈傍観〉批評家こそが最強(増補第3版)」が、Amazon上に反映されることはなかった。

初出:2019年6月30日「Amazonレビュー」
   (同年11月20日、管理者により削除)
再録:2019年 7月 1日「アレクセイの花園」

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