見出し画像

賀茂道子 『ウォー・ギルド・プログラム GHQ情報教育政策の実像』 : 日本人としての 〈真の勇気〉

書評:賀茂道子『ウォー・ギルド・プログラム GHQ情報教育政策の実像』(法政大学出版局)

占領軍の行った情報統制の意味を、日本人が満足に理解できない最大の理由は、占領時、GHQがいかに強調しても理解されなかった、先の戦争における「日本に対する罪」という点ついて、今もなお、その理解が困難だからではないだろうか。

この「日本に対する罪」とは、戦勝国である連合国による、敗戦国である「日本に対する罪」ということでは、当然ない。
戦時における、日本国家による「日本という国および自国民に対する罪」という意味である。

つまり、GHQが問題にしたのは、日本による「他国や他国民、他国兵士に対する罪」だけではなく、「自国や自国民、自国兵士に対してなされた罪(組織的な虚偽、抑圧、暴行、人権侵害等々)」をも問題にしており、これらは、日本が戦争に勝とうが負けようが、その責任を問われなければならない罪である、という認識から来るものだ。

しかし、ここまで説明しても、まだピンと来ない人は少なくあるまい。
今ですらそうなのだから、戦後すぐの日本人に理解しにくかったというのは、容易に想像できよう。
そこで、ここでは譬え話で説明を試みる。

「オウム真理教事件」というものがあった。この事件についての説明をしていては長くなりすぎるので、ここでは簡単に「被害妄想的な観念に捉われた、宗教教団であるオウム真理教が引き起こした、一連のテロ事件」としておこう。

平成最後の年である平成31年が、同年5月1日から令和元年に切り替わるその直前、長らく死刑執行待ちで拘留されていた、同教団の教祖と、その指示の下「地下鉄サリン事件」に直接的に関与したとされる最高幹部らの死刑が、一斉に執行された。
世界でも類を見ない都市部における化学兵器を用いた大規模テロである「地下鉄サリン事件」など、日本人の想像を絶した宗教テロ事件としての「オウム真理教事件」は、首謀者である教祖ら多数が検挙され、事件が一応の解決を見た後も、今日までジャーナリズムや宗教社会学をはじめとした多方面からの研究・検討がなされて、その「異常性」が明らかにされてきた。

また、そうした刑事訴追と徹底した批判的分析評価によって、教団は壊滅的な打撃をうけたのだが、しかし、教祖が一般信者に隠して行っていた各種の犯罪行動が暴かれてもなお、教祖への信仰的帰依を捨てない信者が一定数残り、国家の監視下にあってなお、今も徐々にではあれ信者を増やしている。

さて、オウム真理教信者の家族は、一般信者もまた、オウム真理教の「被害者」であると考えた。
教団の真実を十分に知らされていなかったのだから、信者の多くは「騙されて、洗脳されていた」と考え、教団の解体後には、そうした元信者たちに対する「洗脳外し」が試みられ、事実を知らされた多くの元信者は、教祖への信仰を心から捨てもしたのである。

しかし、それでも、教祖への信仰を捨てなかった者も、また一定数残った。
彼らは、世間が知らせた「真相」ではなく、「教祖の教え」を頑なに信じたのだ。

つまり、世間から見れば、彼らは「洗脳が解けない、哀れな被害者」なのだが、当人たちには自分が「被害者」だという意識はまったく無く、むしろ世間の方が「国家権力に騙されているのだ」という認識だったのであろう。

同様に、CHQから「ウォー・ギルド(戦争遂行行為の有罪性)」を「周知教育」されながら、それを「プロパガンダ(政治的宣伝)」であり「洗脳」であるとして耳を塞ぎ、現実直視を拒絶した「一部の日本人」もまた、「真相を知らされてもなお、信仰を捨てないオウム真理教信者」と同様の状態にあった、と言ってよいのではないだろうか。

たとえ、天皇が「現人神(生き神)ではなく、ただの人間であった」と自供(人間宣言)しても、戦中に軍部が国民に伝えていた戦況(大本営発表)が「嘘八百」だったと知らされても、つまり、国民は天皇や政府に騙されて、戦争に使役されていた「被害者」であるといくら知らされても、「一部の人たち」は、そうした現実に向き合おうとはせず、むしろ、自らの「信仰」に固執し続けたのである。

したがって、いくらGHQが、戦中の日本政府が自国民を謀って「国民と国家体制に対する罪」つまり「日本に対する罪」を犯していたのだと伝えても、「国家による洗脳が、すでにアイデンティティーと一体化していた人たち」には、自身が、自国政府に欺かれた「被害者」であるという「あられもない自己認識」は、自我を崩壊させるに等しいものとして、とうてい受け入れ得るものではなかったのだ。

そしてそんな人たち、いまだ「敗戦によって知らされた現実」のショックから立ち直れず、頑なに「日本人は、進駐軍の洗脳にかかったままだ」などと主張するのが、「ウォー・ギルド(・インフォメーション)・プログラム」を、「洗脳」であると主張し、「自分たちだけは真実を知っている」と主張する、故・江藤淳をはじめとする「日本会議」や「ネット右翼」系の「歴史修正主義者」たちなのである。

彼らにとっては、「天皇は、天孫降臨の神の末裔(である現人神)」であり、「八紘一宇」の世界万民は「天壌無窮」の天皇の「御稜威」に照らされてこそ、真の幸福を得ることができる、といった世迷い事(宗教的妄想)こそが「真理」であって、そうした「宗教的洗脳」に対するGHQによる「洗脳外し」は、逆に「悪しき洗脳」だということになる。

オウム真理教の強信者が、国家や世間の主導する「洗脳外し」をこそ「洗脳」であると主張するのと同様に、GHQによる「洗脳外し」の手段たる「情報統制」を、「悪しき洗脳」だと主張するような人たちが、いまだにいるのだから、GHQの言う「日本への罪」という言葉の意味とその重みを、戦後の間もない時期の日本人の多くが(司法権力によって、教団を強制的に解体された直後のオウム信者と同様に)理解できなかったのも、止むを得ないことだったのであろう。

それに「洗脳外しもまた洗脳である」というのは、決して間違いではない。「洗脳外し」とは、言うなれば「逆洗脳」であり、「毒をもって毒を制す」みたいなもの。
病原体が人体内で発する毒を制するために、薬という病原体にとっての毒を服用させるというのと、同様だと言ってもいいだろう。
要は「薬も、毒の一種である」というのと同じ意味で、「洗脳外しもまた、洗脳の一種」だというのは、決して間違いではないのである。

しかし、人体に仇なす病原体の毒と、病原体に仇なして人体を救う薬とを、同一視して「毒」と呼ぶのは、間違いである。
それと同様に、日本国家が国民に対して為した「嘘による洗脳」と、戦後にGHQが日本国民に対して為した「解毒(洗脳外し)としての情報統制(禁煙禁酒に類する隔離施策)」を同一視するのもまた、明らかに間違いであろう。

だが、「国家権力によって弾圧されたと信じる、オウム真理教信者」たちが「国家によって解明された真相」を頑なに拒絶するように、「戦勝国に蹂躙されたと信じる、一部の狂信的日本人」は「GHQによって明かされた真相」を、やはり頑なに信じようとはしなかった。

両者に共通するのは、その「被害者意識の強さ(=加害者意識の希薄さ)」であり「ご都合主義的に主観的に過ぎる、その視野の狭さ」だと言えるだろう。
言い換えれば、自己中心的に視野が狭いからこそ、自己の主観・感情にとらわれて、事実を冷静に客観視することができない。だからこそ彼らは「反省(自らを省みること)ができず、他者批判に明け暮れる」ことになるのである。

そして、こうした「心理傾向」に着目し、本書と江藤淳の『閉ざされた言語空間 占領軍の検閱と戦後日本』を読み比べてみるといい。
どちらに「冷静さ」があり、どちらに「ルサンチマン」が渦巻いているかを、その眼で見比べてみるべきである。

「文芸評論家である江藤淳の文章は、高尚すぎて難しい」というような、日頃あまり「硬い本」を読まない、活字に馴染みのない読者には、江藤に近い「日本会議」系、あるいは「ネット右翼」に人気のある、学者や政治家、タレントの手になる、「誰にでも読める」本を読んでみることをお勧めしよう。
「被害妄想」のある人が、「陰謀論」などのトンデモ本に惹かれるような「魅力」が、その種の本には、きっと濃厚に漂っているはずだ。
「世間の人たちは知らないが、我々だけは、世間に隠された陰謀の秘密を知っている」という調子の、理性はなくても、感性で楽しめるノリの本である。

そして、そうした人たち(書き手と読み手)に見られる偏頗で薄っぺらな知識とは比べるべくもない、本書の著者による、研究者らしい地道かつ徹底した博捜に基づく誠実な分析を(読めるものなら)読んでみるといい。真実を探求する学問的営為が、いかにストイックで清潔なものであるかを、再確認させてくれるはずだ。
つまり、いくら本書が高価だからといって、読みもしないで「誹謗」レビューを投稿する「ネット右翼」のような人たちとの、「人としての品格の違い」を、少しは感じるべきなのだ。

私たちは「自国の歴史」に対し、自堕落な願望を投影して依存するがごとき、傍目に恥ずべき「自慰」に耽るのではなく、つらい現実にも向き合う、凛とした勇気を持つべきなのだ。そうした、真の意味での「誇り高き日本人」であるべきなのである。

初出:2019年12月11日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○






























この記事が参加している募集

読書感想文