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政治的パフォーマー・ パル判事の実像 : D.コーエン、 戸谷由麻 『東京裁判「神話」の解体 パル、 レー リンク、 ウェブ 三判事の相剋』

書評:D.コーエン、戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体 パル、レー リンク、ウェブ三判事の相剋』(ちくま新書)

本書において、特に問題にされるのは、ネトウヨや自称「保守」たちによって「英雄」視されてきた、インドのパル判事に対する、明確な否定的評価の部分だろう。

著者たちは、パルが東京裁判において行った「反対意見(パル支持者からは「パル判決」などと大仰に呼ばれる)」は、パル個人の「政治イデオロギー的な意見発表」でしかなく、「判事」としての努めを初手から放棄した「パフォーマンス」でしかなかった事実を、パルの意見書の記述に即して、法学的に明らかにしている。

どうしてこのような当たり前の研究が、日本においてこれまでなされて来なかったのかと言えば、それは日本においては、東京裁判は、日本の自己正当化をするための「政治案件」であって、国際法に基づいて判断されるべき「法的案件」ではなかったからだ。いきおい、議論は「政治闘争=ネトウヨの言う歴史戦」と化して、法学的な研究の対象にはなり難かったのである。

言うまでもなく、日本の側としては、日本が戦争において行った数々の犯罪的行為を「立場上、仕方がなかった」「他国もやっていた」という理屈で、少しでも自己弁護し正当化するしかなかった。
しかしそれは、喩えて言うなら、凶悪犯罪を犯した者が「心神耗弱」や「心神喪失」といったことを訴えて、自己の行ないの有責性を否定し、文字どおり「やむを得なかった」ということ証明して、無罪を勝ち取ろうとするのと、まったく同じことだ。そんな「免責要件」が、事実としては無かったとしても、である。

もちろん、戦争犯罪を犯したのは日本だけではない。しかし「あいつらもやってるんだから、俺だけ問責されるのはおかしい」と言い訳は、あまりにも幼稚で無責任である。なぜなら、その言い草には、多くの被害者たちへの罪責感が、欠片も無いからだ。
もしも日本人に本物の誇りがあるのであれば、自分のやったことの責任をきちんと取ってから、他人の行ないをも質すべきだが、自己の責任回避しか考えていないからこそ、「あいつもこいつもやっている。私だけが責められる筋合いはない」という、見苦しい言い訳になってしまうのである。

同様の意味で、パルも東京裁判の判事を引き受けたのであれば、判事としての努めをキチンと果たした上で、自分の意見を言うべきであった。つまり、日本人戦犯の個人責任をきちんと問疑して、然るべき責任を問うた後に、戦勝国の犯罪をも問う場を設ける努力を「法律家」としてすべきであったのだ。
だが、彼は「判事という肩書き」を欺瞞的に利用して、自己の「政治的パフォーマンスの舞台」を得ただけだったのである。

実際のところ、パルがこのような「政治的パフォーマー」であったからこそ、彼はネトウヨや自称「保守」たちにとって利用価値があり、「英雄」にでっち上げるだけの価値のある存在であった。
しかしそこには「政治的打算」しかなく、パルという人への客観的な評価などは欠片もない。「敵の敵は味方」という卑しい打算があっただけだ。

ネトウヨや自称「保守」たちの「倫理」とは、所詮そうしたものでしかない。だからこそ「根拠も示さず」に反論したつもりにもなれる。
彼らにあるのは「倫理」でも「論理」でも「矜持」でもなく、臆面のない「声のデカさ」だけなのだ。

初出:2018年12月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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