見出し画像

門井慶喜 『定価のない本』 : ネトウヨ的 〈愛国心発揚〉ミステリ

書評:門井慶喜『定価のない本』(東京創元社)

酷い駄作である。単なる「駄作」ならまだいいが、中身が積極的に「酷い」のだ。
きっとこういうものでも、ミステリしか読まない(あるいはエンタメ小説しか読まない)人(含む編集者)なら楽しめるのかも知れないが、「日本の歴史」をまともに勉強したことがある人にとっては、その軽薄な「愛国史観」あるいは「自慰史観」が、あまりに「馬鹿馬鹿しい」としか映らないような、敗戦国小説家の「負け惜しみ小説」でしかない。
著者は、ネット右翼並みに「加害者意識」に乏しく、その分「被害者意識」が強いため、同じような心性の下に書かれた、江藤淳の『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と言語空間』あたりの影響を受けて、本作を構想したのかもしれないが、そんな著者だからこそ逆に、現今の自主規制的な言葉の不自由については、完全に鈍感なのであろうし、またそのくらいな方が、エンタメ作家としては、読者にも理解されやすいのかも知れない。

思想史家の白井聡に『永続敗戦論』があるが、なぜ日本は戦後も「敗戦」し続けるのかと言えば、「敗戦」という現実を直視せず、それを頭の中でフィクション的に否認し続けてきたからにほかならない。
坂口安吾が『堕落論』で「生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救いうる便利な近道がありうるだろうか」と書いたことの意味を、まったく理解していない通俗小説家が、ここにもいたのである。

本作は、ミステリとしても、およそ「論理性」の欠片もない作品であり、「密室殺人」めいた事件も発生するが、その謎解きは、仮説も真相も、「非論理的」を通り越して「非現実的」なものでしかない。
いちおう「ミステリ」の体裁を採っているので、ネタばらしは控えておくが、その酷さは、例えば「古本屋が、本の重さを知らない」というくらいの「非常識」に立脚した、馬鹿馬鹿しいものでしかないのだ。

そして何よりこの作品には、エセ愛国主義者にありがちな「権威(依存)主義」が、はっきりと見て取れる。
つまり「日本の歴史」とか「古典」や「和本」とか「神田神保町の古書肆街」とか「太宰治」といった、中身を問う前に、ひとまず多くの人がその「名称」だけで畏れ入ってしまうようなものの「権威」に、依存し切って構成された作品なのだ。

本書は「神田神保町の古本屋の心意気」みたいなことを描いて、それへのオマージュを捧げたつもりなのかも知れないが、こんな「歴史的無知」に支えられた荒唐無稽な作品でオマージュを捧げられても、それを喜ぶのは「日本の歴史」に無知な古本屋に限られるだろう。言い変えれば、社会学書や思想・哲学書を専門とするような古本屋なら、あるいは「教養ある古本屋」なら、怒り心頭に発して、本書を地面に叩き付けること、必定である。
だから本書は、「神田神保町の古書肆街」の、「文芸書」を扱う古本屋さんだけではなく、それ以外の各種専門書を扱う古本屋さんにも、ぜひ読んで欲しいと思う。そして、神保町の古本屋の皆さんが知らないうちに、「神田神保町の古書肆街」の「名前」が、このような「歴史修正主義的なフィクション」に利用されているという現実を知っていただきたい。

こんな「現実には負けた者が、敵を馬鹿で卑劣に描くことで、ありもしなかった勝利を仮構して、自己慰撫をするようなフィクション」というのは、「天皇家は、アマテラスオオミカミから連綿とつづく万世一系の家系である」というフィクション(政治神話)と同様の、哀れな「大衆向け現実逃避の具」でしかないのである。

——————————————————————
【付記】
本書と同系統の歴史フィクションについて、以前、amazonレビューを書いているので、ついでに紹介しておきたい。本書を楽しめる読者にはオススメである。

伊東潤『真実の航跡』(集英社) レビュー:〈百田尚樹系〉戦犯裁判小説


初出:2020年9月22日「Amazonレビュー」

——————————————————————————
【追記】(2019.10.8)

本書について「kumatarou96」氏が興味深いレビューを書かれていたので、下のコメントを書かせていただきました。

————————————————

今こそが「危機」の時代かも知れないというご意見に、同意します。
本を読まないというのは、本当に危険なことだからです。

というのも、本を読まない人であればこそ尚更、読書の必要性なんてまったく感じられないので、「読書の必要性などない」ということの方が「真理」であり「現実」のようにしか見えない。なにしろ「無知」なのだから、彼らがそう感じるのも無理のない話だとも言えましょう。

言い換えるならばこれは、読書のする者だけが「無知の危険性」を知っている、ということになりましょう。
何も知らない人は、自分が知らないということも知らないし、それがいかに自分の認識を誤らせているかも知らないので、なんの悪気もなく、自信満々に、誤った現実認識を語ってしまう。

例えば、ミステリをあまり読んでいない人が、新作ミステリを読んで、そのトリックに驚嘆した。「こんなの読んだことない。凄いトリックだ!」と感動して、その感動のままに、amazonレビューを書いたりする。曰く「前代未聞の大トリック! 貴方もきっと、騙されます」。

しかし、すれっからしのミステリ読みには、こうしたナイーブな感想は、ただただ鼻白ませれるものでしかありません。
なぜなら「そのトリックは、百年も前に、海外の某作家によって案出されたものであり、その後、同じトリックを使った作品は、内外に山ほどあるんだけどなあ」と知っているからです。

つまり、その初心者さんは、嘘をついているわけではなく、正直な感想を書いただけなのですが、いかんせん「無知」だったが故に「前代未聞」だなどという誤った情報を、世間に撒き散らしてしまった。悪気は無かったのですが、やったことはそういうことです。
だから、彼に罪があるとしたら、それは自分の「無知」を疑うことをしなかった、ということでしょう。

しかし、こうした「無知」を指摘されて、それを素直に認められる人というのは、めったにいません。
と言うのも、読書家というのは、小学生から老人まで、みんな、読書家としての自負を持っているからです。

私が案出した格言に「本を読むほどの人間なら、みんな自分が賢いと思っている」というのがあるのですが、これの意味するところは、そういうことです。
客観的には、偏頗な知識しか持っていなくても、自分が興味を持つジャンルについて、ある程度の知識を持っていれば、もう「 ひとかどの知識人」になったつもりになってしまう。

しかし、言うまでもなく、世界は広く、書物は無限に存在し、一人の人間が生涯で読める本の冊数とは、たかだか1万冊にも及ばない。
私は、あるミステリマニアのサークルに昔から所属してて、そこには「ミステリの鬼」なんて言われる会員がいますし、実際、翻訳だけでは足りず、原書まで読んでいて、いったいこの人はどのくらい読んでいるんだと圧倒されるような人が何人もいます。
しかし、当然のことながら、そういう人は、他のジャンルについてはそれほど読んでいない、と言うか、読めるはずがないのです。時間は限られているのですからね。

つまり、いろんなジャンルをあれもこれも読んでいる人ほど、いかに本が読めないものかというのをよく知っています。そして否応なく、自分の限界と無知に向きあわざるを得なくなる。
しかしまた、そんな人が本当に「無知」なのかと言えば、そうではないでしょう。広く世界全体を見渡せるからこそ、自分の「無知」に気づけるのであって、自分の狭い部屋の中が世界のすべてだと思い込んでいる人(井の中の蛙)の「全能感」の方が、よほど「無知」の名にふさわしいのです。

エーコは、私も好きな作家です。『薔薇の名前』だけではなく、無理をして記号論の本を読んだりもしましたが、エーコもまた「知への渇仰」に生きた人だと言えるでしょう。
そして、エーコにも『永遠のファシズム』などの、危機意識を語った本がいくつもあります。

『薔薇の名前』と、アリストテレスの『詩学』のレビューにも書きましたが、『薔薇の名前』の主人公である修道士探偵バスカヴィルのウィリアムは、キリスト教徒でありながら、科学的な知をつきつめることで「真実」を知りたいと願う「知の人」でした。
だからこそ、彼は事件の真相をつきとめたのですが、しかしその真相とは「信仰」の現実的問題点をあからさまにするものでした。だからこそ、事件を解決した彼の表情は、決して明るいものではなかった。

バスカヴィルのウィリアムは、実在の神学者オッカムのウィリアムの友人という設定になっていますが、要はオッカムのウィリアムこそが、バスカヴィルのウィリアムのモデルです。
オッカムのウィリアムは、科学的合理的な知をつきつめようとした人であり、それは何より神への信頼においてなされたものなのですが、しかし、彼のその真相究明への飽くなき姿勢は、教会の教えに沿わない「異端」とされ、意見を曲げなかった彼は破門され、命を狙われて、逃亡の地で客死します。
つまり、バスカヴィルのウィリアムの影とは、こうした知の宿命を二重映しにしたものだったのです。

ことほど左様に、「無知」とは、妬み深く危険なもの。
私は、本書『定価のない本』のレビューで「被害者意識の強さ」という問題を指摘しましたが、これはオッカムのウィリアムに対する教会側の意識でもあったでしょう。教会は、自分たちの信仰が、オッカムのウィリアムの「異端の説」に傷つけられているという「被害者意識」を持って、加害者となったのです。

これは、ネトウヨでも自称「保守」でも江藤淳でも同じ。彼らは、極めて「被害者意識」の強い人たちであり、自分たち日本人のしたことは都合よく忘れて、自身を被害者だと思い込める「無知の人」なのです。

江藤淳は、GHQの言論統制を批判しましたが、しかし、GHQの言論統制は、戦中の日本政府による言論・思想統制を中和し無効化するためのものだったとも言えますし、終戦にあたって、従軍慰安婦だとか民間人虐殺だとかいった、自分たちに不都合な資料を燃やし証拠隠滅したのも、日本人です。
昨今も、公文書の改ざんだ隠蔽だ隠滅だなんてことが取りざたされる日本の政府ですが、これは日本の伝統であって、GHQだけがやったことでは全然ない。例えば、『古事記』『日本書紀』などは、勝者である大和朝廷によって作られた「歴史修正文書」だというのが、歴史的事実です。

しかし、日本の歴史に無知な人は、こんなことも知らずに、その「無知」を指摘されれば、自分が知的に見下されたという、妄想的な「被害者意識」をたぎらせて、無自覚に自己正当化に励むのです。

まことに「本を読まない」ということに象徴される「無知」とは、かように危険なものなんですね。

長文失礼しました。

——————————————————————————
【追記2】(2019.10.16)

「古本虫がさまよう」氏が、レビュー「古本屋の店主が探偵になり、古本・古書・古典籍を巡る歴史ミステリというのがミソの一冊。娯楽小説として楽しめる一冊」のなかで、次のように指摘している。

『いわゆるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program、 略称:WGIP)という言葉は作品の中では出てこないけど、それに類するテーマ小説といった感じ。西尾幹二氏の一連の作品『GHQ焚書図書開封』 (徳間書店)にも相通じるところがあるといえよう。』

私は、ドイツ文学者で評論家の西尾幹二の当該著作を読んではいないが、西尾が「新しい歴史教科書をつくる会」の設立人の一人として活躍した人物であることは、広く知られているところである。つまり、ネトウヨ的な「自己正当化史観」に、理論的根拠を与えてきた人物の一人である。

なお、西尾の陰謀史観的な「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」理解に対しては、日本政治外交史、占領史研究の研究家である加茂道子が『ウォー・ギルト・プログラム GHQ情報教育政策の実像』(法政大学出版局)を書いているので、参照されたい。

ちなみに、加茂の当該著作についてのレビュー欄もまた興味深い。

『ウォー・ギルト(インフォメーション)プログラムとは、そもそもどのようなものか、その成立過程や意図とはなんだったのかという「歴史学」的分析の端緒を開く書となる一冊です。』

と紹介しているレビュアーもいれば、

『GHQの思惑どおり』
『昭和天皇は日本の真の復興には300年かかると仰せになりました
日本人の精神の復興にはこのどん底から
這い上がらなければなりません
あと226年』

と訴えているレビュアーもいて、評価は真っ二つに分かれているのだが、さて、どちらに「信憑性」を感じるだろう。

ともあれ、こうした政治のからむ「戦後占領史」の問題について、まったく無知でナイーブな読者が、本書『定価のない本』だけを読んで、「歴史」を正確に判断することは、ほとんど不可能だと言っても、決して過言ではないはずであるが、いかがだろうか?

——————————————————————————
【追記3】(2019.10.18)

日本人としての誇り

私が、本書『定価のない本』に感じる嫌悪感について、西尾幹二の名があがった機会に、それをヒントにして書いておきたい。

もっとも、西尾幹二は読んだことがないので、以下に記すことは、あくまでも周辺情報による推測に過ぎないが、私の感じているところを少しでもお察しいただければ幸いである。

さて、ドイツ文学者である西尾幹二が、なぜ保守主義者となり、戦後民主主義的な歴史観(加害者責任を自覚する歴史観)を否定しようとして、歴史修正主義者となったのか。
それはたぶん(それがすべてではないにしろ)西尾がドイツ文学者であり、かのニーチェに惹かれるタイプの人だったからではないだろうか。

周知のとおり、ニーチェはキリスト教道徳を、奴隷道徳として否定し、自身を主人とする主人道徳を説いた。そして「力への意志」を説き「超人」たらんとした。

私はニーチェ哲学に詳しくはないので、これも印象論に過ぎないが、要は、ニーチェは「女々しさ」とか「善人ぶったり、上品ぶったりする、偽善」が大嫌いだったのではないか。
キリスト教的な「弱者への慈愛」とか「謙遜」とかいったものに、鼻持ちならない「偽善」と、それによる隠微な束縛を感じ、そこから自由になることによって、人間は「超人」的な「雄々しい」ものになれるし、ならればならぬと考えたのではないか。

そして西尾幹二は、そういうニーチェにシンパシーを感じるタイプの人であったのではないか。
だからこそ、ボディービルでムキムキになり、最後は楯の会の軍服に身を包んで決起し、腹を掻っ捌いて死んだ、三島由紀夫に評価されたりもしたのではないか。

要は、マッチョな西尾にとっては、戦後民主主義の妙な物分かりの良さ(リベラルさ)と拝金主義のアマルガムが、どうにも我慢ならなかったし、それが公認する「加害者性を自認する=自虐的な」歴史観も我慢ならなかったのではないか。だから「日本人は、日本の歴史(つまり、主人道徳)を取り戻さなければならない」と考えたのではないだろうか。

西尾幹二にとっては、敗戦した日本が、戦勝国アメリカに教えられるままにそれを信じた「戦後民主主義」とは、ニーチェにとっての「キリスト教道徳」に似たものとして感じられたのであろう。
それはあながちわからない話でもないのだが、しかし、ニーチェにしろ西尾にしろ、そして三島にしろ、私からすると彼らには「自分だけがわかっていて(目が醒めていて)、孤立無援の中で戦っている」というような「ヒロイズム」が鼻につき、それがどうにも自己陶酔(ナルシシズム)的で、不健康なものに感じられてならない。
しかも、その「ヒロイズム」の背後には、あの「被害者意識」が貼りついている。

「保守」を名乗る人は、二言目には「押し付けられた」と言いたがるが、多くの国民が「押し付けられた」と感じるようなものなら、それが広く受け入れられることはなかったはずだ。
実際、多くの国民は、それを納得して、あるいは進んで受け入れ、それを誇りさえしたのが「戦後民主主義」なのだから、それは決して「押し付け」ではなく「推奨と受諾」に過ぎないのである。

つまり、「押し付け」だと感じるのは、その者が「受け入れたくないのに、実際にはそれを受け入れてしまった(膝を屈した)」という自己欺瞞の負い目があったからこそ、後でその責任を、相手に「押し付け」ることで、「押し付けられた」と「被害者づら」し「自己救済」したに過ぎないのである。

私たち日本人は、戦争に負けた。そして「無条件降伏」し、その上での「講和条約」を結び、受け入れた。
それは、私たち日本人の意志であって、決して「押し付けられた」ものではない。
条件が気に入らなければ、講和しなければいいだけの話で、そのまま戦争を続け、あるいは再開し、本土決戦でさらに多くの国民の命を失い、それでも戦って、三つ目四つ目の原爆を落とされ、それでも戦って、一億玉砕して果てることも出来たのである。
だが、それをせずに、講和条約を結び、アメリカ(連合国)に万歳をして、腹を見せて寝転がった、というのが、日本の選択だったのである。

それを後から、やれ、あれは押し付けだ、あれは洗脳だ、と一人前にいろいろ注文をつけるというのは、ちと筋が違うのではないか。
「もう攻撃しないでください。負けを認めます。降参です。何でもいう通りにしますから、どうかこれで勘弁してください」と言っていた敗者が、命の保証をされた途端、態度が図々しくなってきて、あれこれ注文を付け始め、挙げ句の果てに「同じ人間なんだから、対等だろう」などと言い出したのが、「日本人としての誇り」などということを言挙げしたがる、保守主義者の実態ではないか。
「日本人が」どうのと言う前に、その者個人のそうした一貫性のなさ、筋を通さぬ態度こそが恥ずかしくはないのかと、私は疑問に思う。あなた方には「敗者の美学」は無いのかと。

いずれにしろ、西尾幹二は、敗者であるという現実を否認して、自分は、自己に生きる主人道徳の持ち主たらんとしたのだろうが、キリスト教道徳や戦後民主主義的な「自虐史観(自己批判的史観)」が押し付けられた虚妄だと言うなら、「誇るべき日本の歴史と伝統」などというものもまた「自慰的なフィクション」でしかないというのも、明らかだろう。真実とは、そう自分にだけ都合の良いかたちで存在するものではない、というのは、わかりきった話だからである。

結局、西尾幹二は、路線の違いによる内紛によって、「新しい歴史教科書をつくる会」を割って出ることになる。そして今では、自身を「真正保守」として規定する一方、安倍晋三総理周辺の「日本会議」的あるいは「ネット右翼」的な、自称「保守」たちを、「エセ保守」でしかないと批判しているらしい。
西尾にすれば、安倍晋三周辺の「保守」は、あまりに独善的であり姑息であるし、日本の伝統にも即さないものと感じられるのかも知れない。その意味で「奴隷道徳」の持ち主にすぎないと感じられるのかもしれないが、私からすれば、いずれにしろ彼らは、「被害者意識」という「ルサンチマン」の徒輩であって、ぜんぜん「雄々しい」とは思えない。むしろ「女々しい」のである。
負けたのなら、相手に「煮るなり焼くなり、好きにしろ」とだけ言って、言い訳をしない潔さや、迷惑をかけた他人には「心ならずも済まぬことをした」と頭を下げる人間の方が、よほど日本人的な雄々しさであり「武士(もののふ)」らしさであると、私にはそう思えるのだ。

そうした感覚からすれば、門井慶喜の『定価のない本』は「敗戦国作家の、負け惜しみ小説」でしかなく、こんなもので溜飲を下げているような国民こそ、敗戦によって決定的に性根を根こぎにされた、哀れな日本人だとしか思えないのである。

——————————————————————————
【追記4】(2019.12.11)

賀茂道子『ウォー・ギルド・プログラム GHQ情報教育政策の実像』(法政大学出版局)について、本日、Amazonレビューを書いてアップした。
レビューのタイトルは、「日本人としての〈真の勇気〉」

ぜひ、ご参照下さい。

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○
































 ○ ○ ○










この記事が参加している募集

読書感想文