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アレクサンドル・ソクーロフ監督 『独裁者たちのとき』 : イエスの留まった場所


映画評:
アレクサンドル・ソクーロフ監督『独裁者たちのとき』

こんな「私好みの映画」が観られるなんて、生きていて本当によかった。本作は、コンピュータ技術あっての「動く幻想絵画」とでも呼んでいいような作品だ。
アラン・レネ『去年マリアンバードで』と同様、「中身」を無視して、その映像を眺めているだけで、異世界にトリップさせてくれるような、「超絶的な映像美(?)」の作品なのだ。

もちろん、「当たり前の映画」を期待したような人には「なんだこれ?」というような作品で、怒りだす人も少なくないというのは、よくわかる。

なにしろ、本作には、当たり前の「ストーリー」というものがない。
ただ、ヒトラースターリンムッソリーニチャーチルといった第二次世界大戦の指導者たちが、天国でも地獄でもない、その「手前の場所」で、自分の進む先が決まるのを待ちながら、延々と、ボヤいたり、悪口を言い合ったりする様子が描かれるだけ、と、そう言っても過言ではないような作品なのだ。

つまり、なんらかの「オチ」なり「結論」なりがあるわけではない。「4人の戦争指導者たち」が、最後は地獄に落とされて「めでたしめでたし」なんていうような、わかりやすい作品ではないのである。

『煉獄の廃墟の一室。匂い立つような花に包まれた棺の中、遺体のヨシフ・スターリンが「ブーツがきつい」と目を覚ます。同室には痛みを訴えるキリストが横たわる。「早く父なる神のもとへ行け」というスターリンに、キリストは「皆と同じように列に並んで審判を待つ」と答える。それを皮肉の笑みをこぼしながら上から見下ろすのはアドルフ・ヒトラー。軍服のスターリンを脇からウィンストン・チャーチルが覗いている。「お前はすでに臭い」「お前も臭い」。3人は互いに悪態をつきながら、天国の門に向かう旅に出た。道中でベニート・ムッソリーニが合流。4人は、自らの功績を称えたり互いを罵ったり嘲笑しながら、彷徨うように歩を進める。お喋りが止むことはないが、果たして互いの言葉は聴こえているのだろうか? 既に生身の人間ではないからなのか、時に分身が現れ、正装のチャーチル、外套姿のチャーチル、軍服のチャーチルが一堂に会しては、分身同士、互いに「兄弟」と呼び合ったりもする。こうして、天国の門を目指し、煉獄を彷徨う4人の旅が始まったのだが…。』

『独裁者のとき』公式ホームページ、「ストーリー」より)

まず、本作が難しいのは、基本的に、日本人が「キリスト教」的基礎教養を持たないからであろう。

上の「公式ホームページ」の「ストーリー」紹介文でさえ、あっさりと『煉獄』と書いているが、本作の舞台となるのは、そう簡単に「煉獄」だとは決めつけられない、「特殊空間」である。
なにしろ、そこには、十字架の上で死んだ「(ナザレの)イエス」さえ登場するからである。

煉獄(れんごく、ラテン語: Purgatorium)とは、カトリック教会の教義で、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間。『カトリック教会のカテキズム』では、「神の恵みと神との親しい交わりとを保ったまま死んで、永遠の救いは保証されているものの、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るように浄化(清め)の苦しみを受ける人々の状態」と説明する。
正教会プロテスタントなどキリスト教の他の教派では、後述するように煉獄の存在を認めていない。

概説
煉獄は、カトリック教会では天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところとされ、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。現行のカトリック教会の教義では、天国は「最高の、そして最終的な幸福の状態」、地獄は「神から永遠に離れ、永遠の責め苦を受ける状態」と定義されているが、「天国の本質が神との一致にあるとすれば、それは当然のことだが、人間は必ずしも終始一貫、神に沿って生きているとはいえず、罪を犯すこともあり、そのため死後に神と一致しようとする際には、自分の内にある神と異質なものは清められることになる。これが煉獄である」と説明されている。
カトリック教会では、少なくとも12世紀以降の教父の文章などに散見される聖伝・教理として受け継がれ、旧約聖書(第二正典)の『第二マカバイ記』の記述も根拠になるとして、フィレンツェ公会議(1431年 - 1443年)とトリエント公会議(1543年 - 1563年)で公式な教義として再確認された。このような経緯もあり、教会の東西分裂以前にカトリック教会と分かれた正教会では、煉獄を認めていない。また、プロテスタントでは、マルティン・ルターは当初、煉獄の存在を認めていたが、後にマカバイ記を否認したことから他の改革者たちと同じく煉獄を否定するようになった。』
(Wikipedia「煉獄」

このように、「煉獄」というのは、キリスト教徒だけれども、生前、人間として小さな罪を犯している「当たり前の人」が、「約束された天国」へ入る前に、その罪を洗い清めるために一時的に留めおかれる「鍛錬の場」とでも言える場所だ。
したがって、普通に考えれば、「罪なき人」でもあれば「三位一体の神」ですらある「イエス」が、煉獄にいるはずがない。

(横たわるイエス)

本作の冒頭は前記のとおりなのだが、「イエスが、他の人間たちと共にいる〝煉獄〟」などというものは、カトリックであれ正教会であれ(もちろんプロテスタントであれ)、あり得ない話なのだ。
ましてや、本作に描かれたイエスは、磔刑にされた時のままの苦しみを感じているようなのだから、ここは彼にとっては、地獄にも等しい場所だと言えるだろう。

では、「ここ」とは、どこなのか?

キリスト教的に言えば、いちばん近い概念としては、「辺土(リンボ)」ということになるだろう。

『 天国と地獄の間にある地獄の辺土。キリスト降誕以前の正しい人・キリスト教に接する機会のなかった善人・洗礼を受けなかった小児や異教徒・白痴者などの霊魂が、死後に住むという世界。「リンボ界」,「古聖所」,「辺獄」とも呼ぶ。』

(「ことばさあち」より、「リンボ」

つまり、「天国」でも「地獄」でもないけれど、キリスト教徒のための「天国待ちの鍛錬場所」である「煉獄」とも違う場所。
キリスト教徒になったとかならなかったとかいう以前に、キリスト教徒になる機会の無かった人、なりようもなかった多くの人たちが、死後に住まわされる場所であり、ここからは、「天国」へも「地獄」へも行けないのだ。

ところが、この映画の中で描かれる、まるでピラネージの描く「暗黒の地下世界」のような場所には、「天国への門」と思しき巨大な扉があって、「4人の戦争指導者たち」は、それぞれにその前に立ち「そろそろ天国へ入れてくれませんか?」と、門の中にいるらしい神にむかって声をかけるのだが、中からは「もう少し待て」とか「お前は地獄行きだ」などという、神のものと思われる返事の声が、少しだけ開かれた門扉の隙間から聞こえてくるだけで、誰一人、その門の中に入っていくことができない。
そのために、4人はいつまでもこの「中途半端な場所」において、生前さながらに、ぶつぶつ言いながら、無目的に徘徊し続けることになるのだ。

(『独裁者たちのとき』本編の地下世界)
(ピラネージの作品)
(昔、この本を画集がわりに購入したが、いまだ未読である)

このようなことから、この場所は、少なくともこの4人にとっては、この先の「天国」へ行くことの期待できる「煉獄」的な場所だと感じられているようなのだが、しかし、最初に書いたとおり、そんな場所に、イエスがいるわけがない。

しかしまた、「辺土(リンボ)」が「キリスト教徒になる機会の無かった人、なりようもなかった多くの人たちが、死後に住まわされる場所」だとすれば、イエスがここにいるというのも、おかしいのではないか?
これは、一体どういうことなのだろう。

(上は左から、ムッソリーニ、スターリン、ヒトラー。下は、チャーチルとヒトラー)
(写真で見るといかにも合成だが、映画本編はもっと自然である)

ここからは、私の解釈になる。

まず最初に指摘すべきは、そもそも、イエスは「キリスト教徒」ではない、という事実である。

少なくとも、生前のイエスその人は「ユダヤ教徒」であり、「戒律重視」のユダヤ教の中で、初めて「戒律遵守」だけが重要なのではないという「愛や赦し」を説いた、いうなれば「ユダヤ教の新解釈者」だったのであり、そんな彼が死んだ後に、彼の弟子たちが、イエスを、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」に描かれた「メシア=キリスト」であるとし、「われらが主(神)」と規定した時に、初めて成立したのが「キリスト教」なのである。

したがって、そんなイエスが「辺土(リンボ)」にいるのだとしたら、まさしく彼は「キリスト降誕以前」のイエスだということになり、同時にそれは、「イエスこそが主(神)である」とはしない(考えない)という意味における「(キリスト教からすれば)異教」でしかない「ユダヤ教徒」だからこそ、そこ(辺土)にいる、ということになるのではないだろうか。

つまり、彼イエスは、キリスト教の聖典である「新約聖書」の教える、「磔刑死の三日後に復活して天に登り、キリスト(救世主=最後の審判者)として降誕する」ことはない、ということだ。
人間イエスは、イエス・キリスト(神)」には、なれないのである。

じっさい、イエスは生前、「神の国は近い」とか「神の国はすでにある」といったような曖昧な言い方で「神の国(天国)」を語っているが、少なくとも、キリスト教徒が考える「キリストが降臨して、最後の審判が行われ、神の国が実現する」というシナリオは、今に至るまで、まったく実現されておらず、当面、そのような気配も感じられないまま、人類はあと100年も待たずに(地球温暖化による環境破壊で)死滅してしまいそうな勢いである。

となれば、この映画において、イエスのいる場所は、「辺土(リンボ)」としか考えられず、その意味するところは、「イエスはキリストであり、主(神)である」とした、イエスの弟子たちの「考え」は間違っていた、すなわち「キリスト教」(の教義)は間違っていた、ということを示唆するものなのではないだろうか。

したがって、本作に描かれる場所は、じつのところ、「天国」でも「地獄」でもないし、「天国」待ちの「煉獄」でもなく、さらには「辺土(リンボ)」ですらないのかもしれない。
一一なぜなら、それらはすべて、「キリスト教の世界観」によるもの(仮説)でしかなく、それが「真実」だという保証など、どこにもないからだ。
だからこそ、イエスは「当たり前の人間の、異教徒(ユダヤ教徒)」として、その「中途半端な場所」に留め置かれているのであろう。

では、この作品に描かれる、この「煉獄めいた場所」とは、何なのであろうか?

単純に言えば、そこは、単なる「死後の世界」である。

ただし、あまり良い行いをしなかった人たちの行く「死後の世界」なのではないだろうか。だから、件の4人をはじめ、彼らに熱狂した多くの人々(庶民大衆)は登場しても、イエス以外には、「正しい人」は一人も登場しないからである。

だから、この場所は、「地獄」のように「悪人に罰を与え、苦しみ抜かせるような場所」ではないとしても、おおむね「罪ぶかき人たち」の「(永遠に)放置される場所」だと考えることができるかもしれない。
言い換えれば、この映画には描かれなくても、「善人」たちのおもむく、比較的「明るい場所」というのが、他にあるのかもしれないが、いずれにしろ、そのあたりははっきりしない。

ただし、このように考えると、「罪ぶかき人たち」の「(永遠に)放置される場所」に、どうしてイエスがいるのか、という当然の疑問が出てくる。
しかも、彼は「磔刑の苦しみ」を抱えたまま、「皆と同じように列に並んで審判を待つ」と、ありもしないことを信じて語るというのは、一体どういうことなのでだろうか?

これも私の解釈だが、結局のところ、この場所は「現世の似姿」なのではないだろうか。

つまり、イエスやその弟子が信じたような「神」も「キリスト」も「神の国の到来」も、実際にはないのだけれども、彼らはそれを信じて、「最後の審判」を待っている、ということであり、人間イエスもまた、そうした「宗教的虚構」を信じた「心優しき善人」だった、つまり「ただの(無力な)優しい人」だった、ということなのではないだろうか。

だから、彼もまた、「戦争指導者」たちと同じ場所で、どこへも行けないまま、永遠に「救いを待ち続けるしかない」のではないだろうか。

それでも救いなのは、イエスが、キリスト教徒とは違って、苦しみながらも、他の人々と共にいようとしている、ということなのではないだろうか。
仮に、そのイエスが、この映画で描かれるとおり、無神論者であるスターリンに嘲笑されるような、「無力な人」であったとしても、である。

つまり、この映画に描かれている「煉獄めいた場所」とは、じつのところ、この「現実」世界の「暗喩」なのだと、そう考えれば、理屈が通るはずだ。

そこは「天国」でも「地獄」でもなく、「煉獄」でもなければ「辺土(リンボ)」ですらない。ただの「この世界」である。
だから、「戦争指導者」たちは、特に苦しめられることもないかわりに「どこへも行けない」。しかし、どこへも行けないのは、彼らだけではなく、たぶん、すべての人が「どこへも行けない」のが、この現実世界なのだ。

そう考えてみると、この作品にも描かれるとおりで、たしかに人々は、必ずしも薄暗い世界のなかで「鬱々と徘徊しているだけ」というわけではなく、時に明るい場所に出て熱狂したりもするのだが、しかしまた、結局のところ「どこへも行けない」のである。

(独裁者たちに熱狂する民衆)
(一帯の生き物のごとく、波のようにうねる民衆)
(山脈のごとく聳え立つ白亜の建造物)

したがって、この作品が描いているのは、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、チャーチルといった第二次世界大戦の指導者たちの「成れの果て」というよりも、私たち(すべての人間)の「この世界」での現実を、象徴的にではあれ、「そのまま」描いている、ということなのではないか。
この現実世界の後には、「天国」もなければ「地獄」もない。ただ、私たちは、そうした「フィクション」を夢想しながら、この薄暗い世界を生きていくしかないと、ソクーロフ監督は、そんな「リアルな世界」を描いたのではないだろうか。

本作に、「オチらしいオチ」や「結末らしい結末」が無いのは、私たちの現実世界に「オチ」や「結末」が無いのと、同じことなのではないのか。

無論、いずれ人類は滅ぶのだから、それが「オチ」であり「結末」だと言えなくもないのだけれど、私たち個々の「現実の生」を見た場合、「生」は突然終了して、当人は「死」を体験することができない。
その意味で、「死」は存在しないのであり、人間は「この生」に閉じ込められたまま「どこへも行けない」、というのが、リアルな現実なのではないか。

以上のような意味で、本作が「何を描いているのか、さっぱりわからない」という方に向けて、私は「これは、私たちの世界そのままでしょう」という解答を提供したい。

「宗教的なフィクション」に逃げないで、この世界の現実を見るならば、私たちの現実世界と、この映画の描いた世界には、どれほどの逕庭があると言えるだろうか。


(2023年6月4日)

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