見出し画像

アラン・レネ監督 『去年マリアンバードで』 : 〈記憶〉の迷宮で

映画評:アラン・レネ監督『去年マリアンバードで』

本作は「ヌーヴォー・ロマン」と呼ばれる芸術的潮流に属する、前衛映画である。したがって、ハッキリとした筋はなく、わかったようでわからないような物語が蜿蜒と展開していく。まさにそこが、それまでの「(目的論的あるいは構成的な)物語」とは違った「新しさ」だったのだ。
そして当然のことながら、この作品についての「解釈」は、一義的ではありえない。つまり、「正解」など存在しない。

後年、脚本を担当したロブ・グリエによって、この作品の「種明かし」がなされている。

『それによると、黒澤明の『羅生門』がモチーフとなっており、最初に、
 1. 現在
 2. Xの回想(Xにとっての主観的事実)
 3. Aの回想(Aにとっての主観的事実)
 4. 過去(客観的事実→Mの視点)
の4本の脚本が作られ、それらをバラバラにつなぎ合わせて、最終的な脚本が完成したという。』
 (Wikipedia「去年マリアンバードで」)

このように説明されたからと言って、では、この作品を「このようにして構成されている」と正しく指摘できたら、それが「正しい作品解釈」なのかと言えば、当然、そうではない。

それは「どのようにして作られたか」という「製作過程」の話でしかなく、それは「でき上がった作品」そのものではない、からである。
つまり、作品とは、作者の「意図」に限定されるものではなく、そのものとしては「無意味」に存在し、それが「人(多くの場合「鑑賞者」だが「作者」でもいい)」と接する境界面において「意味=解釈」を発生させる、「世界解釈の触媒」なのだ。

だからこそ、「作品解釈」はしばしば、鑑賞者の「世界観」の反映となる。そうならざるを得ないし、それしかないのだ。
言い変えれば、「作品」の存在意義とは、「監督にとっての意味(解釈)」「脚本家にとっての意味(解釈)」「主演俳優にとっての意味(解釈)」であり「鑑賞者Aの意味(解釈)」であり「鑑賞者Bの意味(解釈)」等であり、要は「誰某(X)にとって意味(解釈)」というかたちのものでしかあり得ない。

そして、それに「優劣」があるとすれば、それは「その解釈」が、その解釈を読む人(鑑賞者)にとってどれだけ意味を持ち得るかであり、そして、より多くに人に意味を与え得るか(想起させ得るか)でしかないのだ。

 ○ ○ ○

さて、そこ私の解釈だが、私はこの作品を「記憶」の問題を語った作品だと見る。しかも、その「記憶」は、現実にあった「過去の記憶」ではなく、現実に有ったか無かったかに関係のない「想起された記憶」である。喩えて言うならば「夢の中の記憶」だ。

「夢」の中で、ある人物に出会った私は、その人物について「この人は、あの人だ」と「思い出す」。しかし、その「記憶」が、現実には間違っていると言うか、そんな「記憶」など、現実には無かったりする。
にもかかわらず、「夢を見ている私」にとっては、それは「過去の現実」としての「リアリティー」をもって甦り、夢の中の私は、そのリアリティーを疑うことができない。

もちろん、こうした「夢の中の記憶」というものの不思議について、脳科学的に説明することは十分に可能だし、それは科学的・現実的には正しいのだけれども、しかし、そうした説明は、私たちの「現実の過去の記憶」や「今ここの認識」をも、同様の「脳科学的現象」に還元してしまい、もはやそこに本質的な差異はない、ということになるだろう。いわゆる「脳の外に現実はない」という「唯脳論」的な考え方である。

たしかにそれも一つの「世界解釈」であって、間違いではないのだけれども、しかしそれは、私たちに満足を与えてくれる「解釈」とは言えない。その意味で「解釈」としては、決して出来の良いものではない。
だから、私たちは「作品解釈」において、このように「客観的正解」を求めるのではなく、もっと私たちの「リアリティー」に寄り添った、実感的に納得のできる解釈を探るべきである。

では、私にとっての『去年マリアンバードで』という作品についての、「実感的な解釈」とは何か。

それは「夢とは、ここではない場所での記憶が交錯する空間であり、そこには過去の記憶だけではなく、未来の記憶までもがたち顕われる。そして、過去の記憶とは、未生の記憶であり前世の記憶でもあり、未来の記憶とは、生まれ変わった後の記憶である。それら、時間と空間を超えた記憶が、私の中で、今の思考形式によって整理統合編集されたもの。それが夢である」というようなことであり、それを「映画」という形式のおいて再現しようとしたのが、この『去年マリエンバードで』という作品なのだ、とでも言えるだろう。

もちろん、私はここで「神秘主義」的なことを言おうとしているのではない。
一個の生物の中には、生命誕生からの「記憶」が織り込まれており、それが夢の中で、改変されたかたちで再現されている。だからこそ「夢の文法」は、「人間的(理性的)」ではありえず、あのように融通無碍なものとならざるを得ないということなのだ。
しかし、だからこそ、それは「深淵かつ郷愁を感じさせるもの」であり、人はそれを夢の中で「再帰」させ、さらにそれを、「作品」というかたちで「手に取れるものとして定着させよう」とする欲望を捨てられないのである。

『去年マリエンバードで』という作品は、「私が私である必然性」に対して「疑義」を提する作品である。
それは、足下が崩壊するような「不安」を与えると同時に、「いまここの私」という「存在の束縛(自同律の不快)」からの解放をも与えてくれるのだ。だからこそそれは、「不安と快感」を同時にもたらしてくれるのである。

また、実際、この作品を鑑賞するのに「言葉」を理解する必要はない。
あの「独白めいたセリフ」の翻訳字幕を消して、その意味も理解しなままにこの映画を鑑賞しても、この映画の味わいは、すこしも損なわれないはずである。
それは、この作品が、「言語以前の位相」にまで至っておればこそであり、その点において、この映画は傑作たり得ているのである。

初出:2020年1月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○



この記事が参加している募集

映画感想文