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ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 『ゴルゴダの丘』 : ユダへの同情と フランス・カトリックの独自性

映画評:ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『ゴルゴダの丘』(1935年・フランス映画)

デュヴィヴィエ監督の初期作品。もちろん戦前の作品であり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のずっと前のモノクロ作品。

内容は、イエス・キリストの後半生を、聖書にほぼ忠実に描いている。
一一と言っても、私が聖書を読んだのはだいぶ前だし、聖書学の本も長いこと読んでいないので、イエスの生涯を描いた福音書だけでも四本を収める新約聖書の、その矛盾を含む記述の中から、本作がどこをどうチョイスしたのか、細かいところまではわからない。また、この映画について、そこまで細かい(聖書学的な)分析をしようとは思わない。

ともあれ、イエスの「エルサレム入城の日」から「処刑復活」を経て「使徒の派遣」までを描いた作品であり、当然のことながら、内容的にはかなり駆け足で、のちのイエス映画のように「イエスの内面」まで描こうとするような「人間映画」にはなっていない。あくまでも、聖書の記述を映画にするというのが基本姿勢の作品なのだ。

したがって、本作の場合は、「新約聖書」の内容をそれなりに知っているキリスト教信者でないと、普通は楽しめない作品になっている。
知っている者なら、ああこれは「イエスの宮清めだな」とか「ゲッセマネの夜だな」とか「ペトロの否認だな」などとわかって楽しいのだが、そうした知識のない者には、まあ、どうということのない、ただ「イエスが何を考えているのか、よくわからない」作品ということになるのではないかと思う。
特に「イエスの宮清め」なんかは、その乱暴さに「イエスって、こんなことする人だったの?」と驚かされることだろう。

(神殿に店を出す商人たちをムチで追い払うイエス。映画でもこんな感じで、かなり乱暴)

そんなわけで、何でも褒めるプロの映画評論家は別にして、本作に好意的な評価を与えているアマチュアレビュアーの多くは、明記していなかったとしても、まず間違いなくキリスト教信者だと見ていい。本作は、そうでなければ楽しめない作品であり、聖書的な知識がない者が見て、いきなり楽しめるような映画にはなっていないのである。

言うまでもなく、フランスは「カトリック」国で、デュヴィヴィエ監督もカトリック信者のようだ。今では、フランスも信者数がかなり減っているようだが、本作が作られた当時は、まだまだ「無神論者・無信仰者」は少なかっただろう。

なお、デュヴィヴィエ監督はカトリック信者であり、本作を喜んで撮ったという話だが、それも教会からの制作依頼(資金提供)があってのことのようだ。
セットなどは、戦後の大作映画にも劣らない立派なもので、平たく言えば、制作に巨費の投じられた作品である。信者からの寄進が多く寄せられたとも言うが、実際そのとおりなのではないだろうか。

映画冒頭の、高台からエルサレム市街を臨むシーンは「スクリーンプロセス」によるもので、今の目で見れば、さすがにちょっと安っぽい感じではあった。けれども、それは、今は無き立派な建物のびっしりと並び建った、華やかなりしき頃のエルサレムを再現した、「マット画」か「ミニチュア写真」の投影画の前で人物が行き交うカットだったからで、イエスのエルサレム入城以降は、非常に立派なセットのなかで撮影しているため、この冒頭部分での心配は杞憂に終わった。

ともあれ、肝心なのは、この作品が、あくまでも「フランスのカトリック教会」の依頼で製作されたのであろう、「聖書に忠実」な作品であって、積極的に「新しい解釈」を描こうとかそういった作品ではない、という点である。
だから、キリスト教信者は、カトリックは無論、プロテスタント信者でも楽しめる「優等生的な作品」になってはいる。だが、その反面、信者ではない一般の映画ファンには少々退屈な、「イエスの生涯を描いた、教科書的な伝記映画」という冷めた感想に止まるものにしかなっていないとも思う。

(出演者で最も有名なのは、ポンテオ・ピラト役のジャン・ギャバン。そのせいで、ポスターもピラトをメインモチーフにしたものが目立つ)

しかし、いずれにしろ問題とすべきは、そうした作品であっても、デュヴィヴィエ監督の「個性」は出ているのか否か、という点であろう。

結論から言えば、やはり個性は出ていると思う。その端的な部分としては、イエスを裏切った弟子ユダを、比較的丁寧に描いている点だ。
詰め込み式の本作の中では、「十二使徒」で、まともに描かれているのは、ユダペトロだけ。この二人以外は、誰が誰なのかの区別がつくほどの描写は無く、「その他の弟子」という程度のそれでしかなかった。

本作のタイトルは『ゴルゴダの丘』(原題は『ゴルゴダ』)であり、イエスの処刑が最大の見せ場であれば、そのきっかけとなるユダの裏切りが描かれるのは必然だ。

一方、ペトロの方は、他の弟子たちと同様、イエスの処刑の巻き添えを食うのを恐れて一時は逃げ出し、一晩のうちに三度、人から「お前はイエスの弟子だよな?」と尋ねられて、それを否認した結果、イエスが復活した際には、その裏切りを深く悔いて懺悔したというエピソードが描かれる。だがこれは、単に有名なエピソードということではなく、その結果として彼の信仰が定まり、本作でも描かれているとおり、彼がイエスから「私の羊を飼いなさい」と、要は「ペトロに教団(教会)が託される」という、今に続くローマカトリック教会の起源の正統性を示す部分だからこそ、このエピソードは是非とも落とせなかったのである(つまり、ペトロが初代のローマ教皇バチカン宮殿には、ペトロの墓がある)。

ただ、本作でのそうしたペトロの描かれ方は、いかにも教科書的に正しいとはいうものの、「型通り」だとも言えるだろう。
それに比べると、裏切り者ユダの描かれ方は、ここまで描かなくても済んだはずの、「人間的な部分」まで描かれている点に、本作の特徴があると言えるのだ。
普通ならば、「ユダは、イエスがエルサレムに入城するも、メシアとしての本性を現さなかったことに失望して信仰が揺らいだ結果、イエスを裏切りって官憲に売り飛ばしたものの、イエスの処刑後は、自らの裏切りを深く悔いて、惨めな自殺を遂げた」と、そう簡単に描くだけで良かった。だが、本作のユダ描写は、それに止まるものではなかったのだ。

私が、特に注目したのは、「最後の晩餐」での、イエスとユダだ。
イエスを裏切ることを決めた後の「最後の晩餐」において、ユダはイエスから『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と言われて、晩餐の席を立って、イエスを売りに出かけていくという流れなのだが、その席を立った後、ユダは窓の外から、しばらくイエスらの晩餐の様子を寂しげに見つめているシーンが挿入されている。この聖書には無いシーンには、裏切り者ユダの葛藤に同情的なものが感じられるのだ。

また「ヨハネによる福音書」をふまえたイエスの『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』という言葉は、当然のことながら「自分が、ユダの裏切りによって刑死すること」も知っていれば、そのことで自分がこの世に生まれてきた目的(すべての人の罪を贖うこと=贖罪)が果たせるということを知っていて、言うなれば「予定されていた、神の計画」を実行するために、その「計画の一部」であった「ユダの裏切り」について、「それがおまえに与えられた任務なのだから、迷わずにそれをやりなさい」と促したものだと理解することもできるのである。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

また、すこし戻って、聖書では、この「最後の晩餐」の席で、イエスが弟子たちに与えた、自身の「肉と血としてのパンとワイン」を、弟子たち全員が飲食したような描写になっている(これが、キリスト教における聖餐式=ミサの起源)。
ところがこの映画では、ユダはイエスからパンを差し出された際には、それを受け取っていないように描写されている点が、とても興味深いのだ。
「パンを食べ、ワインを飲んだ」という個別の描写は、ユダにも他の弟子にもないものの、イエスがユダにパンを個別に差し出した際、聖書では、ユダはそれを受け取っているのに、本作では「ユダが受け取らなかった」ような描写になっており、当然これは、聖書にはないものなのである。

『はっきり言っておく。僕(しもべ)は主人にまさらず、遣わされた者(※ イエス)は遣わした者(※ 父なる神)にまさりはしない。
このことが分かり、(※ 父なる神の命ずることを)そのとおりに実行するなら、幸いである。
わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を(※ 神がその任に)選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書(※ 旧約聖書)の言葉(※ 預言)は実現しなければならない。
事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』(※ 私は「在る」という神だ)ということ(※ 父なる神がおっしゃった、旧約聖書の言葉)を、あなたがたが(※ 心底)信じるようになるためである。
はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
イエスは、「わたしがパン切れを(※ ワインに)浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。』

「ヨハネによる福音書」13:16〜30

つまり、ここでは、弟子はみんな「パンとワイン」を食べたにもかかわらず、その一人のユダだけが、イエスから個別にパンを与えられて、結果として「旧約聖書の預言を実現」したということになるわけなのだ。

だからこそ、映画では、ユダが差し出されたパンを受け取らなかったというのは、もしかすると、デュヴィヴィエ監督は「ユダだけは裏切らなかった」という意味を込めて、あえてそうした、ということなのではないだろうか。
何しろ、他の弟子たちは、イエスが処刑される段になって、みんな「逃げ出した」のだが、ユダだけは、それ以前に「神の計画」に従って、イエスから泣く泣く離れたのだから、皆と同じように裏切ることはなかったと、そう理解することもでき、要は「裏切り者」とされる「ユダだけが、一度も裏切らなかった」と、そう解釈することもできるからである。

ともあれ、ここでのイエスがユダに言った『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』という「謎めいた言葉」は、上の「ヨハネ福音書」の記述どおり、「ユダに、悪魔であるサタンが入って、そのサタンに対して、イエスがおまえの役目を果たすがいい」と言ったということになるのだが、しかし当然のことながら、「堕天使サタン」もまた「(全能であり、予定外の失策などあり得ない)神が作ったもの」なのであれば、「ユダにサタンが入って、イエスを裏切る」ところまで含めて、すべてが「神の計画」どおりであったと考える方が、むしろ辻褄が合っていよう。

ヤコポ・ティントレット『最後の晩餐』

つまり、どっちにしろユダは、イエスが神の子であることを証明するための「汚れ役」を任され、それを忠実に果たしただけにもかかわらず、自殺しないではいられなかった。それもまた「神の計画」の一部だったという、じつに哀れまれるべき弟子だったのだ。一一という解釈は、「カトリック神学」的には「正統」とはされていないまでも、そう解釈する「聖書学者」も少なからずいるのである。
「神」が絶対であり、時間を超えて未来まで見通した「計画」を立てうる存在なのであれば、サタンの動きや、それによるユダの裏切りなど、最初からわかっていたのだから、イエスを処刑させる気でなかったのならば、ユダの計画を止めるだけではなく、ユダにそのような迷いを生まないようにすることだって、容易だったはずだからである。

(十字架を担ぐイエス)

また、「新約聖書」の中でも「ユダの死に方」には2種類あって、「マタイによる福音書」の方では、本作で描かれたとおり、ユダは「首吊り自殺」をするのだが、「使徒言行録」の方では、ユダの死に方は、

『ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。』

「使徒言行録」1-18

と、いかにも「呪われた憎むべき存在」のように描かれている。
だが、こちらも、カトリックが認めている「新約聖書」の内なのだ。

つまり、本作における「ユダの描き方」は、「マタイによる福音書」の描写を採用して、「使徒言行録」の描写は排している。
もちろん、デュヴィヴィエ監督は、どちらも知った上で、前者を採用したのだが、先に紹介した「最後の晩餐」のシーンでの「ユダの迷いと悲しみ」描写を考えれば、デュヴィヴィエ監督が、ユダに同情的な立場だったというのは、間違いないことだと思う。

だとすれば、そうした「ユダに同情的な立場」というのは、「カトリック教会の正統神学」に反して、むしろプロテスタント神学」に近いものだとも言えるから、その点では、私のこうしたデュヴィヴィエ理解には無理があるのではないかという「疑問」も出てくるだろう。

だが、そうではない。
ここでポイントとなるのは、この映画が、フランス映画であり、フランスのカトリック教会から制作依頼を受けて作られた作品だという点なのだ。

どういうことかと言うと、フランスのカトリック教会というのは、歴史的に複雑な問題があって、ローマ教皇庁、つまりバチカンとは一線を画する「自律性」を持っており、バチカンの命ずるとおりに何でも唯々諾々と従うという立場ではない、ということなのだ。
フランスのカトリック教会には、そうした「例外的な自律性」があり、それが「ガリカニズム(フランス主義)」と呼ばれるものなのである。

このあたりの歴史まで説明しだすと長くなるので、ここでは省略するが、そのわかりやすい実例として、下のレビューを是非とも参照してほしい。そこには「ローマ教皇(法王)にだって物申す」というフランス・カトリックの面目躍如たるところが、存分に現れているからである。

ともあれ、こういう伝統のあるフランスであるからこそ、この映画では、ユダに対する同情的な視線が無理なく反映されていたのだと考え得るし、その点において「デュヴィヴィエ監督の個性」も、抑制されながらも出ていたのだとも思う。

デュヴィヴィエ監督の個性とは、よく言われる「ペシミズム」のことで、このペシミズムとは「厭世主義」とか「悲観主義」などと訳されるものであり、ある意味では、信仰者には不似合いなものだと言えるだろう。神を信じている者が、どうして厭世的であったり悲観的であり得るのか、と。

だが、デュヴィヴィエ監督のそれを「ペシミズム」と呼ぶのは、ちょっと言い過ぎだと私は感じる。私の言葉で言えば、それは「諦観」と呼ぶ方が適切なものだと思うのだ。

つまり、デュヴィヴィエ監督は、積極的に「この世」を「厭う」たり「悲観」したりはしないけれど、要は「多くを期待していない」ということなのである。

本作にも描かれているとおりで、「人間とは、本来的に度し難い存在だ」と思ってはいる。なにしろ、人々はイエスを、よってたかって処刑し、弟子たちまでが逃げ出したのだから。
けれども、だからと言って「この世なんて無くなってしまえば良い」と思うような、積極的な否定性は、デュヴィヴィエには無い。
なぜならば、「ユダの裏切り」と同様、そうした「人間の度し難さ」も「神の計画」の一部なのだから、いずれ訪れるであろう「神の国」の到来、「歴史の終わり」には、(すべての人が救えわれるかどうかは、意見の別れるところだとしても)正しい人(義人)は救われるのだし、神の慈悲によって多くの人は救われることになっているからである。
したがって、目の前の「人間の不完全さ」など、そこまで悲しむべきことはない。一一というのが、キリスト者であるデュヴィヴィエ監督の「基本的な考え方」だったのではないだろうか。

(『ローマ軍の士官は、イエスの死の有様を見て、「この人はほんとうに神の子だった」と言いました。』マルコの福音書 15:33-39

そして、そうした観点から本作を見れば、本作は、フランスのカトリックらしい、正統なイエス映画だし、デュヴィヴィエ監督らしいイエス映画だとも言えるだろう。

本作で、イエスが「謎めいた人」のように、内面を窺わせない描写なのも、それはイエスが、人間には窺い知れない「神の計画」に沿って生きている「神」自身でもある人(神人)という理解に立ってだろう。だから、イエスがあまり人間的には描かれていないというのも、信者の映画としては、まったく正統なものだったとも言えるのである

したがって本作は、「フランス・カトリックのイエス伝映画」としては、完璧に正統な作品だと言えるし、だからこそ、キリスト教信者でない者には、いささか退屈な宗教映画だとも言えるだろう。
ただ、それでも救いだったのは、フランス・カトリックの自由さがあったればこそ、堂々と「ユダに同情的な描写」ができていた点であろうと思う。
世俗的な立場から描かれていたのなら、それも十分あり得る立場なのかも知らないが、正統的な信仰の立場に立って、それでもユダに同情的であるというのは、キリスト教信仰というものの「問題点」を考える上で、とても重要なポイントなのではないかと、私は考えるのである。



(2024年4月12日)

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