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アベ・ピエール 『神に異をとなえる者』 : 神と共にあった人の 〈確信の言葉〉

書評:アベ・ピエール『神に異をとなえる者』(新教出版社)

まず最初に言っておきたい。本書は稀に見る「信仰の書」であり、信仰者はもとより、非信仰者や無神論者さえも読むべき本だ。読書家であるなら、本書を読まないのは、人生における損失である。

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著者名「アベ・ピエール」の「アベ」とは「在俗神父に与えられる称号」であり、つまりは「ピエール神父」ということなのだが、彼の本名は「アンリ・アントワーヌ・グルエ」である。
これが何を意味するのかと言えば、それはたぶん、彼自身にとって、最も本質的なのは「神に仕える私」であるということであり、またカトリック国であるフランスの、多くの人たちにとっても、彼はまさに「ピエール神父」さんだった、ということなのであろう。

本書の「著者紹介」は、次のとおりである。

『1912年、フランスのリヨンに生まれる。本名は、アンリ・アントワーヌ・グルエ。18歳でカプチン修道会に入会。1938年、司祭叙階。第二次世界大戦中はナチス占領下フランスでユダヤ人を助け、レジスタンスとともに闘う。戦後は県議会議員などを務める。1949年、ホームレスなどの社会的弱者と連帯する協会「エマウス」を設立。「フランス人がもっとも愛する有名人アンケート」で長年一位の座をあたためるほど、フランス国民に愛され続けた。2007年帰天。葬儀は国葬でなされ、ときのシラク大統領は彼の生涯を「貧困、苦難、不正義に対する闘いを続け、連帯の強さを人々に示した」と形容した。』

彼が愛される理由は、この経歴にも明らかだろう。彼は、差別なき「人間愛」に満ちた人であり、かつ、この世の不条理に対して、いつも勇敢に立ち向かい続けた人だった。そんな彼が、多くの人々から愛されるのは、当然のことだったのである。

しかし、彼は「愛された」だけではなく「愛され続けた」人である。その意味するところは、彼の「行動」の立派さや素晴らしさだけではなく、その「言葉」が、つねに人々の胸に訴え続けたからこそ、彼は単なる「権威」として「愛された」のではなく、「共に生きる人」として「愛され続けた」のではないだろうか。

そんな彼の遺著となるのが、本書『神に異を唱える者』である。
正確には、本書は彼が書き残した著書ではなく、最晩年の彼と深く交流し対話を重ねてきた、哲学者フレデリック・ルノワールが、そうした対話の中で語られた、アベ・ピエールの言葉のエッセンスをまとめた著作である。

本書のタイトルが、『神に異をとなえる者』という、いささかショッキングなものとなっているのも、それは著者であるアベ・ピエール自身がつけたタイトルではなく、編者であるルノワールが、アベ・ピエールの信仰者としての個性をわかりやすく伝えようとして、付けたものだからだ。

ルノワールは「はじめに」において、次のように書いている。

『彼がエマウスの創始者であることはすでに広く知られていますが、それ以前に彼はなにより、「神に異をとなえる者」であり、信仰者でありながら人間の惨めさや苦しみを甘んじて受け入れることを拒み、この世界が少しでも人間らしさを取り戻すために生涯を賭した人でした。それは彼が自由な人だったからでもあると私は確信しています。彼はたびたび人々に態度を表明してきましたが、それは彼らを動揺させ、いらだたせ、理性に返らせ、問うものでした。彼はどんな教義、どんな制度にも肩入れしませんでした。そして彼が示す知性や憤りがその輝き、激しさを失うことはありませんでした。この彼の批評精神はフランス共和国大統領や時流にのる思想家、さらにはローマ教皇にも向けられましたが、多くの人々は彼の声に耳を傾けたのでした。』(P3〜4)

アベ・ピエールの言葉の率直さの例証として、当時、新教皇となったばかりのベネディクト16世について語った言葉を、次に引用しよう。

『 ヨハネ・パウロ二世の後、次の教皇がいったいだれになるのか、明らかに人々の関心は高まりました。そのなかで人々がたった一つ心配していたことがあります。ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が教皇に選ばれることです。彼は以前の「教理省」(※ 引用者註・かつて異端審問を担当した、元「異端審判所」であり、元の「検邪聖省」)にあたる、信仰の教義を考える部門のトップでした。
 私はこの良識ある指摘を最初にした一人だと思っています。私たちはよく社会のいたるところで、大きな責任のある立場に就く人がそれに見あった人になっていくのを目にします。責任ある立場に就いた人がかえって威圧的にふるまうこともありますが、多くの場合は余裕ができ、温和になり、自分を律していくものです。つまり一度頂点をきわめると人は今までよりも寛容になり、開かれた人になっていくものです。
 ラッツィンガー枢機卿もベネディクト一六世となり、やはりこのように変わっていくでしょう。教皇選出当夜、彼のまなざしはすでに幸せそうで、穏やかでした。そして教皇として最初に述べた言葉は、他のキリスト教宗派(プロテスタント、英国国教会、東方正教会)や他宗教との開かれた対話を示唆するものでした。今後の彼の行動を待ちましょう。すでに変化の兆しが見られるのですから。

 ラッツィンガー枢機卿が、有利な材料ではない七八歳という高齢にもかかわらず教皇に選ばれたことはとりたてて驚くにはあたりません。枢機卿たちは実はお互いにほとんど知らないのです。ところがそんな枢機卿のだれもがラッツィンガーのことはよく知っていたのでした。さらに言うならば、枢機卿たちの最大の関心事は安定です。波風を立てる必要はなく、冒険もいりません。ラッツィンガーを教皇に選ぶことでヨハネ・パウロ二世の方針を継続していくことができるのです。ラッツィンガーが高齢のためにそう長くは教皇を務められないことも彼らはもちろんわかっています。これは都合のよいことであり、枢機卿どうしがお互いをよく理解しあい、次の次の教皇にはだれがもっともふさわしい人物かを落ち着いてじっくり考えることができるわけです。それが今回ラッツィンガー枢機卿が教皇に選出された大きな流れなのです。

 ベネディクト一六世が在位中に、リベラルと思える二つの方策をとったとしても私は驚きません。一つは再婚した人々に聖体拝領を認めることであり、もう一つはすでに子育てを終えた既婚の、つまり「年配の」男性の叙階を可能にしていくことです。これが聖パウロが言うあの「既婚聖職者」です。一方、女性が叙階され司祭職に就くことや同性愛の糾弾について、彼が立場を変えることはないと思います。』
 (本書P36〜39「ベネディクト一六世の即位」全文)

なお、この後に、編者ルノワールによる、次のような註がついている。

『※ ラッツィンガー枢機卿は二〇〇五年、第二六五代ローマ教皇・ベネディクト一六世として即位し、現在にいたる。』(P39)

見てのとおり、アベ・ピエールは、即位直後のベネディクト一六世について、なんの遠慮もなく「あの人はこういう人だから、こうだろう」という調子で語っており、これはその前の(保守派のアイドル=偶像だった)ヨハネ・パウロ二世についても同じだった。
彼は「後から偉そうに語る」のではなく、当時において、こんな調子で語っていたのだから、この忌憚のない率直さが、彼の人気を支えていたというのは、間違いないところである。

彼のこうした率直さや忌憚のなさは、彼が「在俗神父」であり、比較的自由な立場にあったからだ、ということではない。こんな「在俗神父」は決して多くないだろうという推測は、どんな「人間組織」においても同様だという事実に例証される。上司に関する「陰口」なら誰でも叩いていただろうが、公然と世間に向かって、自分の組織のトップをこのように論評できるような人は、めったにいないのである。

では、なぜ彼がこのような率直さで、自分の思うところを語ったのかと言えば、それは彼が「神に異をとなえる者」だったからではなく、神を心底信じればこそ、神に対して「なぜ」と問うことを怖れない人だったからである。そんな人であれば、大統領であれ、ローマ教皇であれ、遠慮したり怖れたりする必要など、毛筋ほどもなかったからだ。
つまり、彼にとって大切なことは、「神の意志」を正しく行うことであり、人間でしかない権威者の迎合して、結果として「神の意志を誤る」ことではなかったからなのである。

アベ・ピエールは「聖母マリア」についての、教会による安直な「偶像化」問題を批判して、その原理を、アウグスティヌスの引用で、次のように語らせている。

『 キリスト者が(※ 基本的教義にかかわる)こうした事柄について、いわば聖書に基づいて語ると言いながら戯言を語るのを他の人が聞き、天地の相違とよく言われるような誤りを犯しているのを見て取り、笑いを禁じえなくなるなどというのは、きわめて見苦しいことであり、有害であり、つとめて避けるべきことである。誤った人が嘲笑されるというのは、それほどおぞましいことではない。しかしわれわれの聖書記者が、〔教会の〕外にいる人々から、このようなことを考えていたと信じられ、いわば無学な人々として批難され、唾棄されるなら由々しきことであり、われわれがその救いのために心を尽くしているこれらの人々にも有害な結果をもたらすことになろう。というのも〔教会の〕外にいる彼らが最もよく知っている事柄に関して、キリスト者の数のうちにあるある人々が誤ったことを言っており、われわれの聖書から、自分で虚しい考えをつくりあげ、主張しているのを知るなら、どうして彼らは死人の甦りや永遠の生への希望や天の御国についての聖書の証言を信じるようになるだろうか。』
 (アウグスティヌス「創世記逐語注解」、本書P63〜64)

つまり、「神の子」を生んだ「聖母」とは言え、彼女は聖書の上では「原罪を背負った、ただの人間」でしかないはずなのに、偶像崇拝的な一般信者の要望を斟酌して、マリアを「無原罪の聖人」にまで(教義として)祭り上げてしまうこと(つまり、信仰的ポピュリズム)は、結局のところ、キリスト教信仰への信頼を失わしめ、救うべき人々に不信感と懐疑を与えて、救えなくなってしまうという結果を招来するものでしかない。
だからこそ、そういう誤りを犯す者に対しては、正しき信仰に立って、厳格な批判を加えなければならないのであり、それこそが「神の意志」を正しく行う、ということなのだと、アベ・ピエールは、そう語っているのである。

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私自身は「無神論者」であり、キリスト教の中でもカトリックを、しばしば厳しく批判している。しかしこれは、単にキリスト教が間違っているとか、カトリックが間違っているとかいったことではなく、彼らの主張に「論理的一貫性がなく、人間として不誠実」だからなのである。

結局のところ、「神は存在するか否か」などといった疑問に対する正解は、誰にも知りえない。なにしろ神は「人知を超えた存在」だというのだから、それを「正しく知る」ことなど、原理的に不可能なのだ。だから、それを信じる信じないは「人それぞれ」でしかないのだが、しかし、そこで問題となるのは「信じ方であり疑い方」なのである。
言い変えれば「いい加減に信じたり、いい加減に疑ったり」するというのは「人間として不誠実」だと、私は「無神論者」の立場から、人の「信仰に対する態度」を問うてきたのだ。

それ故に、アベ・ピエールの「信じると決めた上で、それに見あった論理的に正しい行動をする」という選択を、私は全面的に支持することができる。
私にすれば、彼アベ・ピエールは「信仰という間違った選択をした上で、論理的に正しい行動をしている蓋然性がきわめて高い」と思うけれども、それは「逆の立場」に立つ彼からしても、まったく同じことだからである。

神の存在が「(客観的に)不可知」であるならば、信仰と非信仰という「二つの道」は、必然的に存在しなければならないし、それは「神が意図して造った世界の在り方」だとも言えるだろう。だからこそ私たちは、「二つの道」のいずれを選択するにせよ、その選んだ道を誠実に歩まなければならない。

こうした考え方において、アベ・ピエールは、私の「同志」と呼べる存在なのである。

初出:2020年1月5日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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