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ジョゼ・バジーリャ監督 『バス174』 : 優しい人たちの 〈見たくないもの〉

映画評:ジョゼ・バジーリャ監督『バス174』

【旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年6月24日】

※ 再録時註:すっかり忘れていた映画だ。このドキュメンタリー映画では、2000年にブラジル・リオデジャネイロで発生したバスジャック事件が扱われるが、犯人の黒人青年は逮捕された後、護送の警察車両の中で殺害されてしまう。バスジャック時にも射殺の好機は何度もあったが、警察は、衆人環視の下での射殺を躊躇し、業を煮やした犯人が、一人の人質女性を盾にバスから降りてきたところを狙って逮捕を試みるも、人質の女性は、犯人と警察、双方からの弾丸を浴びて死んでしまう。警察が、不用意な動きの多かった犯人を、バスジャック時に狙撃しておれば、無用の犠牲を出さずに済んだ公算が高かった。だが、それをしなかったのは、なぜか。それは、市民の多くが、そんなブラジル社会の現実を見たくなかったからであり、言い換えれば、見えないところで処理されることを望んでいたからである。日本で言えば、公園に段ボール小屋を建てて住んでいる路上生活者たちを「迷惑だ」と思っていても、自分では、その言葉を口にしないし、当局に通報したりもしない。他の誰かが通報して、当局がさっさと「処理」してくれれば、清々してありがたい、というのと同じである。また、そんな人が、野良猫に餌をやるような「心優しい」人だったりもするのである)


『バス174』は、ブラジルで実際に起こったバスジャック事件をあつかった、ドキュメンタリー映画である。

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この物語は、前科のある一人の黒人青年が、乗客11人を人質にとって路線バスに閉じこもり、警察と多数のテレビ・新聞などのカメラに取り囲まれ身動きのとれなくなった、膠着状態から始まる。
当初、犯人の青年は、具体的な要求を何もせず、乗客に拳銃をつきつけて騒ぐだけだったため、薬物使用の状態で強盗を働こうとして、本人が逃げ遅れた結果のバスジャックだと判断された。明らかに、犯人は「賢そうではなかった」のである。

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しかし、そのうち犯人は、警察に拳銃とダイナマイトを要求し「持ってこないと、乗客を順番に殺すぞ。これはハッタリなんかじゃないぞ」といった、場当たり的な脅迫的要求をし始めるが、警察は言を左右にしながら、犯人の説得にあたる。
この間、不用意にバスの窓から頭だけを突き出してわめくなどする犯人を、狙撃するチャンスは何度もあったものの、警察は犯人の射殺を試みようとはしなかった。事件の一部始終をテレビカメラがとらえ、全国中継しているために、多くの国民の目の前で犯人を射殺するのは望ましくないという、警察上層部の判断が働いたようだ。

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その後、犯人は乗客の一人を射殺したかに見せ掛けるなど、カメラを意識しての、自分の「本気」を訴えるパフォーマンスを始め、「俺はストリートチルドレンだったから、警察の汚いやり方は良く知っている」などと、警察を敵視する言動をくりかえす。そして辺りに夕闇が落ちた数時間後、要求を入れられなかった犯人は、人質の女性一人に拳銃を突きつけた状態で、突然バスから降りてきた。
その隙をねらって後方から駆け寄った警官が、犯人の射殺を試みるも、気づかれて失敗。逆に、犯人がその銃撃を躱しざまに、人質の女性を撃つ、という最悪の事態となる。

結局、最後の人質となったその女性の頭部からは、警官が誤って撃ち込んだ弾丸が1発、胴体部からは犯人の撃ち込んだ弾丸3発が見つかるのだが、むろん彼女は即死状態であった。

犯人はその場で、ほぼ無傷で捕り押さえられ、「やつを殺せ!」といっせいに現場になだれ込む群集の中を、警察の車に乗せられ、ほうほうのていで現場を離れる。しかしその直後、車中で激しく警官に抵抗したという理由で、彼はその車内で警官に扼殺されてしまうのだった。

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この映画では、こうした事件の流れとともに、ブラジル社会の貧富の激しさや、それに由来するストリートチルドレンの発生。彼らを取り巻く劣悪な生育・生活環境などが紹介され、犯人の青年の同様の過去も、彼の知り合いなどの証言として語られて、彼サンドロを単なる「バスジャックの凶悪犯」と見る視点だけではなく、一人の人間として見る視点が提供されて、サンドロという人間を多角的に浮かび上がらせていく。

つまり、この映画で描かれているのは、この事件を単なる「凶悪なバスジャック事件」だと理解してはいけない、ということなのだ。

たしかにこのような犯罪は許せないものだが、こうした犯罪が発生した原因を、犯人一人に還元することはとうてい出来ず、そこにはたしかに「社会の構造的な問題」がある、ということだ。

だから、私たちは、サンドロの生育環境や彼本来の人柄を知って同情するだけではなく、こういう悲劇を生み出す社会状況を、我がこと(私たちが生み出したもの)として考えるべきであろう。これは何も「ブラジル」に限った話ではないのである。

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ブラジル社会において「ストリートチルドレン」は、社会的に「避けようもなく生み出される存在=必然悪」と理解されている。つまり「望ましいことではないが、自由主義経済の社会では、貧富の差の発生は避けがたく、おのずと社会的敗者の発生も避けがたい」ということだ。

そこで、社会的敗者として路上で生活する彼らは、社会的勝者としての「一般市民」からは、「道ばたのゴミ」と同様の『見えない存在』として無視されている。誰も、自身が加担している社会の構造的問題の故に発生する「悲劇」を、直視したくはない。だから、そうした存在を、自己の視野から排除しているのであろう。

しかし、そのために、いったん敗者となった者は、社会復帰(社会参入)するチャンスを与えられず、しばしばサンドロのように、不可逆的に悪の坂道を転げ落ちていくことになる。また、そうした犯罪者に対する警察も、彼らの人権や命にではなく、事件を見ている「一般市民の意向」に配慮して、事件に対処するようになる。
つまり、サンドロがテレビカメラの前で射殺されなかったのは、「一般市民」が「そういう現実」を(本当は)直視したがらないという事実を、誰よりも警察が知悉していたからなのだ。

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だが、そのために、人質となった女性は無用の死を強いられ、本気で人殺しをするつもりがなかったであろうサンドロは、殺人犯とならなければならなかった。
また、彼は、いったんは生きて逮捕されながら、テレビカメラには撮られない場所で「一般市民の意向」どおりに葬りさられ、彼を殺した警官たちは「一般市民の意向」どおりに、無罪となってしまうのである。

この映画のラストでも語られているとおり、『汚れ仕事は警察がやる』。
言い換えれば、サンドロを「テレビ画面の外で殺した」のは「一般市民」なのだ。

「ゴミは見たくないけれど、自分の手を汚してまでゴミ拾いはしたくないから、そうした仕事はすべてを公務員に任せる」という「一般市民」によって、この「不必要にして、最悪な悲劇」は招来されたと言っても、あながち過言ではない。そして「ゴミは見たくないけれど、自分の手を汚してまでゴミ拾いはしたくないから、そうした仕事はすべてを公務員に任せる」という「一般市民」の態度は、なにもブラジルに限った話ではなく、日本を含む、経済的二極化すすむ社会では、どこの国でも同じなのだ。

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この映画に描かれた「事件とその背景」そのものは、さほど驚くほどのものではなかった。先日観たドキュメンタリー映画『Little Birds イラク 戦火の家族たち』(綿井健陽監督)の生々しさに比べると、あきらかにインパクトも弱い。

にも、かかわらず、ここにも私に、私の負うべき「責任」への思考を迫る「他者の顔」がある。
レヴィナスの言う『寡婦、孤児、異邦人』の顔が、弱者であり、貧しき者であり、寄る辺なき者の「顔」が、ここにもあるのだ。

その意味で、私にとってこの映画は、日常のなかで見失ってきた物事への再考をうながす、むしろ静かな告発の作品だった言えるのではないだろうか。


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