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ドキュメンタリー映画 『セールスマン』 : 売上競争に喘ぐ、聖書セールスマンのリアル

映画評:メイズルス兄弟、シャーロット・ズワーリン監督『セールスマン』

本作は『アメリカン・ドキュメンタリーの金字塔』と呼ばれ、『ダイレクトシネマの旗手―メイズルス兄弟のマスターピース』とも呼ばれる、傑作ドキュメンタリー映画である。

しかし、「アメリカン・ドキュメンタリー」イコール「ダイレクトシネマ」ではない、ということは、押さえておかなくてはならない。

「アメリカン・ドキュメンタリー」とは、無論「アメリカ製のドキュメンタリー(映画)作品」という意味だが、「ダイレクトシネマ」という言葉が意味するのは、「その一部」に過ぎない。
つまり、「ドキュメンタリー映画」の中でも、特にその「直接性」にこだわった作りの作品、言い換えれば、直撮りした素材フィルムに、可能なかぎり「加工を施さない」という方針で作られたドキュメンタリー映画が「ダイレクトシネマ」なのである。

で、本作は、「ダイレクトシネマの旗手」と呼ばれるメイルズ兄弟の撮った映画であることに間違いはないのだが、ただ、そこに大きく「編集の手」を加えたのが、「三人目の監督」であるシャーロット・ズワーリンなのだ。

したがって、本作は「アメリカン・ドキュメンタリー映画」ではあるけれども、必ずしも「ダイレクトシネマ」と呼んでいい作品ではない。
たしかに「ダイレクトシネマの旗手」と呼ばれるメイルズ兄弟の撮った映画であるのは間違いないが、本作に「名作」としての形を与えたのは、シャーロット・ズワーリンなのである。

だから、本作を『ダイレクトシネマの旗手―メイズルス兄弟のマスターピース』と呼ぶのは「嘘ではない」けれども、一種のごまかしが入った表現だと言ってもいい。
たしかに本作は、『メイズルス兄弟のマスターピース』と呼んで良い作品ではあるけれども、「ダイレクトシネマの旗手であるメイズルス兄弟の作風を、代表する映画ではない」からである。

(メイズルス兄弟。左が、弟で音声担当のデヴィッド。右が、兄で撮影担当のアルバート)

一一つまり、本作は「巧みな編集によって、ドラマティックに構成された、傑作ドキュメンタリー」なのだ。

もちろん、「ダイレクト(直接・直接的)」であることに「どの程度の価値をおくか」は、人それぞれでしかない。
「ドキュメンタリー」なんだから、可能なかぎり「ダイレクトな方が良い」だろうという意見が多数派であるのは理解しやすいところだが、しかし、それが「映画」であるかぎりは、決して「現実そのもの」ではあり得ないのだ(そのことは、日本を代表するドキュメンタリー映画作家である、森達也原一男などが繰り返して強調しているとおりである)。

まず、「撮影」の段階で、「現実の一部が、選択的・意図的に切り出される」。
次に、「編集」の段階で、「そうしたフィルムが、意図的に並び替えられる(切り貼りされる)」のだ。

だから、それはもう、撮影の段階で撮影者の「意図」が入っており、編集の段階で編集者の「意図」が入っている(入ってしまう)ものなのだから、それが「フラットな現実(そのもの)」でなど、あろうはずがないのである。

つまり、「映画作品」になった段階で、それはもう「現実そのもの」ではなく、意図的に編集された「作品」であり、強く言うならば「一種のフィクション(虚構)」と呼んでも良いものなのである。

「ダイレクトシネマ」が、いくら「ダイレクト」であろうとしても、「現実そのもの」は描けず、多かれ少なかれ「フィクション(意図的虚構=解釈)」の部分を孕まざるを得ないから、その「編集的意図」をどこまで認めるかというのは、「程度もの」の問題でしかなく、人それぞれの「価値観」に拠るしかないのだ。

(ポールのセールスを撮影するメイズルス兄弟。顧客は「記録」などと簡単に説明され、「映画」になるなどとは夢にも思っていない。当時は、ドキュメンタリー映画の草創期であったからだ)

そんなわけで、本作は、メイズルス兄弟作品の中では「非ダイレクト」寄りの作品だと言えるだろう。
また、その意味で本作は、メイズルス兄弟が撮影した膨大なフィルムを前にした、シャーロット・ズワーリンによる「編集段階での、意図的切り貼り」の腕が冴えた作品であり、そのおかげで「ドラマティックさ」が前面に出た作品なのである。
そのおかげで「わかりやすく、面白い」作品になっており、その意味で『ダイレクトシネマの旗手―メイズルス兄弟のマスターピース』という位置付けにもなり得たのだ。

また、言い換えれば、本作を『ダイレクトシネマの旗手―メイズルス兄弟のマスターピース』と呼ぶことはできても、本作は、あくまでも「ダイレクトシネマのマスターピース」ではない、ということになる。

以上、このように、微妙に誤読を招く「惹句=レトリック=言葉の編集」が意図的に採用されるのもまた、「セールス」のために他ならないのだという、私たちの現実を踏まえた上で、それでも本作を優れた「ドキュメンタリー映画」として、強くオススメしたいと思う。

 ○ ○ ○

本作は、1969年の作品で「1960年代半ばのアメリカ社会を描いた作品」である。

主人公は、豪華版「聖書」を訪問販売して回る、セールスマンの4人とその上司の、5人組。その中でも、特に「主人公」格として描かれるのが、「アナグマ」のあだ名で呼ばれる「ポール・ブレナン」だ。

広い国土のアメリカにおいて、地方都市では書籍流通ルートが確立していなかったために、こうした売れにくい豪華本といったものは、訪問販売で売られていた。都心部の書店に積んでおくだけでは、とうてい売れない「商品」なのである(定価50ドルで、現在の価格に換算すると約350ドル。現在の日本円にして約5万円弱だ)。

彼らの、セールスの仕方は、あちこちの教会に「商品見本」を置かせてもらい(もちろん、リベートが支払われているはず)、それに興味を持った信徒が、商品見本に添えられたノートに名前と住所を書いておくと、後日、セールスマンが戸別訪問して詳しい説明をし、納得すれば契約を取り結ぶという方式である。

(4人はそれぞれに、車で担当地区を回る)

で、ポールたちは5人グループで、会社のあるボストンから、目星をつけた地方都市に赴き、すでに集められている「顧客情報」を基にして、「教会から来ました、ポール・ブレナンです」などと言って、戸別訪問をする。
売れ行きの良い都市では長く滞在し、そうでないところでは早々に見切りをつける。その判断をするのは、彼らのお目付役として同行する上司である。

つまり、上司を除く4人は対等であり、言うなれば、売り上げ成績を「競い合される」状況に置かれるわけだ。だから、自分だけが売れないと、とてもつらい立場に立たされる。
そして、この映画で描かれた時期、調子が悪かったのが「アナグマのポール」だった。だからこそ彼が、「苦悩する主人公」にされてしまったのである。

(顧客の不在や居留守ばかりが続き、面接すらままならず当惑するポール)

上司を除く同僚の3人は、ポールに対して同情的である。それは、彼らが「良い奴」だからと言うよりは、売り上げ不振に苦しむポールの姿は、「明日の我が身」に他ならないからだろう。
したがって、この映画を表面的に見れば、上司だけが「血も涙もない、嫌な奴」に映るかもしれないが、彼らだって、首尾よく成績を上げて、部下を率いる立場になれれば、やはり同じような「血も涙もない(ような)上司」になることだろう。

彼らは、同じ境遇にある同僚には「同情的」だけれども、当然のことながら「顧客」に対しては、情け容赦がない。
正確に言うなら、顧客に対して「情け容赦の心がない」というのではなく、それがあったとしても、行動としては「情け容赦ない」態度でセールスに臨むしかない、ということだ。

(同僚の〝ウサギ〟こと、ジェームズ)

具体的に言えば、慎ましい年金生活をしている、認知症の入りかけた独居老人を、半分は騙すようにして契約を取ったりする。
今の日本でなら「違法」ギリギリだが、当時としては、アメリカでも日本でも、そのくらいの「非情さ」がなければ、訪問販売のセールスマンは務まらなかっただろう。

とにかく彼らは「客を選ばなかった」。いや、正確には「選べなかった」。とにかく、買ってくれるというのであれば、それが誰であろうとかまわないし、気にしてなどいられなかった。
彼らは、最低限のノルマを果たせなければクビになるし、それを果たしても、より上を目指す競争に駆り立てられて、決して「これで安心」ということにはならない。

前述のとおり、部下を率いる「指揮官」としての上司になって「いち抜けた」をしないかぎり、来る日も来る日も「成績を競わされ続ける」のである。
だが、「いち抜けた」をして安心を得るためには、人並みはずれた成績を上げなければならない。ということは、人並み以上に、なりふりかまわず「冷酷」になって、「成績」をあげなければならない、ということだ。

(本社でのセールス会議。2列目左から、チャーリー、ポール、ジェームズ、レイモンド)

しかしまた、正確に言えば、上司になったからといって「成績競争」から、完全に抜けられる訳ではない。なぜならば、上司は上司で、「指揮官」として、別の「指揮官」と競争させられるからだ。

だから、ポールたちの上司が「嫌な奴」に見えるとしても、それは、ポールたち自身の客に対する態度と、本質的には何も変わらないのである。
内心で「ここまで言いたくない」「こいつも、売り上げが上がらないで、つらいだろうな」とは思っても、「それで良い」と言うことはできない。それでは自分の「成績」が上がらないし、それが続けば、指揮監督能力を問われて「格下げ」になる恐れだってあるからだ。

したがって、この映画を、表面的に見ているだけだと、「上司」は「冷酷な嫌な奴」で、ポールたちは「その弱さにおいて人間的なぶん、可哀想な平セールスマン」という風に見えるだろうが、本質は、そういうことではない。これは、「資本主義経済」が人間に強いる「非情さ」を、象徴的に描いた事例でしかないのだ。

ポールたちが、訪問販売をする顧客の大半は、「中の下」または「下の上」クラスの人たちである。

(豪華な聖書を売り込むポール)

言うまでもなく、貧乏人は、50ドルもする豪華版聖書なんて到底買えない。
一方、金持ちは、彼らの訪問販売など相手にしないし、騙されもしない。「資本主義経済」の社会を勝ち抜いたような「したたかな成功者」たちは、ポールたちの手口を知悉しているから、彼らの「口車」に乗ったりはしないし、豪華な聖書が欲しければ、訪問販売のセールスマンなど相手にせずとも、然るべく「取り寄せる」こともできるからだ。
したがって、ポールたちの訪問販売の標的になるのは、素朴に敬虔な信仰を持つ、しかし、あまり世慣れてもいなければ、さほどの教養もない人たち、ということになってしまう。

日本のロンクバンド「THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)」の曲「TRAIN−TRAIN」には『弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者をたたく』とあり、「青空」には『隠している、その手を見せてみろよ』という歌詞もある。一一まさに、ポールたちのことではないか。

この映画が描いているのは、「弱肉強食」の「資本主義社会の現実」であり、その圧倒的な力の前には、「聖書」でさえ「商品」に変えられてしまい、「神父・牧師」や「神学者」さえ、「マモンの神(金銭)」の信者に作り変えられてしまうという、非情な現実である。
(※ なお、かつてのアメリカ社会では、裕福な者は「プロテスタント」、移民などの貧しい者は「カトリック」が多かったため、ポールたちは主にカトリック信者を標的として売り込み、「カトリック教会バチカン)」の権威を売り物にした)

つまり、こうした「現実」を、経済的に行き詰まっていた「1960年代半ばのアメリカ社会」における「訪問販売セールスマン」たちの姿を通して、象徴的に描いたのが、本作であるといえよう。

その意味で、たしかに本作は「アメリカの一時代の姿」を生々しくも象徴的に描いた傑作だと言えはするだろうが、しかし、本作が今でも私たちの胸を重く抉るのは、本作の描いたものが、時代や国を超えた「非情な現実」だからなのではないだろうか。


(2023年1月16日)

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