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映画 『動物愛護法』 と 『彷徨う魂』 : 〈独善的な正義〉の アンバランス・ゾーン

映画評:北田直俊監督『動物愛護法』『彷徨う魂』


とても興味深い映画を観た。
私は以前から「ペット問題」に興味があったので、『動物愛護法』というタイトルのドキュメンタリー映画が上映される知り、近い問題を扱った作品だろうと踏んで、観に行った。

この『動物愛護法』は、かなり「引っかかるところ」の多い映画だったのだが、同映画の鑑賞後、同じ監督が、同じテーマで撮った劇映画である『彷徨う魂』も連続的に上映されると知ったので、そちらも観ることにした。

「劇映画」を観ることで、ドキュメンタリー映画『動物愛護法』に感じた「引っかかるところ=違和感」が、当を得たものだったのか否かを、確認できると思ったからだ。

そして、この読みは正しかった。
やはり、この映画監督は「ちょっとおかしい」という確信が持てたのである。

 ○ ○ ○

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ドキュメンタリー映画『動物愛護法』は、次のような内容である。

『 欺瞞に満ちた動物愛護法の矛盾を炙り出す

2017年、埼玉県で起きた連続猫虐殺事件で逮捕された元税理士の男の裁判において下された判決は動物愛護法違反・執行猶予4年というあまりにも虚仮威しの茶番であった。
日本中を震撼させた残虐極まりない事件であり、犯人に対して厳罰を求める嘆願書が全国から22万筆以上も集まったにもかかわらずである。
現実社会と法曹界の乖離に疑問を抱いた監督が、4年の歳月を費やして、独自取材で様々な動物虐待犯と対峙し、その深層を突き止めるべく製作されたのが本作『動物愛護法』である。
だが取材を通じて見えてくるのは、皮肉にも虐待犯を守る為に作られたかのような動物愛護法という法律の矛盾で欺瞞に満ちた実像であった。』

映画『動物愛護法』ホームページより

映画は、テレビニュースなどでも時折見かけるような、米作り体験講習会のシーンから始まる。
前年の収穫の後、水が抜かれていた田んぼに、水が引き込まれると、田んぼのひび割れなどの土中から、虫やカエルが出てくる。たぶん「無農薬」農法なのであろう。参加者は大人中心だが子供もいて、珍しい体験に大はしゃぎだ。一一そんなシーンである。

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一瞬、別の映画の予告編かと思ったが、そうではなかった。
このあと「2017年に埼玉県で起きた連続猫虐殺事件を知り、これに興味を持って取材する中で、私はPTSD(心的外傷後ストレス障害)になった。そのせいで、農作業が手につかなくなった私は、この連続猫虐殺事件のその後を追い続けることになる」という趣旨のナレーションが入ったのだ。
ナレーションは、監督自身によるものであった。

この冒頭からもわかるとおり、この作品の監督である北田直俊は「自然や生き物を愛する、心優しい人」なのであろう。だから、13匹もの猫を虐殺し、その映像をネットにアップして喜んでいたような「鬼畜」野郎を「許せない」と思ったのは、当然のことであった。

だが、だからと言って、「PTSD」になったというのが、私には解せなかった。
普通、「鬼畜な動物虐待犯」に「許せん!」と腹を立てることはあっても、「PTSD」にまではならないからだ。

この動物虐殺犯は、ノラ猫を捕まえては、いろいろな方法で物理的虐待を加えて殺し、その様子をネットにアップしていた。そしてその動画には、「同好の士」の絶賛のコメントが多数寄せられていたという。

そうした動画の中には、猫が2、3匹ほど入るくらいの小さな金網の檻に、猫を1匹入れ、それを外からバーナーで少しずつ焼き殺すなどという、狂っているとしか言いようのない動画もあった。
だが、そうした過激なものほど、「ファン」からの評判は良かったようだ。だから、この動物虐殺犯の男も、自分の行いについて、おかしな自信をつけてしまったのであろうし、その結果、捕まるまで、虐殺をやめることができなかったのであろう。

だが、この映画の監督が、この事件に興味を持って調べた結果、「PTSD」になったのだとしたら、たぶん、こうした動画を、ぜんぶ、自分の目で見て確かめた、ということなのではないだろうか。だからこそ、「PTSD」になったのだ。

たしかに、犯罪行為の責任を追求をするためには、事実行為の確認は欠かせない。だから、つらくても「動画の内容を、すべて、細部まで確認(チェック)」したとしても、筋としては通っている。一一しかし、私はこの「徹底性」が、「異常だ」と感じられた。

と言うのも、人間には、個人差のある「耐性」というものが、必ずあるからだ。
「物理的暴力」に対して、強い人も弱い人もいる。少々殴られても、笑って殴り返すような人もいれば、一発ビンタを食らっただけで、凍りついたようになって動けなくなってしまう人もいる。要は「物理的暴力に対する耐性」の差だ。
同様に、例えば、ネットなどで以前はよく見られた「炎上」事件で、その標的になった場合、徹底的に抗戦する私のような者もいれば、すぐにブログを畳んでしまうような人もいる。これは「心理的暴力に対する耐性」の違いだ。
人によっては「物理的暴力には強いが、心理的暴力には弱い」というタイプもいれば、その逆もいる。当然、どちらにも強い人もいれば、どちらにも弱い人もいる。
「耐性」とは、このように人それぞれにだが、たしかに存在しているのである。

そして、人間には「防衛本能」というものがある。自分が傷つけられる怖れのあるものを敏感に察知して、それを回避するという、生き残りのための「動物的本能」である。
だから、普通は「これはヤバイ(これに近づいたら、自分が傷つくことになる)」と感じて、人は、自分が「苦手とするもの」を回避するのが、普通であり自然なのだ。
例えば「こんな残酷な動画、とうてい視ていられない」と感じて、そこで視るのを止めるのが、正しい「自己防衛」反応だと言えるだろう。

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ところが、この監督は、もともと「自然や動物が好きな、心優しい人」であるにもかかわらず、「普通の人」でも目を背けるような「猫虐殺動画」を、見続けたのではないだろうか。だからこそ、「PTSD」になった。

たしかに、その「使命感」もわからないではないけれど、しかし動物虐殺犯の蛮行を批判し、それに対する何らかの行動を起こすだけなら、「残酷動画」をぜんぶ視る必要などなかった。

例えば「小さな檻の中に閉じ込めた猫を、外からバーナーで焼いて、いたぶり殺す」などという動画は、それを視なくても、その概要を知っただけで、十分に不愉快でもあれば怒りを感じるものであり、それで十分「こんな奴は、絶対許せない」となるはずだ。だから、そうした認識と気持ちによって、「反・動物虐待」運動に加わっても良かったのである。

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だが、この監督は、そうした「常識的な範囲」を逸脱して、まるで殺された猫に憑かれでもしたかのように、「残酷動画」をチェックした結果、「PTSD」を発症したのであろう。
医者ならば「そこまでやるからだ。そんなことをしてはいけない」と、注意叱責したのではないだろうか。

つまり、この監督のやったことは、動物としての人間の「防衛本能」に反した、タガの外れた理念による「観念的暴走」だったのだと言えるだろう。
言うなれば、自らの「防衛本能の警告」を無視して、わざわざ自ら傷つきに行って、傷ついたのだ。
「猫たちが苦しんだ以上、自分も同じ苦しみを味わわなければ、何もわからない」と言わんばかりに。

だから私は、「この事件に興味を持ち、取材した結果、PTSDになった」という趣旨の、この短いナレーションに、「違和感」を覚えたのである。

映画は、監督の視点で、この動物虐殺犯が「執行猶予付きの有罪判決」を受けたことに、怒りを爆発させる。
「こんな奴は当然、重い実刑を課されるべきであり、執行猶予などつけるのは、無罪放免も同然だ。裁判官は、何もわかっていない。動物の命をなんだと思っているんだ!」という感じだったのだろう。この気持ちもわかる。

そこで、カメラは、この動物虐殺犯が再犯をしてはいけないということで、その住居を調べ上げ、監督の動物愛護関係の仲間(出演者の、数名の中年男女)が、ボランティアで元・動物虐殺犯の男の家を「張り込み」し「尾行」して「行動確認」をする。当然、それをカメラに収めているのだ。

言うまでもなく、この段階で、すでに「やりすぎ」感が否めない。

たしかに、こんな奴は、ほぼ確実に再犯をするだろう。だから、二度と猫殺しをさせてはならないと、「監視」したくなる気持ちはわかる。だが、「普通」はそこまではしない。なぜか。
一一無論それは「そんなことをやっている暇がない」からである。

しかし、こう書くと、きっと、この映画の監督と、その動物愛護仲間は、「それは、あなたが猫の命を軽んじているからだ。本当に可哀想だと思っているのなら、同様の行動を採るはずではないか」と非難することだろう。こうした「正論」には、なかなか反論しずらいものである。

だが、私なら、こう答えるだろう。
「私の場合、いや、多くの人の場合、猫の命よりも、自分の生活の方が大切だから、その両者を天秤にかけた結果として、止むを得ず、自分の生活を優先するだけだ。決して、猫殺しを認めるつもりなんかない」と。

だが、こう答えると、またこう反論されるかもしれない。
「そうだとすると、あなたは自分の生活が保証されるなら、私たちと行動を共にするのだな?」。

これに対しては、私は、こう答えるだろう。
「もしも私が、そうした恵まれた身分になって、お金や時間に余裕ができたなら、あなた方といっしょに動物虐殺犯を追い回すのではなく、世界に大勢いる難民や飢餓状態にある子供たちを救済する活動の方に協力するだろう。ユニセフとか、セーブ・ザ・チルドレンとか、テレビでよくやっているでしょう。私なら、間違いなく、そっちに行くし、結果としては、犬や猫よりも、あるいはクジラやイルカよりも、人間の命を優先する。もちろん、これもさっき言ったとおりで、他の動物の命がどうでもいいと軽んじているわけではありません。あくまでも、優先順位の問題です」

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この回答に対し、彼らは「立場の違いですね」と、納得してくれるだろうか?
それとも「結局、なんだかんだ言っても、あなたは猫の命を軽んじているんですよ。あの動物虐待犯と同じにとは言わないが、執行猶予判決を下した裁判官とは同じにね」と、憎まれ口のひとつも口にするのではないだろうか。

このあと映画は、他の動物虐殺事件を追い、その裁判結果を見ることで、タイトルの「動物愛護法」の問題に行き着く。
要は「法律が甘すぎる」ということだ。

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そしてそれは、西欧諸国の同種の法律に比べても「遅れて」おり、早急な「厳罰化」が必要なのに、日本のこの法律は長年放置されたままになっていると、監督はナレーションで「怒り」を露わにする。
もちろん、ナレーションで声を荒げるわけではなく、その中身が、わかりやすく「怒っている」のだ。

『だが取材を通じて見えてくるのは、皮肉にも虐待犯を守る為に作られたかのような動物愛護法という法律の矛盾で欺瞞に満ちた実像であった。』

一一これである。

『虐待犯を守る為に作られたかのような動物愛護法という法律の矛盾で欺瞞に満ちた実像』とのことだが、これは明らかに「彼ら(監督とその仲間たち)」の視点に立った、「主観的」なものでしかない。

そもそも、虐待犯を守りたければ、こんな法律を作らなければいいのだし、法律があっても「無罪判決」を下せばいいだけの話である。
つまり、この法律は、他の刑罰法令と同様「罰するために」作られており、「執行猶予付き有罪判決」とは、「無罪」ではなく、「処罰(を意図した有罪判決)」なのである。

だが、これが「彼ら」にとってそれは「手ぬるい」ものでしかなく、ほとんど『虐待犯を守る為に作られたかのよう』にしか「思えない」、ということでしかなかった。

しかし、ある「刑罰」が重いか軽いかは、その人の「価値観」によるのであって、絶対的な「正義」が存在するわけでもなければ、絶対的に正しい「罰則基準」があるわけでもない。

「彼ら」は、日本の動物愛護法が、西欧諸国の同種法に比べて「遅れて」おり「手ぬるい」と言うけれども、どっちがより妥当なのかという判断は、そんな「主観的・感情的」なものではなく、もっと「客観的」で、多くの人を説得できる、冷静な根拠に拠るものでなくてはならないだろう。

例えば、人間の場合なら「死刑制度」問題がある。
日本ではいまだに「死刑制度」が存置されているが、西欧では死刑を廃止した国も少なくない。だから「西欧は進んでいて、日本は遅れいている」と言われるわけが、ことはそんなに簡単な話ではない。

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私は「死刑制度反対論者」だが、仮に、日本で「死刑制度」が無くなった場合、問題は、それまで「死刑」相当であった犯罪者への処罰は、おのずと「終身刑」になるだろう。そうすると、それまで「終身刑」相当だった犯罪者の処罰は、それよりも軽いものにせざるを得ないだろう。
つまり、「処罰を与える」という「方向性」自体が方向転換を迫られて、おのずと「更生」に重きをおいた法制度にならざるを得ないし、そうなることが望ましいと、私は思う。

しかし、そうなった場合、動物虐殺犯に対する処罰も、当然、今より軽くなるか、もしくは「更生」に力点を置いたものに変わらざるを得ないだろう。だが、そうなった時に、一一はたして「彼ら」は、納得するだろうか?

私はしないと思う。
「彼ら」が、「執行猶予付き有罪判決」を「無罪」も同然だと考え、「厳罰化」を求めるのは、「彼ら」の行動の本質が(劇映画『彷徨える魂』で描かれたのと同様の)「復讐」だからに他ならない。

「彼ら」の本音は、「猫を殺したのなら、その犯人も殺されてしかるべきだ」というものだろう。

さすがに、そこまで極端で現実味のないことを言っても「世間の顰蹙を買うだけで、得策ではない」から、あえて言わないのだろうが、本音のところではそのはずだし、「彼ら」にとっては、明らかに「可愛い猫の命」と「動物虐殺犯の人間の命」なら、前者の方が重いのだ。
だからこそ彼らは、動物虐殺犯の親にまで、インタビューしたりできる。「あんな人間に育てた、あなた方にも責任はある」と、本音では思っているから、いちおう「丁寧な言葉遣い」はしていても、家まで押しかけて行ってインタビュー(録音録画)するなどといったことを、平気でできるのである。

つまり、「彼ら」には、「他者」というものが存在しないのだ。
ここで言う「他者」とは、「違った価値観を持った存在」という意味である。

例えば、動物虐殺犯の親にすれば「どんなに酷いことをした息子でも、可愛い子供であることには変わりないし、更生する(した)と信じたい」というのは、ごく当たり前の「感情」だろう。

だが、「彼ら」は、こうした「価値観」を、彼らの「正義」に基づいて、それは「間違いだ」と完全否定する。
自分の子だろうが、他人の子だろうが、やったことに対しては、同じように罰せられるのは当然のことで、それを「自分の子」だからと言って、庇いだてするのは「不正でしかない」一一という感覚なのだろう。

なるほど、これも一理はあるけれど、やはり、どこか「狂っている」。
「狂っている」という言葉が強すぎれば、「歪んでいる」。これでも言い過ぎなら「バランスを欠いている」と、そう言い換えても良い。

「彼ら」の「怒り」と「正義」は、動物虐殺犯そのものから、やがて、動物虐殺犯を「適切に」罰しようとはしない「司法(警察・検察)」と「裁判官」に向かう。

「明らかな動物虐待(あるいは虐殺)事件なのに、なぜ捜査しない?」「こんな明らかな動物虐待(あるいは虐殺)事件を、どうして不起訴にする?」「どうして、こんな動物虐待(あるいは虐殺)犯に、執行猶予を与えるのだ?」と、「彼ら」は、関係各機関に電話をし、あるいは直接訪問して質問をぶつけ、それを隠し撮りをした上で、その対応に対し「結局、やる気がないのだ。彼らも、所詮は動物の命など、なんとも思ってはいないのだ。その意味では、彼らも虐殺者と大差のない、冷たい人間なのだ。自分では手を下さないが、虐待・虐殺を黙認しているのだから」といったコメントを、出演者の「動物愛護ボランティアのメンバー」が付して、批判する。

また、監督自身も、動物虐殺犯に厳罰を与えない裁判官に対し、敵意をむき出しにし、映画の中での会話で、「サイコパス(動物虐待犯)を、サイコパス(警察)が捜査して、サイコパス(裁判官)が裁くようなものだ」と言い捨てる。

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このように「彼ら」は、自らの「正義」に、毛筋ほどの疑いを挟むこともできない人たちである。厳しく言えば、彼らはもはや「動物愛護カルト」なのだ。

だから私自身、いくら「動物虐殺者を憎む」とはいっても、「彼ら」に賛同することはできない。
「自分の価値観」を絶対化して疑わず、それを盲従して生きるだけなら、それは「動物虐殺犯」や各種「愉快犯」と、なんら選ぶところはないからである。

「彼ら」の、こうした「バランス感覚の欠如」は、その言動の端々に伺える。

映画の中でも「彼ら」は、複数(4、5人)で元・動物虐殺犯ひとりを取り囲み、「動物愛護法厳罰化運動」の署名用紙に「署名しろ」と要求し、それを元虐待犯の男に拒まれると、男を小突くようにして「おまえはそれで、本当に反省しているのか。裁判で何と言っていたんだ。本当に反省しているのなら、これに署名するのが、おまえの当然の務めだろう。さあ、署名しろ! できない理由なんかないだろうが!」と、男を四方から取り囲んで罵倒し恫喝して、署名を強要するのである。

あるいは、ここまで「犯罪的」ではないにしても、例えば、だまし討ちで「動物虐殺者」やその家族、あるいは従業員にまでインタビューを求め、それを断られると、「そちらのご意見を聞きたいと思って伺ったんですが、お話をお聞かせ願えないのなら、あとはこちらの理解で、話を進めさせていただいても良い、ということなのですね」などという「嫌がらせの脅し」を、捨て台詞的に口にしたりする。

また、殊更に「我々も常識はわきまえていますから、そんな非常識なことまではしませんが」とかいった言葉を口にする。
だが、こういう言葉を殊更に口にする人間で、常識をわきまえた人間など、滅多にいない。
なぜなら、こういう言葉は「アリバイづくり」のための言葉、「自己正当化」のための言葉であって、本当に常識的な人が、こんな「無用な言葉」を、わざわざ口にする機会など無いからである。

くりかえすが、彼らの「気持ち」は、わからないでもない。
私自身、相当に過激な人間で、そこまでやるかのと言われることをやる人間だからだが、しかし、「彼ら」のような「独善的な正義」を、徒党を組んで、無自覚に振り回すことはしない。つまり、自分が「やりすぎ」ないために、私は自分の行為を、自分一個の「言論」に自己限定しているのだ。

無論、「言論」ですら、やりすぎれば「名誉毀損罪」のように「犯罪」になる場合もある。ましてや、「彼ら」のような「実行行為」としての「プライバシーの侵害」となれば、それは限りなく「犯罪行為」に接近せざるを得ない。

だが、「彼ら」にしてみれば、「あんな酷い動物虐殺犯人が執行猶予になるんだから、我々のやっていることを犯罪呼ばわりすることなど、裁判官でも許されないだろう。捕まえるのなら捕まえればいい。いずれにしろ、間違っているのは、法律の方なのだ」ということでしかないはずだ。つまり「彼ら」は、「確信犯」なのだ。
そして、彼らの「動物愛護」は、すでに「人間社会」の「良識(コモン・センス)」の枠を逸脱した、「信仰的絶対真理」と化しているのである。

例えば、この「自主制作映画」に等しい、極めてマイナーな映画について、「映画.com」には、現時点で9つのカスタマーレビューが投稿されており、そのすべてが「星5つ」の満点であり、すべてが絶賛である。一一これはなぜか?

無論それは、「彼ら」の同志しか、こんな観る機会の極端に限られた、マイナーな映画を見た上で、わざわざカスタマーレビューまで投稿しようとは考えないからだ。こうしたレビュー投稿は、一種の「布教活動」のようなものだからである。

例えて言うなら、創価学会の池田大作名誉会長の著書や、幸福の科学の大川隆法総裁の著書に、「信者」の絶賛レビューが(ステルスマーケティング的に)並ぶのと、同じことである(もっとも、こうした宗教団体の方は、もっとメジャーだから、アンチのレビューも付くのだが)。

このように、「彼ら」は「動物愛護」という「絶対的正義」を信仰している。

もちろん、「動物愛護」は「正義」なのだが、しかし、その「正義」とは、この世に膨大に存在する「正義」のうちの一つでしかないことを、「彼ら」は理解しない。

「彼ら」は、自分たちの「教義」にしか「興味」がなく、きわめて「視野が狭い」。だから、他の「正義」と比較考量して、「バランスを取る」ということが、「彼ら」にはない。

また、だからこそ、「もう少し広い視野」の中で「彼ら」を見た場合、「彼ら」は、きわめて「偏狭=不寛容」であり、その意味で「ちょっとおかしい」という印象を与えるのである。

 ○ ○ ○

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では、同じ監督の撮った劇映画『彷徨える魂』の方は、どうであったか?

当然、どこか微妙に歪んでいて、その意味で、意図せず、少々「うす気味の悪い作品」になっている。

『夫婦が愛した飼い猫が殺された。犯人の男は逮捕されるが、執行猶予処分で自由の身に。仲睦まじい夫婦の日常は次第に崩壊していく・・・。
写真家兼トラック運転手の坂崎陽平と大学講師である公務員の妻、由美は雨が降りしきる夏の日に捨て猫を拾った。「喜雨」と名付けられたその猫は、愛情たっぷりに育てられた。陽平の夢であった猫の写真個展も成功に終わり、幸せを噛み締めていたところ、喜雨は坂崎家のわずかな隙間から出て行ってしまう。喜雨の捜索が続けられて数日経ったある日、陽平と由美は隣町で野良猫の虐待事件があったと知る。後日、虐待犯は逮捕された。喜雨の安否を確かめたい陽平は犯行現場の廃屋を特定し、現場で喜雨の首輪を見つけ、悲しみと怒りに身体を震わせる。一方、逮捕された男は「動物愛護法違反」の軽犯罪扱いで、執行猶予処分になり自由の身に。さまざまな感情が渦巻く陽平は、運送の仕事で事故を起こしてしまい、由美も心労が祟って精神のバランスを崩す。そんな時、陽平は隣町で何食わぬ顔で暮らす犯人を目撃するのだが・・・。』

(映画『彷徨う魂』ホームページ、「STORY」より)

簡単に言えば、東野圭吾の原作映画『さまよう刃』の、「愛猫」版である。

『さまよう刃』は、愛娘をボロボロに凌辱された上で殺された父親が、犯人を殺そうと、その行方を追う、というお話だったが、本作『彷徨う魂』は、現実の「連続猫虐殺事件」をモデルに、たまたま家から出てしまった愛猫を殺された夫婦の夫の方が、執行猶予で拘置所(刑務所ではない)から出てきていた(恵まれた前職こそ失ったものの、普通の生活を送っていた)犯人を、刺し殺そうとする「現実には無かった事件」を描いている。

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(東野圭吾原作の映画『さまよう刃』の邦画版と韓国リメイク版)

この『彷徨う魂』では、子供のいない夫婦が、捨て猫を拾って帰り、これを子供同然に溺愛して、笑いの絶えない幸福な家庭を築くのだが、それが愛猫が殺されたことよって一転、妻は精神を病み、猫が殺されたという記憶を封印して、さもまだ生きているような話を夫にする、といったことになる。
それでなくても、うっかり猫を家から出してしまったことに負い目を感じて苦しんでいた夫も、うつ病状態となって職場でも失敗を繰り返して、ついには休職を言い渡されてしまう。
その結果、家庭は真っ暗になり、その上、この先の生活資金も危ぶまれるといった絶望状態の果てに、思いつめた夫は、元・動物虐殺犯の男を、白昼の路上で刺すことになるのだ。

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この映画の冒頭は、白毛の多い、目の虚ろな初老の男が、刑務所から出てくるところから始まるのだが、この男性が「実刑を食らって、服役した後の主人公」である。
彼は、不自然に前のめりなヨチヨチ歩きで、家路を急いでいる様子なのだが、その途中で通りがかった川の土手で、かつて妻と二人で仲良く語らったことを思い出し、ここから「回想シーン」としての物語本編が始まる、という作りである。

映画の前半、新居購入を考える主人公夫婦が住宅展示場に行った帰り道、幸福そうな妻が、歩きながら、小坂明子の「あなた」を歌い始めるシーンがある。

もしも 私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう
大きな窓と小さなドアーと
部屋には古い暖炉があるのよ
真赤なバラと白いパンジー
子犬のよこには
あなた あなた
あなたが居て欲しい
それが私の夢だったのよ
いとしいあなたは 今どこに

この歌に、途中で夫が入ってくるのだが、夫が「子犬のよこには、あなた〜♪」と歌うと、妻はそれを咎めて「子猫でしょ」と半畳を入れ、夫は「ああ、そうか」と言って、二人で笑うという、そんなシーンである。

この物語の最後は、再び現在時に戻り、出所してきた夫が最寄り駅に着き、そこで、妻の幻を一瞬見ると、なぜか駅から出て、駅前のバス停からバスに乗って、どこかへ帰っていく。
このバスに乗って、主人公が「どこか」へ帰って行くところで、今度は、小坂明子本人の歌う「あなた」がそこに重なって、物語は幕を降ろすのだ。

つまり、これは「動物虐殺犯」のために起こった「家庭崩壊の悲劇」を描いた作品なのだが、しかし、この作品は、全体としてみると、やはり、どこか「いびつ」な印象を与えるものにしかなっていない。

例えば、出だしの出所シーンからして、この物語がどのような展開になるのかは、容易に想像できるし、前半の殊更に「明るく仲の良い、幸福な夫婦ぶり」は、後半の「不幸」を際立たせるための「前振り」でしかないというのが容易にわかってしまう、あまりにも見え透いた「為にする」演出なのだ。

そもそも低予算ということもあるからだが、画面作りも安っぽくで、全体に「小学生の頃、学校で観せられた教育映画」のような「展開と結末の見え透いた映画」で、しかし、後半の、包丁を忍ばせたカバンを下げて、元・動物虐待犯の男を尾行し、犯行の機会を狙う夫の姿は、ほとんどサイコホラーのような雰囲気さえ漂わせていた。
無論これは、ある程度、意図した「演出」と「演技」に拠るものではあったのだが、最後にかかる、小坂明子の「あなた」は、どう考えても、センスがズレているとしか思えなかった。

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たぶん、監督としては、この歌のような「幸福な家庭」を夢見た男が、それを失った後で、その頃の夢を懐かしんでいるという、被害者の「悲しい姿」を演出しようとしたのであろう。
だが、私には、この歌が「妄想」に閉じこもったままの主人公の「狂気」を感じさせて、むしろ気味悪くさえあり、明らかに「選曲ミス」だと思われたのだ。

知っている人は知っているだろうが、それでなくとも小坂明子の「あなた」の歌詞は、「妄想=叶わなかった夢」に耽る女の(現在の)姿を想像させて、どこか「気味が悪い=不健康だ」と言われることのあった曲である。
無論、監督は、それを知らずにこの曲を採用したのだろうが、それを知らずに採用したというところにこそ、両者に共通する「脳内完結=後ろ向きな現実逃避」的な部分で、この曲とこの映画は、ある種の「不気味さ」を共有していると、そう思えたのである。

 ○ ○ ○

ともあれ、「動物虐待」が許されざる行為であることは、論を待たない。

だが、それは「あらゆる犯罪は許されない」というのと同じことでしかなく、特別に「それだけが許されざる行為」だというわけではないのだから、人は、社会の中に無限に存在する「悪」と対峙するにあたっては、否応なく、その軽重判断をし、限られた時間の配分を考えなければならない。そしてこれは、警察や裁判所だって、同じことなのだ。

「彼ら」は「動物虐待」問題で頭の中がいっぱいなのだろう。
だが、当然のことながら、警察や裁判所はそうではない。「人間の問題」だけに限っても、対処しなければならない犯罪は無限にあって、それら「すべてに対応することは、物理的に不可能」なのだ(だからこそ、見せしめ的検挙などというものがある)。

例えば、駐車違反(という犯罪)を取り締まられた人が「それなら、あれも取り締まれ、これも取り締まれ、全部取り締まれ。毎日、24時間、全国のすべての場所で、すべて違反を取り締まれ。そうじゃなきゃ、不公平じゃないか。それとも警察は、多くの違反を黙認して、一部の人間だけを取り締まるのか? 法律はそんなふうにはなっていないだろう」と、不平を鳴らすのと同じことである。

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たしかに、この人の言うことは「正論」である。
しかし、本当に、そんな取り締まりをやろうとしたら、全国の交通警察官や交通指導員だけでは足りず、刑事さんも署長さんも総出で取り締まりをしなければならないだろうし、それでも取り締まりきれはしないだろう。
「それでも、できる限りやれ」と言われて、実際にやったら、警察の他の業務がストップして、そっちで文句を言う人が出てくるのは、必定である。無論、その結果として「動物虐待事件の捜査など」している暇はない(優先順位は低い)ということになるのは、目に見えているのだ(し、すでに現状はそうだろう)。

つまり、ドキュメンタリー映画『動物愛護法』の方で、「動物愛護のメンバー」が警察署や検察庁に電話をかけ、警察や検察が、事件を「法律」にあるとおりに捜査立件しないと申し立てる「苦情」は、そこだけを見れば「正論」ではあるけれども、客観的に言えば「非現実的な無理難題」でしかないのである。

だが「彼ら」は、自分たちが興味も持つ「動物虐待問題」以外には、興味がない。
泥棒にも、痴漢にも、交通違反にも、特殊詐欺にも興味がない。
どんなに取り締まっても、決して無くなりはしない各種犯罪に対処している警察や、検察や、あるいは裁判官が、否応なく、物事に「優先順位」をつけなければならない、なんていう「現実」は、「彼ら」には、関係のない話なのだ。

「戦争難民」も「飢餓で苦しく子供たち」も「LGBTQの権利」も「貧困家庭」も、「彼ら」には、ぜんぶ「関係ない」。

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だから、映画『動物愛護法』の方では、拘置所から出てきた動物虐殺犯が、生活保護を受けて生活し、その金でインコを購入して、また殺しているというのを知り、出演者の「動物愛護グループ」のメンバーと監督の間で、「生活保護」について、次のようなやりとりがなされる。

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監督  「あんなやつに、生活保護を認めるのはおかしい」
メンバー「まあ、生活保護は、何をやった人間かは、問わないからね」
監督  「だいたい生活保護を受けているやつなんか、たいがいはインチキだ。私の知り合いにも、そんなのが二人ほどいる」
メンバー「でも、本当に必要な人もいるからね」
監督  「そんなものは、むしろ例外だし、あいつに生活保護なんて絶対おかしい」
メンバー「それはそうだ」

これは、記憶だけで書いているから、文言自体は、映画のセリフそのままではないのだが、趣旨はこういうことだった。

要は、出演者の「動物愛護グループのメンバー」よりも、「監督」の方が、むしろ「極端」であり、「思い込みだけの決めつけ」を平気で振り回し、それが人に聞かせられるようなシロモノものではない、ということにさえ、気づいてもいないのである(※ この点は、ドキュメンタリー映画の金字塔、原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』との比較も面白い。この作品は、主人公の奥崎謙三は、ちょっとキている人だったが、監督は客観的に撮っていた)。

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つまり、こんな監督が撮った作品だからこそ、それがドキュメンタリー映画であれ、劇映画であれ、どこか「バランスを欠いて、おかしい」のだ。そして、この「おかしさ=歪み」は、きわめて「危険」なものだと、私は思う。

ネット言説ではないが、彼らは「ネトウヨ(ネット右翼)」などと同様に、「自分たちなりの正義」を仲間内で強化し合う「エコーチャンバー」の果てに、現実世界から遊離した「正義」を振り回している。

だが、誰だって「猫」は可愛いから、猫殺しは許せないと思うので、彼らの主張を適切に批判しにくいのだが、一一しかし、「猫」の命がそこまで大切ならば、牛や豚の命も同様に大切だろう。同じ意味で、カエルやバッタの命も大切だろうし、松やヒマワリの命も大切なら、セイタカアワダチソウをはじめとした雑草も、ホウレン草やネギも、同様に命を持っている大切な「生き物」なのだ。

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そうした中で、私たちは動物として、否応なく、他の動物の命を取らなくては、生きてはいけない。
また、だからこそ、無用の命をとってはならないのだが、何が必要な殺生で、何が無用の殺生かは、簡単には決められないという現実を、「彼ら」自身も、真摯に受け止めるべき「義務」があるのではないだろうか。
「彼ら」だって「殺生」をして生きているのだから、それを忘れて、自身を「犬猫の命を大切にする、心優しい人間」だとだけ、ご都合主義的な「思い込み」を持つべきではないのだ。

映画『彷徨う魂』の主人公夫婦は、捨て猫を拾って育てるが、私に言わせれば「ペットとして可愛がる」という行為自体が、すでにして、動物にとっては、無用の迷惑行為でしかないのだということを、「彼ら」は、真剣に考えたことなどないのではないだろうか?


(2022年8月23日)

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