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映画『アントニオ猪木をさがして』 : 解けない謎としての〈アントニオ猪木〉

映画評:和田圭介・三原光尋監督『アントニオ猪木をさがして』(2023年)

昨年(2022年10月1日)亡くなった、プロレスラー・アントニオ猪木についてのドキュメンタリー映画だ。

ただし本作は、よくある「伝記」的なドキュメンタリー映画ではない。アントニオ猪木の出生から死までの個人史を、レスラーとしての人生を中心に描いていくというようなものではない。その意味で、本作は、わかりやすい作品ではない。

しかし、それは当然なのだ。本作は「みんなが知っているアントニオ猪木」という「アントニオ猪木」像をなぞることで、無難な満足を提供するような作品ではない。
この映画で描かれるのは、「プロレス」とか「プロレスラー」といったもの、あるいは「格闘家」といったものの「常識的な型(あるいは枠)」から、常にはみ出していった、はみ出さずにはいられなかった人としての猪木の、その「特有の過剰性」とは何だったのかを、問い求めた作品なのである。

当然それは、アントニオ猪木「信者」が描いていたような、型どおりの「アントニオ猪木」像ではない。むしろ、決して理解されないままに依存される「教祖の孤独」を生きた人たる、アントニオ猪木。あるいは、猪木寛至という一人の男の素顔を知りたいと願った者によって作られた映画だと、そう言ってもいいだろう。

猪木信者が、アントニオ猪木をアントニオ猪木としてだけ享受し、型どおりに、力道山ジャイアント馬場モハメッド・アリ、あるいはその他のレスラーや格闘家などとの関係だけで描くような「偉大なる偶像としてのアントニオ猪木」ではなく、そうした時間軸の中で生きながら、常にそうした「舞台」からはみ出していく、猪木独自の「過剰さ」とそれゆえの「孤独」の意味するところを、何とか理解したいと思い、あえて型どおりの「プロレスラー・アントニオ猪木のドキュメンタリー」にはしなかったのが、本作なのである。

この映画で、特に驚かされるのは、

(1)「猪木ファンの姿を描いた、フィクションのドラマパート」の存在
(2)「対モハメッド・アリ戦」の不在

であろう。
こう書けば、この作品が、いかに「アントニオ猪木ドキュメンタリー」の「定型」を、意図的に外した作品かがわかるはずだ。

当然のことながら、このドラマパートは、平均的な「アントニオ猪木」ファンには不評だった。彼らが見たかったのは、そんなものではなかったからである。
だが、彼らが自明視している「教祖像」に対しては、この映画は極めて自覚的に冷淡だったのだ。

(ドキュメンタリー本編とドラマ編にも出演した、俳優の安田顕。)

この映画のチラシや公式ホームページのトップに、猪木の横顔と、「元気ですか!?」という、あまりにも人口に膾炙した言葉と共に掲げられているのが、「本作の狙い」を語る、次のような紹介文である。

猪木とは、「我々」にとって、
いかなる〝存在〟だったのか?
彼の発した【言葉】を切り口に、
〝挑み続けた男〟の真実に迫っていく。

ここで重要なのは、「猪木とは何者であったのか」ではなく、

『「我々」にとって、いかなる〝存在〟だったのか?』

という「問い」である。
要するに「既成の猪木理解」でもなければ「猪木自身によって与えられた猪木像」でもなく、『「我々」にとって』というところが重要なのだ。
なぜなら、猪木の「真の姿」などというものは、誰にもわかるようなものではなく、むしろ猪木本人にだって、よくわかっていなかったのではないだろうか。ただ猪木は、何らかの止みがたい衝動によって「アントニオ猪木という男」を生涯にわたって演じ続け、「自分は何者であるのか? 何者であることができるのだろうか?」と、そう問い続けた存在だったのではないだろうか? そして、そんな猪木の「わからなさ」こそが、他の誰にもない「アントニオ猪木の魅力」だったのではないだろうか。

(政治家に転じたアントニオ猪木は、キューバでフィデル・カストロと酒を酌み交わし、意気投合した)

そう考えるならば、ドラマパートの意味も自ずとわかるだろう。映画を観た人なら知っての通り、そのドラマパートが描いたのは「アントニオ猪木の人生(の再現ドラマ)」ではなく、「名もなき、ある猪木ファンの人生」を再現したものだった。
「教祖」の伝記映画を見に行ったつもりだったのに、「信者」のドラマを見せられたのだから、そりゃあ「何だこれ?」となる気持ちはわからないでもない。一一しかし、この映画は「アントニオ猪木教の信者」のために作られた映画ではない。
喩えていうなら、「復活したイエス・キリスト」という「正統教義」をそのまま鵜呑みにするものではなく、十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか(エリエリレマサバクタニ)」と嘆いた、人間イエスの「謎」に迫ろうとしたような作品なのだ。イエスが「完全な神」であるだけではなく「完全な人間」でもあったという「正統教義の矛盾」を直視しようとしたのが、この映画だと言えるだろう。
アントニオ猪木という人も、多くの「盲目的な信者」たちが考えるような、単なる「完全な神」でもなく、またアントニオ猪木に興味のない人が考えるような「芝居っけのたっぷりの道化師(としての人間)」というだけでもなく、この映画の中で、講釈師神田伯山が言っていたように「虚実皮膜に生きた人」としてのアントニオ猪木を描いたのが、この映画なのだ。「虚が嘘であり、実が本当」だというような単細胞な話ではなく、アントニオ猪木とは、その境界線上に立って、本人も「自分が何者なのか?」と問い続けながら生きたのが、アントニオ猪木という「わかりにくい人」の魅力なのではないだろうか。

だからこそ、この映画では、まず「われわれ信者とは、どのような存在なのか?」ということを、「鏡」を持ち出すようにしてドラマ化したのではないだろうか。「われわれは、このようにして猪木に魅せられ、熱狂し、そして励まされてきた」という事実を「まず、認めよう」。
猪木とは、我々にとって「救い」であり、猪木が「救い」であるのは、彼が「この世界のしがらみ」から、はみ出していく人だったからではないか。
そんな力を持たない私たちだからこそ、私たちはアントニオ猪木という「トリックスター」に憧れたのではないだろうか。

本作の中で、プロレスラーのオカダ・カズチカは、「考えれば考えるほど、猪木さんのことがわからなくなる」といったような、率直な感想を語っていた。
だからだろう「猪木さんと、もっとじっくりとお話をさせていただく機会が欲しかった」と繰り返し語っていた。これは彼の中で、アントニオ猪木が「解き得ぬ謎」であったからであり、直接話をすれば、多少なりとも「わかる」のではないかという、良い意味での「知的な好奇心」が、彼にはあったからだろう。
だが、私が思うに、アントニオ猪木その人と、いくら腹を割って話したところで、結局のところ「アントニオ猪木とは何者なのか?」という「問い」への回答が与えられることはないだろう。なぜなら、猪木自身だって、その「解答」も持っていなかったからであり、むしろ猪木は、その「謎」を知的に解こうとしたのではなく、その「謎」を生きることによって解き明かそうとした、選ばれた人だったのではないだろうか。

だから、「アントニオ猪木とは何者なのか?」という「謎」の前には、「対モハメッド・アリ戦」など、さほど重要なものではない。
なぜなら、「モハメッド・アリ」とは、猪木と同様に「虚実皮膜」を生きた人であり、その意味で彼らは「双生児」であり、そこにおいて、二人は互いを得難い「理解者」だと認め合ったのではないだろうか? 「こいつは、俺と同じだ」「こいつは、わかっている」という実感において。
一一そして、そこではすでに「同じ格闘家として」などという枠を超えてしまっている。つまり、「一流の格闘家」であれば、猪木を、あるいはアリを、理解できるというものではないのだ。彼らの魅力は「一流の格闘家」という枠には収まらない、その枠からはみ出していく「存在論的な過剰性」にこそ、あったからである。

「アントニオ猪木とは何者なのか?」と問うことは、すなわち「モハメッド・アリとは何者なのか?」と問うことなのである。だから、この映画では、殊更にアリを呼び出して「盛り上がる」必要などなかった。

したがって私たちは、「アントニオ猪木という偶像」あるいは「モハメッド・アリという偶像」に依存し、その「世俗的権威」に守られて、ぬくぬくと生きるのではなく、むしろそうした場所からはみ出していかざるを得なかった彼らの「真実」を、直視しようと努力すべきなのではないのだろうか。

無論、それで「正解」が得られるわけではないのだけれど、アントニオ猪木のファンなのであれば、モハメッド・アリのファンなのであれば、彼らが歩んだ道を、少しは歩もうと努力すべきなのではないだろうか?

「私は何者なのか? 何者であり得るのだろうか?」

猪木は、きっとそのように問い続けて生き、そして死んでいったのであろう。

『この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足がみちとなり、その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ。』

そうは言うけれど、たぶん『わかる』ことはないだろう。
だが、「わかる」と信じて踏み出せるところに、猪木という稀有な人の「燃える闘魂」があったのではないだろうか。




(2023年11月30日)

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