見出し画像

ショーン・ダーキン監督 『アイアンクロー』 : 「家族愛と強くあること」の呪縛

映画評:ショーン・ダーキン監督『アイアンクロー』2023年・アメリカ映画)

1960年代から70年にかけて、必殺技「アイアンクロー(鉄の爪)」をひっ提げて、日本においても、若きジャイアント馬場アントニオ猪木らと死闘を繰り広げたアメリカ人プロレスラー、フリッツ・フォン・エリック
本作は、「呪われた一家」とまで呼ばれた、彼とその家族たちの波瀾の人生を、次男ケビンの視点から描いた、文字どおりの「衝撃作」である。

フリッツは、信仰心厚い妻との間に、6人の息子に恵まれた。ただし、長男の「ジャック・アドキッソン・ジュニア」は幼少時に事故死しており、本作には「子供時代の姿」が少し描かれる程度だ。
また、実在した六男の「クリス・フォン・エリック」は、この映画には登場しない。映画の中では、フォン・エリック兄弟は、幼い頃に亡くなっている「ジャック・アドキッソン・ジュニア」も含めて5人兄弟として描かれ、クリスは存在しないことになっている。
その理由について、監督の証言を紹介した、次のような記事がある。

『映画では5人兄弟だが、実際のフォン・エリック・ファミリーは“6人兄弟”である。ダーキン監督は、6人分の悲劇を描くと多くの観客の心が耐えられないと判断し、“1人減らす”脚色を加えたそうだ。』

(映画.com「【トラウマになる実話】(以下略)」より)

つまり、兄弟が次々と死んでいくというこの物語において、4人もの「不幸な死に方」を描く必要はなかったということだろうし、あえて言えば、そこまでやると、繰り返しの弊に陥る可能性もあったので「一人削って、物語を引き締めた」と、そういうことなのではないかと、私は思う。
また、6人兄弟のうち、幼くして事故死した長男は別にしても、残された5人兄弟の、下の4人が若くして「不幸な死に方」をしてしまったというのは、それこそ「非現実的なまでに出来すぎた、悲惨な話」であり、そのせい(リアリティ担保のため)もあって、一人削ったということなのではないだろうか。

ここで、混乱を招かないように、現実の「フォン・エリック兄弟」の名前を、簡単な紹介とともに、以下に列記しておこう。

長男・ジャック・アドキッソン・ジュニア(幼少期に事故死)
次男・ケビン・フォン・エリック(本作の主人公・視点人物)
三男・デビッド・フォン・エリック(若くして病死)
四男・ケリー・フォン・エリック(交通事故で右下腿を失うも奇跡の復帰を果たすが、33歳で自殺)
五男・マイク・フォン・エリック(病気の後、復帰できないまま23歳で自殺)
六男・クリス・フォン・エリック(本作ではその存在を描かれず。21歳で自殺)

と、こんな具合になる。
つまり、現実には「6人兄弟」だが、映画の中では、上の「5人兄弟」だったということになっており、主に描かれるのは「次男のクリスから五男のマイクまで」の「4人」だ。

(本物の、デビッド、ケリー、ケビン)
(上の写真を模した、映画版の3人)

ちなみに、長男だけが「フォン・エリック」ではなく「ジャック・アドキッソン・ジュニア」と「苗字」が違っているのは、こちらが「本名」であり、「フォン・エリック」は「リング・ネーム(芸名)」だったからである。

兄弟の父親の「フリッツ・フォン・エリック」の本名は「ジャック・バートン・アドキッソン」であり、長男は、その父から「ジャック」の名前を引き継いだので、この映画の中でも「ジャック・ジュニア」と呼ばれているのである。

では、なぜ「フォン・エリック」なのかと言えば、それは、プロレスでいうところの「ギミック」として、悪役としての「ナチス・ドイツ」キャラクターを採用した、からである。
「ギミック」とは、多数いるレスラーたちそれぞれの「キャラを立てて、存在感を高めるため」の、多分に誇張された、フィクショナルな「キャラクター設定」だとでも理解すれば良いだろう。
実際、父のフリッツ(本名ジャック)は、アメリカ人なのだが、一見「ドイツ系」風ではあるし、戦後のアメリカでは、日本とドイツは悪の代名詞みたいなものだったのだ(有名な悪役日本人レスラーに「グレート東郷」がいた)。それを、正義のアメリカ人レスラーがやっつけることで会場が盛り上がったからこそ、「悪役」としてそう名乗ったのだが、息子たちに関しては、フリッツの家族として「フォン・エリック」を名乗ったものの、「ドイツ系」というギミックは採用せず、普通に「アメリカ人レスラー」ということになっていたようである。

(ジャイアント馬場をアイアンクローで攻め立てる、フリッツ・フォン・エリック)
ホルト・マッキャラニーが演じた、本作中のフリッツ・フォン・エリック)

外部の人間には、これは「設定」として、ちょっと不徹底なようにも思えるが、プロレスの世界では「ギミックチェンジ」と呼ばれる「設定変更」もしばしばなされるし、赤の他人が「兄弟」「家族」を名乗るギミックも当たり前にあったので、父子の「設定」が若干くい違っていても、大した問題ではなかったのであろう。
ちなみに「ギミックチェンジ」とは、例えばそれまでは「正統派のレスラーだった人が悪役に転向する」いわゆる「闇堕ち」のパターンや、その逆。あるいは、元のギミックでは、人気が出なかったため、完全にギミックを変えてしまうとか、覆面を被って、別のレスラーになってしまうとか、そういうこともなされるのである。
したがって、プロレスとは、時々言われるような「八百長」などではなく、「格闘技によるショービジネス」だということなのだ。

(お馴染みの、対戦相手を挑発するパフォーマンス)

 ○ ○ ○

さて、ここまでは本作映画と「現実」との差異を確認しておいたので、ここからはあくまでも「映画」の話として書いていこう。

本作が、独特の「迫力」を持つのは、「事実を元にした作品」であるからだというのは、論を待たない。
「現実そのもの」ではないとしても、つまり、六男クリスの存在を描いていないとはいえ、クリスも現実に「不幸な死に方」をしているのだから、本作は、本質的な部分では「嘘はついていない」と言っていいだろう。このあたりが、「プロレス」というものの「虚実皮膜」性と重なって、本作の興味深いところでもある。
「プロレス」を「所詮、八百長(お芝居)でしょ?」という人も、たぶん、この映画をとらえて「所詮、フィクション(作り話)でしょ?」とは言わないはずだが、その本質は同じなのだ。どちらも「フィクション」の要素を取り入れつつ、しかしそこでは、「現実」を「もうひとつの現実」が、効果的に演じているのである。

だが、そうした、本作における「メタレベルの意味合い」は別にして、「映画」として「語られた内容」というのは、比較的ストレートなものである。

要は、特別に「鬼親」ということではないが、絶対的な「家父長」である父と、それにつき従う母のもとに育てられた息子たちは、尊敬する父の指導のもとに「プロレス世界チャンピオン」になることを目指して素直に成長していった、その先の「悲劇」を描いていた作品なのだ。

実質長男の立場にある次男のケビンと、三男のデビッドは、父の期待どおりに、そのままプロレスラーになり、四男のケリーは、当初、円盤投げの選手としてオリンピック代表にまで選ばれたものの、アメリカの「モスクワオリンピック」ボイコットによって、その夢を絶たれて、レスラーに転向する。また、五男のマイクは、学生時代には音楽に興味を持っていたようだが、社会に出るにあたっては、家業としてプロレスラーに、当然のことのように、なる。一一と、こんな具合である。

(左から、三男デビッド、次男ケビン、五男マイク、四男ケリー)

父のフリッツは、一見「鬼親」ではないのだが、しかしそれは、家族みんなが彼に従順であり、「夫の」「父の」望むところ、期待するところに従うのが「当然だ」と考えて、素直につき従っているからに他ならない。だからこそフリッツは、叱咤激励こそすれ、声を荒げる必要もなく、日頃は「良い父親」でいられるのである。

(次男ケビンの結婚披露宴で、子供たちの様子を嬉しげに見守るフリッツ夫妻)

こうした、その本質において、いささか「歪な関係」は、三男デビッドの「急病死」をきっかけとした「不幸な死の連鎖」が始まるまでは、表面化しない。それまでは、この家族は「偉大な父親と素直な妻と息子たち」の「とても仲の良い一家」にしか見えないし、特に「長男気質」で「おとなしく優しい」次男のケビンは、両親と弟たちを心から愛し、自分が望むことは「家族と一緒にいることだけだ」と言うくらいの「家族思いの良い息子」なのである。

そんな素直な息子たちは、しかし、父の夢の実現に従順につき従うが故の、精神的・肉体的な無理が祟って、やがて、一人また一人と死んでいくことになる。
そのたびに、残された兄弟たちは、特に実質的には長男である次男のケビンは「どうして、何も悪いことなどしていないのに、自分たちだけが不幸に見舞われるのか」と悩むが、その悩みを父に相談しようとしても、父はそうした相談に応じようとはしない。父は「兄弟のことは、兄弟で話し合って解決しろ」と突き放すように言うだけなのだ。まるで、その問題を解決するのは、自分の役目ではないとでも言わんばかりに。

私たちは、こんな父フリッツの態度を、不可解に感じる。
「兄弟の問題は兄弟で解決しろって、あなたは、その兄弟の父親なんでしょう? 当事者の一人じゃないですか?」と、当然そのように考えるのだが、フリッツはそのようには考えていないようだし、こうした父の言い分に対して、息子たちも素直にひき下がって、どこか納得している節があるのだ。
そこが、私たちとしては、どうにも不可解なのである。

だが、彼らの価値観を全面的に受け入れてみれば、こんなふうに考えることもできるだろう。
「強く偉大な父」であるフリッツは、当然のことながら、子供たちにも「強い男であれ」と教育してきた。それは、息子の死に際し、その兄弟たちに「男は涙を見せてはいかん」と短く言う、その言葉にも明らかなことで、要は、父は子供たちにも「強い男」であることを望んだのだし、兄弟もその考えを正しいものとして受け入れてきたのだから、兄弟が事故死したとしても、それは「個々が乗り越えるべき問題」であって、「家族の問題ではない」ということになるのではないか。
また、兄弟の一人が自殺したと言っても、それも同様の話で、要は、当人が「弱かった」から自殺したのであって、それは家族にもどうしようもない「当人の問題」なのだから、相談されてどうできるものではないから、せいぜい「兄弟で話し合って」自分たちの弱点を直視し、より強くなることで解決しろ、つまり「おまえたち自身の力で、乗り越えていけ」という意味だったのではないだろうか。

要は、これは究極の「自己責任」論なのである。
だからこそ、それぞれの抱えた悩みは「内攻」して、自己破壊的な破綻への道を歩むことになる。家族の誰も「人間の弱さ」というものを是認することが出来ないから、皆が「自分自身の弱さを、内心で責める」ことはしても、金輪際、家族の誰かを責めたりはしないから、語られるのはもっぱら、理想としての「家族への愛」だけなのだ。

だから、その「理想」を追う彼らの姿は、基本的には美しいものだ。
けれども、その美しさは、人間が持っている「弱さ」や「醜さ」を、無理にでも抑圧して、無視することによって初めて成立している、あやうくも「不自然な美しさ」だったのだと言えよう。

したがって、彼ら兄弟のうちの一人にでも「俺は、レスラーになんかなりたくないし、ならない。なるかならないかは俺の決めることだ」と、そう言えるだけの「強い自我」が育っていたなら、そこから「虚構の美しき家族像」に亀裂が入って、このような「非現実的なまでの不幸」を招くことにもならなかったのではないだろうか。

(父から「アイアンクロー」の伝授を受ける三男デビッド。彼が最も期待されていたが、日本への遠征時に急病死することになる。それが連鎖する悲劇の始まりだった)

だが、彼らは誰一人として、彼ら自身のその「理想」を、あるいは、その「家族信仰」を疑おうとはせず、その結果として、「プロレスラーになった4人兄弟のうちの3人までが」その重みに耐えきれなくなって、次々と「殉教していった」と、そう言えるのではないだろうか。

幸い、次男のケビンだけは、愛する弟たちを次々と襲っていく「不条理な死」の体験の中に、最後は、一つの「条理」を見出すことになる。
それは「家族が、すべてではない」ということであり、「自分は自分の望む生き方をして良い」のだという、当たり前の「個人主義」の是認である。
それに気づくことによって、ケビンはプロレスを辞め、両親の下を離れて、妻と娘2人の家族で牧場を営む生活に移るのであった。
彼はそのとき初めて、父の期待を裏切り、「父の子」ではなく、一人の責任ある「大人」になったのである。

(次男ケビンはドリーと出会い結婚し、ドリーを家族に迎える。二人を祝う仲の良い兄弟たち)

つまり、「家族愛」も「兄弟愛」も「親への尊敬の念」も「親孝行」も、それらはすべて「美徳」であるから、それ自体が否定されるべきではないのだが、しかし、そうした「美徳」や「理想」というのは、あくまでも、それを行う「自分」があってのそれであって、自分を大切にできないかたちでの「美徳や理想の追求」というのは、やはりどこかで「歪(いびつ)」なものであり、ある種の「欺瞞」でもある、ということなのだ。
それは他でもなく、自分自身に対する「不誠実」であり「悪徳」だということなのであろう。
「フォン・エリック・ファミリー」に決定的に欠けていたのは、そうした、自立した、責任ある「個人」たらんとすること、だったのである。

したがって、本作が描くのは「家族の問題」であり、その物語であって、「プロレス映画」であることは、この映画の本質ではない。また、「フォン・エリック・ファミリー」という特定の(実在の)家族だけの問題でもない、ということになる。
そして、その意味で本作は、その本質としては伝記映画ではない」ということにもなるのである。

以上の解釈は、本作の監督であるショーン・ダーキンが、「カルト教団による洗脳トラウマ」を描いたデビュー作『マーサー、あるいはマーシー・メイ』で絶賛を浴びた人だと知れば、素直に納得のできるものであるはずだ。

もちろん、ダーキン監督は、もともと「プロレス」にも「フォン・エリック・ファミリー」にも興味があったようだし、その上で、「呪われた一家」と呼ばれることになる、この「家族の悲劇」の謎を解こうとして、本作を作ったのであれば、本作が、ありきたりの「プロレス(愛)映画」や「家族(愛)映画」に収まらなかったのは、当然のことであろう。

(プロレスシーンは、本物にまったく見劣りのしないものに仕上がっている。実在したレスラー(のそっくりさん)が登場するのも、古いプロレスファンには、たまらなく楽しい)

「宗教教団」が「愛」や「理想」を説いて、結果として多くの不幸や悲劇を生むという事実がある以上、いくら「愛」があっても、「愛」ゆえであっても、それが不幸や悲劇を招くには招くなりの「理由があったはずだ」という、そんな冷徹な視点から、本作は作られている。

そして、本作においてダーキン監督が見つけた「解答」とは、「家族愛という教義に縛られた、家族というカルト教団の悲劇」ということだったと、そうも言えるのではないだろうか。

日本でも「毒親」という言葉が一般化してひさしいけれども、その影響力に違いはあれ、「毒親」に限らず、「毒兄弟(姉妹)」や「毒友達」といったものまで、現実には存在しているだろうし、それらは「一見したところ」は「美しい」関係のように見えることも少なくなかろう。また、当事者たち自身も、本気でその「愛」を信じてさえいるのであろう。

しかし、「当事者間の主観」だけで済まされない「現実」もまたこの世にはあって、そうであるならば、私たちは「綺麗事の理想」を保持するのならば、それと同時に、同じだけ「冷徹なまでの客観視」のできる目を持たなけなければならない、ということなのではないだろうか。
その両極のどちらかが欠ければ、良かれと思って「愛する人を、不当に苦しめる」ことにもなりかねないのである。

本作は「愛ゆえの不幸」を描いた、痛々しくも胸をえぐる傑作だったと、そう評価して良い作品である。

特に、主人公のケビンを演じたザック・エフロンについては、見事な肉体改造に驚かされるだけではなく、その繊細な、痛々しいまでの「瞳の演技」を見逃すことは許されない。

またその点で、彼を「主演男優賞」の候補にすることさえ出来なかった「アカデミー賞」は、だからこそ「やっぱり当てにならない、お祭りにすぎない」のだという証拠にもなっていよう。
一一そこにも、愛するもののために、別の愛するものに犠牲を強いる、「病んだ愛」がある、ということである。

(不幸にもそこには、「家族の絆」という呪縛があった)



(2024年4月20日)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○




 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○



 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

映画感想文