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太宰治 『人間失格』 : 呪われたる〈独白〉

書評:太宰治『人間失格』(新潮文庫・文春文庫・岩波文庫ほか)

悩める青春文学の巨匠・太宰治の、泣く子も黙る代表作『人間失格』である。
この作品を、大真面目に貶すと石を投げられそうだ(適当に貶す人なら大勢いるだろう)が、私は決して貶したいわけではなくて、私には面白く感じられなかった理由を、自己分析しながら真面目に書こうと思っている。それなら、太宰や『人間失格』という作品の評価に、多少なりとも貢献できると思うからだ。
平たく言えば、好きだとか嫌いだとか、わかったとかわからないだとか書くだけなら、レビュアー本人以外には、何の意味もないと考えるからである。

太宰治は、もう四十年近く前の若い頃に何冊か読んでおり、悪くはないが特に惹かれもしないという感じだったので、それ以来読まなかった。だが、今になって『人間失格』を読もうと思ったのは、この代表作を読んでおかなくては、心おきなく太宰と「グッド・バイ」できないと思ったからだ。

昨年あたりから、そんな感じで、読み残していた「明治・大正・昭和の文士」たちの代表作を読んだ。志賀直哉永井荷風葛西善蔵正宗白鳥といった面々だ。
この中で、面白かったのは、正宗白鳥の評論文だけだった。白鳥の小説の方は読んでいない。他の三人は、今回読んでみて、これまで避けてきた自分の嗅覚は正しかったと思った。つまり、好きにはなれなかったのである(詳しくは、それぞれのレビューの参照を乞う)。
私が、好きな「文士」と言えば、夏目漱石と、ぐっと新しくなって大西巨人になる。いきなり大西巨人かと言われそうだが、好きなものは仕方がない。

たまたま昨日、太宰について、友人とLINEで少しやり取りをした。こんな具合である。

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(原作 朝霧カフカ、アニメ版『文豪ストレイドックス』の太宰治)

友人「(※ 『文豪ストレイドックス』に)小栗虫太郎が出てきたのか!」
 「そりゃ、夢野久作が早々に出てるんだから、(※ 作品が)続いていれば、そのうちに出ますよ。」
友人「異能「神聖悲劇!」\(//▽//)\」
友人「7、8巻まで読んだけど。」
 「(※ あんなにバカにしてたのに)読んだんかい!」
友人「(※ 友達の)●●さんにあげた」
 「昨日、『人間失格』を初めて読んだ。( ̄▽ ̄)」
友人「もう忘れた」
友人「異能、走れメロス!」
 「もうこれで太宰治は読まなくてもいいかなと。昔、いくつか読んで、合わないのはわかってたけど。でも『人間失格』は読んでおかないと、太宰を語りづらいからね。お片づけみたいなもの。」
友人「ナルちゃんでしょ。高校くらいで読む感じ」
 「ナルですね。それを言っちゃあ、おしめえよ。ですが。( ̄▽ ̄)」
友人「まだ、漱石のこころの方が読める。この二つが近代文学のロングセラー双璧とか」
 「どちらも心理小説ですが、夏目漱石は分析的で論理的なんです。太宰治は独白の泣き言系で、自身を相対化できない。」
 「(※ 『人間失格』は)ある意味では、乱歩の「人間椅子」とかと似てる。「私は変態のダメ人間です。人間失格なんです。ウヘヘ…」って小説ですからね」
友人「(※ 自己分析)しているつもりらしい。遺言のつもりだったみたいよ。」
 「ダメな自分に酔ってるみたいなところが救い難い。」
友人「そうね\(//▽//)\」
 「ダメと思うなら、改善の努力をしろよ、と。隠すか晒すしか、してない人でしょ。」
友人「まあ、それも文芸の楽しみではあるけど」
 「まあ、ストリップですからね。見せてナンボ。」

要は、私は「ゴリゴリ系」が好きで「ドロドロ系(メソメソ系)」が好きではない、生理的に合わない、ということなのだ。
同じ「人間を描く」にしても、「私はこんな人間です」という表現ではなく、「「私はこんな人間です」と表現してしまう私とは、どういう人間なのか」という「メタ・レベル」を持っている作家が好きなのである。

だから「似ている」と言っても、江戸川乱歩の一連の「人外」小説での泣き言なら、嫌いじゃない。「人間椅子」の男とか、『人間豹』の男だとか、「孤島の鬼」の男だとか、基本的にはぜんぶ乱歩自身の投影ではあるのだけれども、しかし、そこにはそんな自分の「変態性」を、要は「人間としての負性(まっすぐに生きられない弱さ)」だと思っているものを、いったん相対視してから描いているところがあるから、決して作者自身の泣き言にはなってなくて、鼻についたりはしない。
これは多分「探偵小説=推理小説=ミステリ」という形式に惹かれた、乱歩という人の「論理性」が、自身を感情をそのまま描くことをさせなかったからだろう。ミステリの世界では、アガサ・クリスティーの某作でも知られるとおり「信用できない語り手」という手法が意識されているから、自分の自意識だとか独白なんてものを、素朴に信用して、そのまま書けるなんて、考えはしないからだ。

もちろん、自分を「ダメな男」だと「美化」して、自己救済してしまうような「弱さ」というのを、倫理的に責めてたところで仕方がない。ストイシズムというのも、一種の才能だから、それの無い人に、それを求めるのは酷というものであろう。

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(小栗旬主演・蜷川実花監督作品、映画版『人間失格』の太宰治 )

そうした意味では、太宰は自分の弱点を、ちゃんと見世物にしたのだから、それはそれで一つのやり方であり強みだったと評価すべきなのだが、そこを、新潮文庫(昭和27年10月30日発行)の解説者である奥野健男みたいに、ベタに惚れ込んで絶賛しちゃうのも、同時代のファンとしては仕方がない部分はもあるとは言え、やはり解説者としてはどうかなと思わないでもないので、こんな小言めいたことを書いているのである。

じっさい、奥野自身、解説の中で『太宰治の文学的評価、文学史的位置づけは未だ確定していない。太宰文学を全否定して認めない文学者、大嫌いだという読者も少なくない。』と書いておきながら『そういう意味でも太宰治は日本で稀な特別の存在と言わねばならぬ。』などと安易に「救済(フォロー)」してしまっている。まともな文学者なら、読者の好悪が分かれることなど、決して珍しくなどないというのに。

ともあれ、解説者が、あるいは読者が、考えなければならないのは、「好きだとか嫌いだ」とか「わかるとかわからない」とかではなくて、「私は、なぜ惹かれるのか(惹かれないのか)」「私は、なぜ共感できるのか(共感できないのか)」といったことだろう。一一と、私などは感じてしまう。

しかしまあ「そのくらいのことをしなければ、読んだことにならない」などと思ってしまうような読者は、太宰向きではないということかもしれない。
所詮、人間は「一色(ひといろ)」ではないのだから、「感じるだけで十分」な人もいれば、そうでない人もいるし、作家だってそれは同じで、突き詰めていけば、人間とは「他人」のことなど理解することのできない、分断された生き物なのである。

それにしても、『太宰治の文学的評価、文学史的位置づけ』は、奥野の解説文から70年近く経った現在、果たしてすでに『確定』しているのだろうか。
「桜桃忌」に集まるような、コアな信者は一定数いるにせよ、実際のところ、太宰治と言えば「又吉直樹」か『文豪ストレイドックス』ということになっている現状では、決して『確定』したとは言えないのではないだろうか。

ならば、臆することなく、自分一個の新たな評価を提示するのが、非文壇的な現在の私たちがすべきことなのではないだろうか。

初出:2021年2月3日「Amazonレビュー」
  (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年2月18日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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