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〈純文学の粋〉であった : 葛西善蔵 『子をつれて』

書評:葛西善蔵『子をつれて』(岩波文庫)

こんにち「純文学」という言葉は、ほとんど死語と化しているから、「純文学」という言葉の意味を、あらためて考えるみる人もほとんどいないだろうが、「純文学」とは、要は「純粋な文学」という意味であり、どういう点で「純粋」なのかと言えば、それは「芸術」として「純粋」だということである。
では「芸術として純粋である」とは、どういうことを意味するのか。それは「俗受けをねらわない」ということであり、その意味で「芸術のための芸術表現」であろうとする、芸術作品だということである。そして、これを言い変えるなら「読者のための作品=商品としての娯楽提供作品」ではなく、「作者の芸術的自己表現としての作品=芸術作品」という意味なのである。
つまり、今の「文学」作品は、99パーセント「純文学」ではないのだ。

むろん「純文学」が「偉い」と言うのではない。だが、当然のことながら、こうした「芸術表現」は、存続すべきだし書かれるべきだ。商品にならなくても、他人に顧みられなくても、とにかく「書きたいことを書く」という姿勢は、表現の根幹に位置するものであり、それが失われてしまっては、表現は確実に枯渇していくことだろう。

しかし、当然のことながら、現代の資本主義社会においては、「純粋芸術」としての「純文学」は、きわめて分が悪い。世間の人々は「読まれてナンボだろう」と当たり前のように言うし、さらには「(商品として)売れてナンボだろう」とまで言っても、決してそれを怪しんだりはしない。それが、現代なのである。

そんな、ほとんど「化石」のごとき存在と化した「純文学」のなかでも、かつての日本において「最も純文学らしい純文学」と考えられたのが、「私小説」だった。
これは「作為(作り事)」を排して、「私」の中にあるものを、あるものだけで「純粋」に描こうとしたからであろう。「不純物ゼロの文学」が「私小説」だと、日本では、そう考えられたのだ。

そしてさらに「最も純文学らしい純文学としての私小説」のなかでも、「最も私小説らしい私小説」とは、この葛西善蔵が書いたような「貧乏と酒と女に明け暮れる、主人公の自堕落な生活」を描いた「私小説」だった。

なぜ、そんな「パターン」が「最も私小説らしい私小説」と考えられたのかと言えば、それは多分、それが「虚飾を排除した、裸形の人間の姿」に近いものだと考えられたからだろう。
「富貴であることは人間を飾らせて、その本性を見失わせ隠蔽する」「酒は、人の本性をむき出しにさせる」「女(恋愛)は、男(人間)の本質的対象である」といった側面があるので、「貧乏と酒と女に明け暮れる、主人公の自堕落な生活」こそが「人間を描く」という「純文学」の目的に、最も合致していると考えられたのであろう(もちろん、文壇人のすべてが、そう考えたわけではないが)。

そして、そうした「文学理解」は必ずしも「昔話」ではなく、今でもそうした「現実」が、完全に無くなったわけではない。だからこそ「私小説」を求める人は一定数いるし、車谷長吉や西村賢太といった、自覚的かつ戦略的なアナクロニズムの「私小説作家」が登場したりもする。
しかし、「文学」を需要層の現実からすれば、そういう「人間観」は「もはや古くなった」という事実も、否定できないのではないだろうか。

車谷長吉や西村賢太のような「一部エリートのための(一部趣味人のための)私小説作家」愛好の話は別にして、もはや、この現代社会においては、「豊か」であることが「人間性」を隠蔽するとは限らないし、「酒」が「人間性」の現実を開示するともかぎらない。「恋愛」は、今でも人気のテーマだが、それが「リアル」なものとして描かれるとは限らないし、「自堕落な生活」が多分に「演技的なもの」でないという保証など、どこにもない。
つまり、もはや「私小説」が、「純文学」になるとは限らないのである。

そして、そんな現代に生きる私たちからすれば、葛西善蔵の小説は、かえって一種「理解しがたいもの」に感じられる。「なんでわざわざこんな生活をして、こんなものを書いたのか?」。いや「なんでこんなものを書くために、こんな生活を好んで実行したのか?」。

しかし、その答はハッキリしている。彼らは「本物」が描きたかったのだ。それを描いたものこそが「芸術」であり「文学」であり、それだけが「命を賭するに値するもの」だと信じられたから、彼らはこのようなものを書くために、自分の生涯を賭けることができたのだ。

それを「文学信仰」あるいは「芸術信仰」と呼んでも、けっして間違いではないだろう。
しかし、そうした「信仰」を失ったとき、言い変えれば「高みを目指す意志」を失ったとき、文学は「効率的に娯楽を提供する商品」に堕してしまうだろう。それは「百円ショップ」の商品のように「安くて、それでも結構いい品」であるかもしれない。だが、そこにあるのは、ひたすら「消費財」であって、そこから「生まれてくるもの」は、ほとんどないのではないだろうか。

私個人は、葛西善蔵の私小説が、それほど面白いとは思わない。しかし、自身の人生を賭し、周囲の人を不幸にしてまでも、「文学の高み」を信じた作家たちを、私は「愚かだ」と思う反面、羨ましくも愛おしくも思うのである。

初出:2020年6月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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