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永井荷風 『墨東綺譚』 : 〈イケメン気取り〉のナルシスト

書評:永井荷風『墨東綺譚』(岩波文庫・角川文庫ほか)

若い時分であれば、こうした「自己中的な物語」にも、無条件に耽溺できたのかもしれない。
だが、歳をとって、醒めた目で読んでしまうと、主人公の作りからも透けて見える、作者自身の「イケメン気どりのナルシスト」ぶりが、いかにも興ざめだ。

むろん、これは年齢の問題だけではなく、そもそもその人の性格の問題でもあろう。ナルシストは、何歳になってもナルシストであって、人に自分を格好よく見せることしか考えず、そのために、他者をもっぱら自分に都合良く解釈したり、自分を飾る道具のように扱っても、それが一見「綺麗なもの」として描けさえすれば、それで充分だと思えるのであろう。

だが、私のような、知と理に傾いた人間には、この手の「自己陶酔」が何とも鼻持ちならず、とうてい「描写が素晴らしい」などと言って済ませることもできなければ、もとより楽しむことなどできない。

結局これは、金持ちの御曹司である荷風が、金持ちの御曹司らしく「金持ちの金ぴか文化」に反抗して見せ、「オレは違うのだ。オレは特別な美意識の持ち主なのだ」と、オレがオレがのアピールしているにすぎない。
「消えていく文化や風情」を愛おしむのも、栄耀栄華を誇るもの、例えば「軍部」の横暴を憎むのも、「あいつらとオレとは違う」という主張がその本質であって、それらの問題を直視しそれらと対峙した、とかいうような話ではない。そんな「社会性」など、荷風には薬にしたくてもないのである。

つまり、荷風のそれは、悪い意味での「反俗」、「ナルシスティックな反俗」であるからこそ、決して「超俗」ではありえない。「あいつらとは違う」と言う時の「あいつら=嫌悪すべき敵」がいなくては、荷風の「美意識」は成立し得ないのだ。

したがって、荷風の名声を前提として、彼を無条件に賛嘆するような人というのは、ある意味では、荷風にすら及ばない、単なる「権威主義者」でしかない。
つまり、本来、自己に自負を持つが故の「ナルシスト」であるにもかかわらず、実際には「権威主義者」でしかないというのは、荷風ファンである彼が、所詮は「自信のないナルシスト」であり、言い変えれば、いま流行の「承認欲求に強く捕われた人」だということなのではないか。

別のレビュアーも指摘しているとおり、主人公の巡査に対する、いかにもな上から目線に見られる「作家は知識階層である」という鼻持ちならなさや、春をひさぐ女に対する、これまた上から目線の理解者ぶり。さらには、その「二枚目気どり」と、自己の正当化には贅言を惜しむことを知らない臆面のなさなど、多少なりとも「理性的」であらんとする者には、鼻についてしかたない箇所が、あまりに多い。

しかし、こういう作品だからこそ「耽美主義=もっぱら自身の美意識に耽る態度」と呼ばれるのであろう。荷風ファンもまたそのようなものだからこそ、幸福にも、この作品の世界に耽溺できるのだ。

畢竟、私の美意識からすれば、永井荷風は、とうてい好きにはなれない人物であり作家である。

初出:2020年6月18日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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