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片山杜秀・島薗進『近代天皇論 一一「神聖」か、「象徴」か』 : 象徴天皇を〈犠牲〉にすべきなのか

書評:片山杜秀・島薗進『近代天皇論 一一「神聖」か、「象徴」か』(集英社新書)

天皇制の問題を、明治維新における「尊王」の源流である水戸学にまで遡り、そこから時代を追い下って、その時々、政治的リアリズムの選択結果として形成されてきた「擬制としての天皇制」を描き、最後に、平成の天皇・明仁が、自身の退位を提案した、かの「お言葉」(平成28年8月8日)の、その意味と評価を問うたのが、本書である。

政治学者・片山杜秀と、宗教学者・島薗進は、ともに私の信頼するリベラルで良識的な学者で、天皇制を「神秘的なもの」ではなく、徹頭徹尾「政治的必要性によって作られた擬制(フィクション)」として解き明かすその手際は、じつに見事である。本書は、その一点だけでも購読に値しよう。

しかし、結論の部分で、私は、本書の論者たちと、意見を異にしてしまう。

本書が刊行されたのは、天皇の「お言葉」から約5ヶ月後の2017年(平成29年)1月22日であり、現時点である2019年(平成31年・令和元年)5月13日からは約1年4ヶ月前である。
本書を刊行当時に読んでいたなら、私は著者たちの意見に同意したかも知れない。と言うのも、安倍政権のやりたい放題に異を唱えるかのごときタイミングでなされた天皇の「お言葉」には、その内容もさることながら、そこに暗に示された意志にこそ、私も強く共感したからである。
本書でも触れられているとおり、その時、多くのリベラルや左派は、天皇・明仁の意志とその影響力に期待したのだ。

しかし、その後の経緯を見ると、日本人大衆の天皇に対する態度は「土民の信仰」の域をまったく出ない(きゃあきゃあ騒ぐだけで、天皇の意志を汲み取れない)ものであり、天皇が国民に寄り添おうと身を粉にして働けば働くほど、かえって天皇制の〈宗教性〉だけが際立つようにしか、私には見えなかった。
だから、天皇の気持ちは尊重するものの、「国民に寄り添い、国民に愛される天皇」像というものも、決して安全なものではあり得ない。天皇を「同じ人間」と見ることのできない、「天皇幻想に心酔する国民」を増やすことは、決して望ましいことではない、とそう思えたのである。

だから、本書の著者たちによる、次のような言葉には、不満を覚えずにはいられなかった。

(1)『 そこには知識人の見通しの甘さも関わっています。戦後民主主義にコミットした知識人は、総じて天皇制批判をくりかえしてきました。まさか天皇自身が、平和憲法や戦後民主主義の防波堤になるとは想像だにしなかったでしょう。』(島薗・P222〜223)

(2)『 今上天皇が戦後民主主義の防波堤になっているがゆえに、天皇を神格化していくような全体主義をあまり考えないですんでいる。(中略)ただ、その防波堤が盤石かどうかはわかりません。』(島薗・P228)

(3)『 精神文化や伝統と言っても、日本には神道もあり、仏教もあり、儒教もあり、キリスト教もあり、皇室の伝えてきた伝統もあります。また、近代の非宗教的・世俗主義的な思想の影響も大きいです。それらの多様性を認めつつ、敗戦に至る経緯を踏まえ、近代国家の枠組みを再構成したものとして、「国民統合の象徴」としての天皇という制度があります。公共空間から精神文化や宗教的伝統を完全に追い出すことはできません。
 だからこそ、特定の伝統が国家と結びつき抑圧的に、あるいは排除的に働くことについて、じゅうぶんに警戒しなくてはならないのです。』(島薗・P240)

島薗の意見は、簡単に言えば、『公共空間から精神文化や宗教的伝統を完全に追い出すことはでき』ないので、『今上天皇』の体現する民主的な『象徴天皇制』をしっかり堅持すべきだ、それを『防波堤』にすることで、安倍政権的な(日本会議的な)宗教性の悪用を食い止めるしかない、ということであろう。
これは、安倍政権のやりたい放題が特に際立った時期の切迫感を背景とするもので、身も蓋もない言葉で言い変えれば、民主主義的にとって望ましい、天皇・明仁という存在を「人柱」にしてでも、民主主義を守らなければならない、ということである。
だが、たとえ天皇自らがそれを望んだとしても、私は「同じ人間」として、天皇を「人柱」の犠牲とするような考えには賛成しかねるし、「人柱」の犠牲死によって「天皇の宗教的権威(神秘性)」を高めるのは、後々に禍根を残す危険性が多分にあるとも考えるのだ。

(4)『 時代が変わったから戦後民主主義を捨ててしまおうというのではない。象徴天皇が国を超えた祈りを求めるように、戦後民主主義もまた国を超えた連帯まで視野に入れなくてはならない。』(片山・P233)

(5)『 結局、天皇の政治的イメージは、次のふたつに収斂されてきます。
 国民と水平的な関係を結ぶ天皇像というのは、基本的に自分の意思を表明せず、民の意見に耳を傾けてまとめていくような天皇です。天皇自身は何も決めない。祈ったり、人々の苦しみ、悲しみに共感したり、あるいは、みんなの意見を聞く。こちらが民主主義に適合するような天皇像です。
 ただ、これもゆきすぎると、現状肯定主義に陥っていく。「ありのままの日本が素晴らしい」といった日本の特殊性を強調し、「神の国・日本」というようなかたちにもなりかねない。だから社会と水平的な関係を結ぶ天皇像も、神格化と無縁ではないことに注意しなくてはなりませんが。』(片山・P221)

片山の意見は、あとがきにあたる「対談を終えて」のエッセイのタイトル「象徴天皇制の虚妄に賭ける」に、端的にしめされているとおりで、「象徴天皇制」が好ましいものだとは思わない(つまり、無くて済むのなら無い方が好ましい)が、現状をどう切り抜けるのかという難問をリアルに考えるならば、天皇・明仁が示した「民主主義的理想主義」の線に国民が従っていくという路線しかないので、「国民を妄信に導きかねない」危うさを含んではいるものの、ひとまずその点には目を瞑って、ここでは、リアルな選択肢であり次善の策としての「象徴天皇制」に賭ける、というものである。

(6)『 天皇と前近代的神秘性の結びつきを否定して、近代民主主義の合理性にかなうように天皇像を改めてゆく。敗戦以来の歴史に即すれば、その道を追及するのが戦後日本の道理であり、「人間宣言」→「お言葉」の方向を追及するのが戦後民主主義の大義でしょう。その道は昭和天皇と今上天皇によってずっと試され、戦後憲法体制になじみ、実を挙げてきたと思います。
 この先、「お言葉」の方向が極限的に展開され、民主主義の理念を日本がより原理主義的に徹底してゆくことがあるとすれば、先述のように天皇制が危うくなる可能性も否めないかもしれません。けれど、民主主義に限らず何事も、理念を純粋に原理主義的に実現すればよいというものではありません。国民に理性があれば落ち着くところに落ち着きます。極端には靡きますまい。くりかえしますが理性があれば! 「お言葉」の説く、国民との信頼関係を具体的行為の不断の積み重ねによって築き続ける象徴天皇のありようも、ハードルは高いと言っても、次代、次々代、次々々代の天皇によって受け継がれてゆけないものでは決してありますまい。
 たしかに民主主義と天皇制は究極的相性はよくありません。しかし、近代民主主義国家としての今のところもっとも長続きしているのは、極端に傾かず王室と民主主義的政体を宜しく両立させてきたイギリスであるという歴史的事実もあります。
 丸山眞男は「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と言いました。今上天皇の「お言葉」に深く説得された私としては、象徴天皇制の虚妄に賭けたいと考えます。』(片山・P246〜247)

片山の意見は、歴史をリアルなものとして捉え、そのような視点から見てきた歴史家らしい、リアリズムに貫かれた「選択」である。言い変えれば、民主主義の理想を原理主義的に進めることを選択し、天皇制を否定することは「現実的」ではなく、「天皇制そのもの」の肯定ではない「戦後の象徴天皇制」というものを、今は「方便」として選択するのが、リアルな政治的選択なのではないか、というものだ。だから、私もこの意見がわからないではない。いや、よくわかる。

しかし、ここで意図的に語り落とされているのが「天皇の人権あるいは人格を犠牲にする(人間扱いにしない)」ということなのだ。

片山はここで『「お言葉」の説く、国民との信頼関係を具体的行為の不断の積み重ねによって築き続ける象徴天皇のありようも、ハードルは高いと言っても、次代、次々代、次々々代の天皇によって受け継がれてゆけないものでは決してありますまい。』と書いているが、これは裏を返せば、天皇・明仁がボロボロになりながらも実践して築き上げた「平成流」的な民主主義的「象徴天皇制」というものを『次代、次々代、次々々代の天皇』が継承し実践していくことは、極めて大変な労苦だ、との認識のあることを示している。
それが、非人間的なまでに困難な仕事だと知っているのに、片山はそれを『次代、次々代、次々々代の天皇』に強いようとしているのだ。私たちの民主主義のために。

しかし、仮にそうした『人格を否定する動き』を『次代、次々代、次々々代の天皇』が、国民のために引き受けてくれたとしても、前述のとおり、主権者である、肝心の国民の方が、天皇の意志と願いを正しく受けとめ得るという保証など、どこにもない。
いや、前述したように、天皇・明仁の退位前後の「元号フィーバー」や「新札フィーバー」あるいは「号外を奪い合う姿」などを見ていると、日本国民の天皇を見る態度は「パンダ」や「ゆるキャラ」に対するとそれと大差はなく、ただそこに「天皇制」ゆえの「宗教性(神秘性)」が加わるだけ「質の悪いもの」でしかないのではないか。端的に言って、日本の国民大衆に「理性」など期待できないのではないかと、私にはそう思えてならない。
そして、そんな期待できない「賭け」に、「天皇たちの人格」を賭けて犠牲を強いるのは、結局のところ「悪しき天皇利用の再演」でしかないのではないか。
丸山眞男が賭けた「戦後民主主義」とは所詮「観念」でしかないけれど、片山が賭ける「象徴天皇」とは「人間」であり、同列に扱いって良いものではないと思うのである。

つまり私は、片山のように「象徴天皇制の虚妄に賭けよう」とは思えない。むしろ「幻想の民主主義的理想に賭けよう」と思う。
それを、多少原理主義的に追及したところで、どうせ中途半端なところに落としどころを見つけるのが、日本人の日本人たるところなのだから、それでいいのではないかと思うのだ。

そして、天皇には過大な要求をせず、つまり、無理を押しつけて犠牲にすることなく、適当に人間らしく、自分のために「ユルく」生きてほしいと思うのである。
そして、それで天皇制が無くなるのなら、それは天皇のためにも、日本国民の「自立」のためにも、大いに歓迎すべきことだと、そう思うのである。

【関連レビュー】
・ 気持ち悪い日本人たち 一一大塚英志『感情天皇論』
・ 〈籠の鳥〉の悲しみ 一一原武史『天皇は宗教とどう向き合ったか』
・ 天皇・皇后が感謝するであろう本 一一原武史『平成の終焉 退位と天皇・皇后』
・ 近視眼的で非歴史的な「天皇」像 一一奥野修司『天皇の憂鬱』


初出:2019年5月13日「Amazonレビュー」

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