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原武史『平成の終焉 退位と天皇・皇后』 : 天皇・皇后が感謝するであろう本

書評:原武史『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)

天皇が、ホモ・サピエンスであり、私たちと同じ「ただの人(人間)」だと、日本人の多くは、本当に理解しているだろうか。

性欲もあれば、排泄もする、腹を立てたり、人を怨んだり、時に自惚れ慢心したりする、私たちと同様の「ただの人」の一人に過ぎないということを、本当に理解しているだろうか。

それとも、天皇というのは、イエス・キリストや釈迦のような神仏に近い存在、「性欲もあれば、排泄もする、腹を立てたり、人を怨んだり、時に自惚れ慢心したりする」なんてことはない存在。つまり、非ホモ・サピエンスだと思っているのだろうか。

少なくとも、外国人から見たら、天皇に対する日本人大衆の態度は、昔も今も、後者なのではないだろうか。

「いや、私は天皇陛下は、ただの人間だと思っている。ただ、あの方は、かなり特別に立派な方なのだ」と言う人も少なくないだろう。

だが、教祖を「神」のごとく崇め奉る信者でも、教祖自身が「私はただの人間だ」と言えば、その信者も教祖が人間だと認めはするだろう。しかしそれは、理屈の上だけのことであって、内心は「神」のように感じている場合が少なくないだろう。

例えば、創価学会員に「池田大作SGI会長は、人間ですか? 神様ですか?」と尋ねれば、「人間ですよ」と答えるだろうが、池田会長の最盛期には、会員の中での非公式な見解として「池田先生は、日蓮大聖人(または上行菩薩)の生まれ変わりだ」などという俗説も(気持ちの問題として)現に語られていたのである。
つまり、人の「理屈と実感」の関係とは、だいたいこういうものなのである。

だから、天皇が「ただの人」ではなく、何か「それ以上の人」と感じている人が大勢いても、なんら不思議ではない。
と言うか、同じ「ただの人」だと思っていたなら、何時間も前から出かけてゆき、沿道に並んで小旗を振るなんてことはしないだろう。「ただの人」ではないと思っているから、そんなことまでできるのだ。だが、こうした自覚を持つ日本人は、極めて少ないのではないだろうか。
(ちなみにこれは、偶像としてのアイドルという意味でのタレントに対する意識と同じで、彼や彼女を「特別視」できなければ、それはもはやそれはアイドルではない。だからこそ、熱心に追っかけたり投資したりすることが出来なくなるのである)。

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しかし、こうした「無自覚な天皇信者」たちも大いに問題ではあるけれど、こんな信者たちに取り巻かれる「ただの人」である天皇の方も、じつは多分に「危ない」という点が、案外、見落とされがちである。

たとえば、平成の天皇は、基本的に「いい人」なのだろうし、頭も悪くないのだろうけれど、とにかく育ちが育ちだから、どうしたって自分が「特別な人間」だと思っている。
たしかに「特別な人」ではあるのだけれど、それは「立場が特別であり特異」なのであって、「人間の作りが特別」だというわけではないのだが、そこを本人も勘違いしてしまう可能性が大いにある。

どんなに、頭のいい人でも、人柄のいい人でも、「特別な地位」に祭り上げられ、皆からチヤホヤされたら、自分を「特別な人間」だと勘違いしてしまいがちだ。
タレントや学者、経営者なんかも、人前ではいちおう謙虚ぶっても、内心では慢心している人も少なくだろう。それは当然なのだ。人間は弱いのだから。

で、これは天皇だって変わらないはずなのだ。
ただ、彼の地位が「統治権力」と密接に結びついているという歴史的事実において、そうした勘違いは、極めて危険なのである。

例えば、本書では、美智子上皇妃についての、こんな証言が紹介されている。

『(※ 天皇・皇后を交えて御所で開催される参与会議の)出席者の一人は、「皇后(※ 美智子)さまは議論にお強い方です。公の席での雰囲気とは全然違います。非常にシャープで、議論を厭わないのです」と述べています。』(P164、※は引用者補足)

言うまでもなく、これは「誉め言葉」として語られているのだが、これを読んで「あまり嬉しくない」という感情を持つ国民は、少なくないはずである。
というのも、日本国民の多くは、美しい美智子上皇妃に「慈母のごとき優しさ」を求めており、またそのような人だと信じてすらいるので、「議論で他者を圧するような、知的な切れ者」という属性の存在は、むしろ邪魔でしかなく「イメージダウン」の要素にしかならないからだ。

そして、それは美智子上皇妃自身も「明晰に自覚している」からこそ、国民の前ではそうした「切れ者」ぶりを隠し、カトリックの聖者であるアッシジのフランチェスコや聖母マリアを意識して、国民に期待されている「慈母」(の側面の強調)を演じているのである。

もちろん、美智子上皇妃が「慈母のごとき人」であること自体は悪いことではない。それに、人間とは多かれ少なかれ「演じている」部分があり、善き人間であろうとして善き人間を演じることは、おおいに歓迎すべきことであって、賛嘆されてよい行ないだとも言えよう。

しかし、問題は、美智子上皇妃が「一般人」ではなく、まさに「皇后」であったり「上皇妃」といった「擬制としての天皇制」における「役割」を担った「特別な立場」にある人だ、という点にある。

つまり、そういう「政治的フィクションとしての立場」にある人が、その「政治的フィクション」を強化するような「お芝居」をすることは、必ずしも好ましいことではなく、時に「危険なこと」ですらあるのだが、「慈母のイメージ」に危険性を読み取れる人は、ごく限られているので、余計に危険なのだ。
そして、無論これは美智子上皇妃にかぎった話ではなく、天皇や上皇といった「擬制としての天皇制」によって「役割付与された人々」全員に言えることなのである。

平たく言えば、人間としては「ただの人」の一人でしかない彼や彼女らが、「擬制としての天皇制」によって「役割付与された肩書き」の上に、さらにそれを強化するような「演技」をすることは、彼ら自身をさらに「非人間化」することであり、「政治の道具」性を強化することにしかならないのである。

そして、そのひとつの「残念な帰結」が、雅子皇后の適応障害をひき起した『人格を否定する』保守的な考え方や動きなのだ。
そこでは「普通の人間=ただの人」であることが出来なくなり、「国民が期待する、偶像としての天皇・皇后(皇族)」像や「擬制としての天皇制が要求する天皇・皇后(皇族)」像の「強制」が、当然のこととして正当化されてしまいがちなのである。

だから、天皇であれ皇后であれ、「人として立派な人」であることを目指すのは結構なことなのだが、「フィクションとしての天皇・皇后像に酔って(あるいは、信仰して)、それを強化するような振舞い」は、現に慎むべきなのだ。

当人たちは善かれと思ってやっているのかも知れないが、「理想が、人を殺す」ということは、歴史上、嫌というほど繰り返されてきたことなのだから、真の知性があるのであれば、自身の「危険な立ち位置」に、もっと自覚を持つべきなのである。

そして、そうした意味において本書は、平成の天皇・皇后であった、現上皇・上皇妃が「読むべき本」である。
たしかに「耳に痛い指摘」は多いだろうが、彼らが「本物の人格者」であるのならば、本書を喜んで読み、そして感謝するはずなのだ。

ともあれ、本書は勇気ある「天皇・皇后」批評の書である。
「空気」に流されやすい日本人というのは、学者であっても例外ではないが、そうした中にあって、著者は「危険な空気」に敢然と抗ってみせた。
その事実は、同時代よりも、むしろ後世において歴史的に賛嘆されるものとなるであろう。

初出:2019年5月3日「Amazonレビュー」

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