キャロル・リード監督 『第三の男』 : 「光と闇」の悲恋物語
映画評:キャロル・リード監督『第三の男』(1949年・イギリス映画・モノクロ作品)
すでに語り尽くされているのであろう、名作中の名作。1949年のカンヌ映画祭ブランプリ、1951年のアカデミー賞・撮影賞の受賞作である。
何を書いても、新しいことなど書けそうにもないから開き直って書くしかないのだが、本作の評価は、主に次の「三つの層」において可能だと言えよう。わかりやすい順に言うと、こうなる。
(1)の「映像的な素晴らしさ」については、本作を観れば一目瞭然で、アカデミー賞の「撮影賞」を受賞していることからも、それは裏付けられる。
カンヌではグランプリ(作品賞)を取りながら、アカデミー賞では「撮影賞」受賞に止まったものの、言い換えれば、そこだけははずせないほど、際立った「映像美」の作品だったということだ。
本作の「映像美」については、観れば誰にでも分かることだから、贅言をついやさずに、いくつかの点についてだけ指摘しておくと、まず「モノクロ作品」の利点を最大に活かした、「光と陰=白と黒」のメリハリの利いた画面作りである。
オーソン・ウェルズの好演で有名なハリー・ライムの登場シーンに典型的なように、物陰に隠れているときは、陰の空間が真っ黒で、ぼんやりともその姿が見えないが、そこに光が差すと、ハリー・ライムの顔がくっきりと浮かび上がり、光が逸れた途端、また真っ暗になって、完全に見えなくなってしまう。この「中間層」を切り捨てた「白と黒」のギャップ、「光と陰」のコントラストを際立たせた「絵作り」が、いかにもシャープで美しいのだ。
もちろん、これはこうしたアップショットだけではなく、風景がいちいち美しい。特に、「光と陰」のコントラストを際立たせることのできる「夜の街」や「ウイーンの巨大な下水道空間」などでは、その風景だけで見惚れてしまう。
また、夜景シーンでの、建物の壁に沿って移動する「巨大な人影」は、明らかにF・W・ムルナウ監督の影響下にあるもので、例えば『吸血鬼ノスフェラトウ』などで効果を発揮したのと同様、サスペンスの盛り上げに大きく寄与している。
あと、「光と陰」ではないが、画面を故意に傾けたショットも、緊張感をもたらす破調として効果的であった。
(2)の「サスペンスもの」としての面白さは、「ミステリーもの」らしい「冒頭での謎の提示」と、主人公・ホリー・マーチンスの、いかにもアメリカ人らしい「ハードボイルド探偵=都会のカウボーイ」的な活躍に「美女」が絡むといった展開で、とてもわかりやすいものとなっている。本作が「ノワール(犯罪もの)」と呼ばれる所以である。
なお、原作者であり脚本を書いたグレアム・グリーンは、スパイ小説の書き手として知られる人だが、この人自身、コードネーム「007」ことジェームズ・ボンドと同じ、イギリスの国家諜報機関である「MI6」(軍情報部第6課)で勤務した、本物のスパイだった人である。
もちろん「スパイ」と言っても、物語の中のような派手なものではなかったろうが、むしろ「人を騙す(信頼を裏切る)」という「苦さ」において、同じくスパイだったジョン・ル・カレのスパイ小説と同様の「苦さ」を持つことにもなっただろうことは、本作との関係でも無視し得ない点であろう。
もともと私は「ミステリー小説」ファンなので、この程度のことは「ひととおりの情報」としては知っていたし、ル・カレの代表作や、ブライアン・フリーマントルのスパイもの(チャーリー・マフィンシリーズ)などもいくつかは読んでいる。
だが、基本的には「謎と論理とトリック」の「本格ミステリ(謎解きミステリ)」が好きだったので、スパイもの(エスピオナージュ)はほとんど読んでおらず、グレアム・グリーンも何冊かは買ったはずだが、結局はいまだ1冊も読んでいないから、詳しいことは知らないし、正確なことは言えない。
とは言え、グリーンが実際に「スパイ」をやっていたという経験は、その「人生観」におのずと影を落とさざるを得ないという程度のことは言えると思う。言うなれば、「本格ミステリ」が「理屈で割り切る、抽象的で数学的な世界」なのに対して、「スパイ小説」は「白黒が容易に逆転して、正邪の確定しえない不条理かつリアルな世界」を描く傾向にある、とそう言っても間違いにはならないはずだ。
なお、ここで、後の(3)の「深読み」のために、本書の「あらすじ」を紹介しておこう。
いわゆる「ネタバレ」ではあるが、本作はすでに古典に属する作品であり、かつ「ミステリーもの」としての「冒頭の謎」も、もはや「よくあるパターン=入れ替わりトリック」であり、作品全体の中での重要度は低いので、明かしてしまっても問題はないと思う。
すでに、要点は示してあるから勿体ぶらずに書いてしまうが、本作には「ホモセクシャル」な空気が、濃厚に流れている。
主人公のアメリカ人ホリー・マーチンスは、戦争中に会えなかった、子供の頃からの親友、彼が「心の友」と呼ぶ、ウイーン現住のハリー・ライムから、航空券まで同封されたされた招きを受け、はるばるウイーンにやってくる。再会に心を躍らせてライムのアパートを訪れるマーチンスだが、そこで彼を待っていたのは、ライムが前日に交通事故死して、さっき棺が担ぎ出されたばかりだという知らせであった。
この後マーチンスは、ライムの死の状況に疑問を覚えて、真相を解明しようと関係者を訪ね歩くのだが、その中で、ライムとつきあっていた美女アンナ・シュミットとも知り合い、彼女に惹かれることになる。
こうした「探偵もの」らしい展開は、とてもわかりやすいものなのだが、この映画でハッキリと説明されていないのが、
といった点だ。
この物語は、ライムを「心の友」とまで呼んで信頼し、要は「いい奴」だと信じきっていたマーチンスが、実はライムが非情非道な犯罪に手を染めている人物だと、(占領地区の治安を担当するイギリス軍警=MPの)キャロウェイ少佐から知らされて、ライムを「庇うべきか、法の裁きにつけるべきか」と悩むお話だと言えるだろう。要は「友情か正義か」の葛藤である。
当初、マーチンスは、あの「いい奴」であるライムが、そんな犯罪に手を染めているわけがないと、キャロウェイ少佐の言葉を信じず、みずからの手で真相を暴いて、ライムの「冤罪」を晴らしてやろうとする。
マーチンスは「西部劇小説」を書いている小説家という設定になっているが、要は「アメリカ的に素朴でわかりやすい、正義漢」なのだ。
ところが、調査が進んでいくうちにライムへの疑いが否定できないものとなっていき、とうとうマーチンスの前に姿を現したライムは、疑われた犯罪を事実だと認め、さらに彼の「犯罪哲学」を、マーチンスに披瀝する。それは、つまらない「その他大勢」の命に、どれだけ価値があるのかといった、独善的で鼻持ちならない「エリート思想」であった。
ライムは、彼の告白を聞かされて動揺するマーチンスに、自分の仲間にならないかと誘う。しかし、当然のことながら、正義漢のマーチンスは、その誘いを嫌悪を持って断るのだが、それに対しライムは、場合によってはマーチンスを殺して口封じすることも辞さないと匂わせさえする。
結局、マーチンスの信じたライムは、少なくとも「今」は、彼の信じたようなライムではなかったというのが明らかになった。ライムが「変わった」のか、それとも、昔からそんな奴だったことに気づかないまま、ライムの虚像を信じていただけだったのか?
だが、どうあれライムが非情非道な犯罪者であるとわかり、子供を含む多くの被害者の悲惨な姿を知ってしまったマーチンスは、キャロウェイ少佐への協力を決める。
ところが、彼が惹かれていたアンナは、彼女自身もライムに騙されていたことを知り、ライムの非情非道な犯罪を知ってでも、ライムを愛していることには変わりはないと言って、ライムを売ろうとしているマーチンスを、「友情」を捨てた裏切り者と批判して、マーチンスを悲しませるのである。
結局、おとりになったマーチンスに会いに出てきたライムは、張り込んでいた軍警隊によって包囲され、地下の巨大な下水道構へと逃げ込むも、迫ってきたMPを撃って負傷させる一方、自身も撃たれて負傷する。
そして最後は、行き止まりで逃げ場を失っているところにマーチンスが現れると、ライムは黙って頷きマーチンスに「射て」と促し、下水道の地下空間に一発の銃声が響き渡る。マーチンスは、ライムの望みどおりに、彼を射殺したのであった。
このシーンで、映画の幕は閉じる。
グレアム・グリーンの小説では、このラストシーンで、アンナがマーチンスを受け入れるハッピーエンドとなっているそうだが、無論、この映画版の「ビター・エンド」の方が優れているのは明白だし、物語としても筋が通っているだろう。
さて、ここまで紹介した上で、端的にいうなら、アンナの存在は、ライムとマーチンスの「ホモセクシャルな友情」の「煙幕」と見ていいと思う。
もちろん、ここでいう「ホモセクシャルな友情」というのは、「肉体関係がある」とかいった話ではなく、あくまでも「精神的なもの」であり、少なくとも、シンプルな人間であるマーチンスの方には、そんな感情は無いか、まったく「気づいていない」と言っていいだろう。だが、ライムの方は、微妙なのである。
ライムは、犯罪者ではあれ、かなりの「切れ者」のように描かれている。そして、そんな彼が、どうして軍警察の影がチラホラするマーチンスのもとへ、何度もノコノコと現れたのか? これは、彼にはいかにも不似合いな行動なのではないだろうか?
この謎は、ライムが、マーチンスに「恋していた」と考えれば、さほど不自然なことではない。
頭では「やばい」とわかっていても、危険を冒してでも会いに行かずにはいられなかったということであれば、納得もできる。いくら頭が良くても、やはり「恋は盲目」なのだ。そして、そのために賢いはずのライムが、愚かにも身を滅ぼしてしまうことになるからこそ、ライムは「哀れ」であり、愛人の手にかかって死ぬことを望んだライムの最期は、哀切なものになっているのである。
そもそも、賢いライムであれば、シンプルな正義漢であるマーチンスが、彼の犯罪に協力するとは思わなかったはずだ。ならば、なぜマーチンスを遥々呼び寄せたのかと言えば、それは無論、会わずにはいられなかったからである。
所詮は身の安全のためだけに、アンナまで騙して姿をくらましていたライムは、決してアンナを心から愛していたとは言えないだろう。要は、この機会に別れてもよかったのだ。
だが、マーチンスについては、そうではなかった。正義漢のマーチンスが、犯罪の仲間になる可能性は限りなく低いとわかっている、頭の良いライムでありながら、しかし「もしかすると」という期待を捨てられずに、マーチンスにくりかえし会いにきたというのは、「恋する者の愚かさ(盲目)」なのではないだろうか。
たぶんライムは、子供の頃の、ある時期から、親友マーチンスに対する「友情」が、単なる「友情」ではなく、「恋情」であることに気づいていたのであろう。彼は、とにかく聡明だったのだ。
だが、マーチンスは、そういう繊細の男ではなく、わかりやすい「正義漢」であり「友情に厚い、男の中の男」だったから、ライムの感情にはまったく気づくことなく、シンプルに「親友」であり「心の友」だと、そう信じきっていた。
また、ライムの方も、マーチンスが、自分とは真逆の「光の世界に生きる男」であることを重々知っており、そこにこそ惹かれもしたのであろうが、しかし、マーチンスの自分に対する感情が、そうした「光の世界での友情」に過ぎないことも理解しており、もしも自分が「本当の気持ち=闇の世界での愛情」を打ち明けたなら、彼に嫌われる(彼には理解できない)とそう恐れて、ずっとその「恋情」を隠し続けてきたのであろう。
しかし、戦争が二人を引き裂いている間に、ライムは戦時下において「人間社会の非情さ」という「現実」に触れて、その「闇」を受け入れてしまう。
それは無論、彼が「本当の姿=同性愛者」であることを明かせば、ユダヤ人と同様に「非人間扱いにされるという過酷な現実」を思い知らされたということであり、そんなこの世界に絶望したからこその「闇堕ち」だったのではないだろうか。
「そっちがその気なら、こっちもそのつもりでやらせてもらう」という「絶望に由来する、暗い復讐心」である。
だが、それでもライムは、マーチンスへの気持ちだけは捨てられなかった。だから、マーチンスを呼び寄せたのだが、やはり二人は同じ世界で生きることはできないのだと悟らされることになり、ライムは愛する人の手で、この「愛の報われない世界」から去ることを望んだ、ということではなかったろうか。
アンナが、最後にマーチンスを袖にするのは、論理的に正しい。なぜならば、彼女もまた「闇の世界の住人」であり、「正義や道義」よりも、躊躇なく「恋情」を選んで迷うことのない人間だったからである。だから、彼女がマーチンスと結ばれることは、あり得なかったのだ。
そんなわけで、本作は「悪魔の天使に対する悲恋物語」だと解することができる。
彼は、「闇の世界である地下に住む魔王」であり、たしかに「悪魔」ではあったけれど、マーチンスへの「恋情」にだけは、嘘はなかった。だからこそ、二人の関係は、「悲劇」で終わらざるを得なかったのだ。
そして、この物語がこうした「交わることのない闇と光のコントラスト」に彩られたものだったからこそ、本作は「絵と物語」の見事に一致した作品だったと言えるのではないだろうか。
「Wikipedia」には、次のような指摘がある。
「ホモセクシャルの物語ではない」のに、そうだと「誤解されることを恐れた」というよりも、本作は、本質的な部分で「ホモセクシャル」的なものを描いているからこそ、そこを慎重に「隠した」ということなのではないだろうか。一一それが、否応なく必要な「時代」だったのだから。
そうした意味をも含めて、本作は「光と陰」あるいは「光と闇」の、美しくも哀しい「断絶の物語」だったのであろう。
はたしてこれは、考えすぎなのだろうか?
(2023年12月10日)
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